第21話 美味いとしか言わない店
雨の夜ってのは、出汁が澄む。
客足が遠のいて、寸胴の前が静かになるからだ。
──商売としちゃ困るが、出汁の番としちゃ、悪くない夜だ。
梅雨入りから三日目。
頭の上の庇を、雨が一定のリズムで叩いている。
配信は休みにした。機材ってのは水に弱い。十年物の包丁と違って、拭けば済むって相棒じゃない。
零時を回って、客はゼロ。
国家認定だの、トレンド一位だの、ここしばらく騒がしすぎた。
世界ってのは存外律儀で、騒いだ分だけ、こういう静かな夜で帳尻を合わせてくる。
看板を早めに仕舞うか──と思った頃、雨音の向こうから、足音がひとつ。
傘も差さずに、銀色が立っていた。
「……開いてる?」
「客が来たなら開いてる。まず、これで拭け」
タオルを投げると、リンは律儀に頭から拭き始めた。
猫の行水ほどの雑さだった。強さの序列に、拭き方の項目はないらしい。
「今日は、配信ない?」
「雨だからな。──残念か」
「……ううん。むしろ」
定位置に座って、リンは小さく付け足した。
「……静かなの、久しぶり」
雨の夜のために、仕込んでおいたものがある。
雷鹿の筋。S級だろうと、筋は筋。固くて安くて、誰も買わない部位だ。
だが三日かけて下茹でして、味噌と生姜でゆっくり炊くと、これが化ける。
筋ってのは、かけた時間の分しか応えない。──ただし、かけた分は必ず応える。
「ほら。雨の日の賄いだ。熱いぞ」
リンは両手で椀を受け取って、湯気をひとつ吸い込んでから、口をつけた。
動きが、止まった。
「……何、これ」
「雷鹿の筋。市場じゃキロ二百円だ」
「……嘘。こんなに、柔らかいのに」
「固い肉ってのはな、不味いんじゃない。時間をかけてもらえてないだけだ」
リンの蓮華が、また動き出した。
いつもの、綺麗な食い方。それを眺めながら、俺は二杯目の支度にかかる。
こいつの一杯目は、挨拶みたいなもんだからだ。
二杯目の途中で、箸が止まった。
こいつの箸が止まるのは、よっぽどのことだ。
「……今日。事務所で、表彰された」
「ほう。そりゃめでたい」
「……討伐数、歴代一位の更新。スポンサーが八社来て、カメラが二十台来て。みんな、おめでとうって言った」
めでたい話のはずなのに、声がどんどん細くなっていく。
俺は寸胴の火を、少しだけ落とした。
長くなる話の気配ってのは、出汁の煮詰まる気配と似ている。
「……ねえ。私、十二の時に、初めて魔獣を倒した」
「早いな」
「それから七年、ずっと言われてきた。すごい、強い、最強、人類の切り札。……褒められてるのは、分かる。ありがたいのも、分かる。でも」
リンは、椀の中の揺れる味噌の色を見ていた。
「……私、強さしか、褒められたことがなかった」
雨の音だけが、しばらく続いた。
「七年間、誰も。学校のことも、髪のことも、今日あった面白いことも。……私が弱くなったら、何も残らない。そう思うと、たまに、息が」
言葉が、そこで途切れた。
俺は説教も慰めも持ち合わせちゃいない。
倉庫番の語彙に、そんな上等な棚はない。
だから、やったのはいつもの仕事だ。
三杯目を装って、カウンターに、こと、と置いた。
「リン。うちの店の決まりを、教えといてやる」
「……決まり?」
「うちは、美味いかどうかしか聞かない店だ」
リンが、顔を上げた。
「強いか弱いかは、ダンジョンの中の話だろう。ここは外だ。──ここじゃお前は、序列一位でも人類最強でもない。零時の常連で、よく食う客で、たまに皿を拭く弟子だ。それ以上の項目は、うちの帳簿にはない」
「…………」
「で、聞くことはひとつだけだ。──どうだ、美味いか」
長い沈黙だった。
リンは椀に視線を落として、一口食って、それから、ずいぶん掠れた声で言った。
「……おいしい」
「おう。なら、今夜の商売は上がりだ」
それきり、リンは黙って食い続けた。
途中、二回ほど、蓮華を持つ手の甲で目元を拭っていたが──雨の夜は、湿気る。
そういうことに、しておいてやる。
四杯目が空く頃には、雨が小降りになっていた。
「……ごちそうさま、でした」
「おう。タオルは持って帰れ。風邪をひかれると、丼の売上が落ちる」
「……ふ。何それ」
笑い方が、来たときよりずいぶん、歳相応になっていた。
釣り銭を渡したとき、リンの懐で、携帯が震えた。
画面を見た瞬間、その顔から、表情が消えた。
「どうした」
「……事務所から」
リンは少し迷って、それから、画面をこっちに向けた。
短い文面だった。役所の通達みたいに、心のこもってない文字が並んでいた。
『天宮凛様 イメージ管理の観点から、例の深夜営業の飲食店への出入りは、今後お控えください』
雨音の向こうで、リンの目が──討伐のときの色に、変わっていた。




