第18話 復帰要請
頭の下げ方ってのは、刃の研ぎ方に似ている。
角度をひとつ間違えると、どれだけ力を込めても、何ひとつ切れない。
零時過ぎ。いつもの行列が、いつも通りに進んでいた。
【おっさんの解体キッチン:同接38,000】
《今夜は岩竜テールの炙り丼か》
《深夜に見る飯じゃないんだわ(三杯目)》
《リンちゃん今日も定位置で安心した》
カウンターの端では、リンが二杯目を片付けにかかっている。
正体が全国に割れてからも、こいつの定位置と食う量は変わらない。
変わったのは、列のほうだ。
最後尾に、深夜の屋台に似合わない男が立っていた。
仕立てのいいコート。磨かれた革靴。並んでいる二十分、背筋が一度も崩れなかった。
順番が来て、照明の下に立ったその顔に、俺は見覚えがあった。
「お久しぶりです。真壁さん」
鳴海蓮司は、十年が十五分で終わったあの日と、同じ温度でそう言った。
《ん?》
《待て、この顔どっかで》
《──ヴァンガードの鳴海だ!!》
《エースがなんで深夜の丼屋に》
《嫌な予感しかしねえ》
「客なら丼が出る。客じゃないなら、後ろがつかえてる」
「では、一杯。──お話は、それからで」
鳴海は財布から、小銭まで几帳面に揃えて出した。
丼を受け取り、隅の立ち食い台で、綺麗な箸の持ち方で食い始める。
その途中、一度だけ箸が止まった。
カウンターの端の、銀色の頭に気づいたらしい。
「……序列一位が、なぜこんな場所に」
「飯」
リンは三文字で答えて、三杯目を注文した。
鳴海はそれ以上聞かず、丼に戻った。食い終わるまで、きっかり八分。
空の丼を返す手つきだけが、妙に丁寧だった。
「ご馳走様でした。──美味い、ですね」
言ってから、本人が一番、その言葉に驚いた顔をしていた。
「単刀直入に申し上げます」
客足が切れたカウンターで、鳴海は鞄から書類を出し、定規で測ったような角度で頭を下げた。
「ヴァンガードに、戻っていただきたい」
弾幕が、爆発した。
《は???》
《クビにしといて今さら!?》
《どの面下げて来てんだ》
《いや待て。頭を下げに来たなら、まだ分かる》
「条件です。素材部門・倉庫管理職。職位は前職と同等。給与は──前職の水準を、据え置きで保証します」
《据え置き》
《す え お き》
《特級解体師に提示する数字じゃねえだろ》
《国家の年俸数千万を蹴った男だぞ!?》
《誠意の解体やらせたら世界一下手だなこのクラン》
列に残っていた常連の誰かが、はっきりと舌打ちをした。
リンの箸が、こと、と置かれた。
目が、討伐のときの目になっている。
「リン。客に手を出すな」
「……出してない。まだ」
「まだ、じゃない」
俺は寸胴の火を、少しだけ落とした。
「鳴海さんよ。ひとつ確認だが──それは、誰の判断だ」
「幹部会の決定です。私は交渉の責任者として参りました」
「あんたの言葉では?」
鳴海は、答える代わりに書類の角を揃えた。
とっくに揃っている角を、もう一度。
「……破格のはずです。一度、経営判断で整理した人員を、同一条件で再雇用する。組織の前例として、これ以上の譲歩はありません」
「整理、ね」
「数字の話をします。あなたが──」
そこで初めて、言葉が途切れた。
「……あなたが抜けて以降、当部門の数字は、想定を下回っています。属人性検証のため、復帰後は作業の全工程を記録させていただく。手順を組織の資産にする。それが本件の趣旨です」
《要約:戻ってきて、タダで全部教えろ》
《しかも倉庫番のままで》
《翻訳が早い》
「砥石の稟議は、何回で通る職場になった」
「……は?」
「俺がいた頃は、三回差し戻しが相場だった。あれは直ったのかと聞いてる」
鳴海の眉が、ぴくりと動いた。
十年目のあの日、俺が「そうか」と言ったときと、同じ動き方だった。
「備品の話は、本件とは関係が」
「あるんだよ。道具の話は、全部な」
それきり、鳴海は黙った。
沈黙の底から、絞り出すような声がした。
「……手順書は、読みました。倉庫に残っていた、あなたの申し送りを──全部」
顔を上げると、鳴海蓮司は俺ではなく、カウンターの上の包丁を見ていた。
「業務文書として、よく、出来ていた」
それが限界らしかった。
詫びの言葉は、最後まで出なかった。
《いま一瞬だけ人間の顔したぞ》
《でも言えたのが「業務文書として」かよ》
《あと一語なんだよ、あと一語》
《おっさん、これどうすんだ》
リンが、こっちを見ている。
常連たちが、こっちを見ている。
三万八千人が、こっちを見ている。
俺は火を止めて、布巾で手を拭いた。
別に、怒っちゃいない。
十年が十五分で終わった日のことも、今さら恨んじゃいない。
ただ──筋ってもんは、ある。
肉にも、人にもだ。
俺は、静かに包丁を置いた。
店の音が、消えた。
──そして、口を開いた。




