第14話 血抜きの早さは自慢でね
不揃いな足音は、角でいったん止まって、それからまた近づいてきた。
朝の光の中、電柱に手をついて現れたのは、見慣れたフードだった。
「なんだ、リンか。仕事帰りか? 悪いが、今日はもう看板──」
言いかけて、やめた。
立ち方が、違う。
隙がないのが、こいつの立ち方だ。今は、電柱が立たせてやっている。
「……すみま、せん」
フードの奥から、掠れた声がした。
「……何か……食べさせて、ください。……このままだと、動けなく、なる」
言い終わるより早く、膝が落ちた。
走った。受け止める。
軽い。丼を五杯空ける体とは思えないほど、軽かった。
そして、左の脇腹。防護服が裂けて、下のインナーが黒く濡れている。鉄錆の匂いの出どころは、ここだ。
「──飯の前に病院だ。話はそれからだ」
「……だめ」
細い指が、袖を掴んだ。
「……騒ぎに、なる」
「なら、ダンジョン庁に知り合いが──」
「……それも、だめ。……平気。寝れば、塞がる。……いつもなら」
いつもなら。
つまり、いつも通りじゃないってことだ。
カウンターの裏、仕込み用の長椅子に横にさせて、傷の匂いをもう一度確かめた。
人間の血。その奥に、もうひとつ。粘ついて、甘ったるく焦げたような──。
「リン。今回の獲物、沼蛭の系統だな。それも、相当に旧い個体だろう」
フードが、わずかに動いた。
「……なんで」
「匂いだよ。あの系統の体液は、砂糖を焦がしたみたいな匂いがする。一度捌けば二度と忘れん。装備に染みると、洗っても三日は取れんしな」
そして解体師は、もうひとつ知っている。
沼蛭の体液は、血を固まらせない。獲物に吸い付いて離さないための、生まれつきの商売道具だ。討伐後に放っておくと血抜きがいつまでも終わらなくて、肉が一晩で駄目になる。解体場じゃ、誰より嫌われる客だ。
で、探索者の傷ってのは、本人の魔力が血と一緒に固まって塞がるんだそうだ。多少の深手なら飯を食って寝れば治る──あの連中の頑丈さの種は、それだと聞く。
つまり、傷にあの体液が残っている限り、こいつの傷は塞がり始めることすらできない。
塞がらない傷と、長い討伐で空になった魔力。それを抱えて、ここまで歩いてきたわけだ。
「処置の仕方、講習で習わなかったのか」
「……習った、ような」
「寝てたな」
「……丼のことを、考えてた」
威張るんじゃない。
やることは単純だ。悪い水を抜いて、いい水が固まる場所を作ってやる。
「傷を洗う。沁みるぞ」
湯を人肌に落として、塩をひとつまみ。傷口に残った体液を、奥から手前へ、一方向にだけ流して追い出していく。
押すんじゃない。流すんだ。ドリップの始末と同じ要領で、急がず、戻さず。
「……っ、う」
「我慢しろ。すぐ終わる。──血抜きの早さは自慢でね」
「……私は、魔獣じゃ、ない」
「知ってる。だから魔獣の倍、丁寧にやってる」
甘い匂いが消えたところで、清潔な布で圧をかけて、晒しで留めた。
ここから先は、俺の仕事じゃない。こいつの体と、こいつの魔力の仕事だ。
で──魔力ってのは、飯で補うんだったな。
「待ってろ。今、いいのを作る」
固形物は、今は重い。なら、汁だ。
寸胴の底には、昨日の八時間で引いた魔猪の骨出汁が残っていた。仕込みの、最後の一杯分。妙なところで役に立つもんだ。
出汁を温めて、雷鹿の端肉を薄く削いで泳がせる。火が通ったら飯を少しと、卵をひとつ。塩は傷に障らないよう、薄く。
雑炊と粥の間の子みたいな、賄いの賄いだ。
「ほら。熱いから、ゆっくりな」
壁にもたれたリンの手に、椀と蓮華を持たせる。
その手が、震えていた。一口目が、なかなか口まで届かない。
見かねて、椀の底に手を添えた。
「……自分で、食べられる」
「知ってる。今だけだ」
一口。
フードの奥で、長い息が漏れた。
二口目で、震えが止まった。三口目からは、いつもの綺麗な食い方に戻った。
椀は、見る間に空になった。大した内臓だ。
「……おかわり」
「あるよ。最初から、そのつもりで作ってある」
三杯目を装う頃には、声に芯が戻っていた。晒しの下も、もう滲んでこない。
魔力ってのは大したもんだ。うちの冷蔵庫より、仕事が早い。
「……ごちそうさま、でした」
「おう。──無茶の理由は聞かない。それがうちの流儀だ。ただ、説教はひとつだけしておく」
空の椀を引き取りながら、弟子の目があるあたりを見た。
「次から、塞がらん傷を抱えたら、飯屋より先に病院へ行け。うちは丼一品の店だ。治療は専門外でね」
「……専門外」
リンが、ゆっくりとこっちを向いた。
「……血の匂いだけで、相手を当てて。……処置して。……出てきた食事が、たぶん今の私に、世界で一番効くやつで。……それで、専門外」
「俺がやったのは血抜きと賄いだけだ。傷を塞いだのは、あんたの体だよ」
「……アンタ」
声が、低くなった。いつもの敬語が、剥がれていた。
「……本当に、何者だ」
「ただの解体屋だよ」
長い、長い沈黙があった。
それからリンは、何かを諦めたみたいに小さく息を吐いて──両手を、フードにかけた。
「おい、まだ動くな」
ばさり、と。
朝の光の下に、白に近い銀色がこぼれた。
初めて見る顔だった。十九かそこらの、まだあどけなさの残る──ただ、目だけは、よく研いだ刃物の色をしていた。
「……私の顔、見ても、何も思わない?」
「ん? ……悪いな、テレビは八年前から冷蔵庫の台でね。どこかで会ったか」
リンは目を丸くして、それから、ふ、と笑った。
初めて見る、歳相応の顔だった。
「……ううん。──零時の、常連」
「そうかい。そりゃ覚えやすい」
──後で知ることになる。
このとき、うちの長椅子で笑っていたのは、日本中の誰もが知っている顔で。
それを見て「どこかで会ったか」と聞いた男は、たぶんこの国で、俺が最初で最後だったらしい。




