第三十五話:騒がしき日常
不満、不服――人の手が一切施されていない獣道を明朝からただ黙々と、父に連れられて歩く幼き悠が抱くには当然すぎる感情であった。
齢五歳。ついに真剣を握ることが許された年の頃、いきなり出掛けると告げられたっきり、ただ人里離れた獣道を歩かされて、よもや捨てられるのでは、などと幼心ながらに不安を憶えた頃。ようやく目的地の到着を告げられて、同時。後に生涯を共にする……するはずであった“モノ”との運命的な出会いを彼は果たすこととなる。
ぎらぎらと真夏の太陽が輝くある夏の日だった。
うきうきと。これからプレゼントを貰いにいくとわかった幼子が抱く心境として違和感はまるでなく寧ろ当然の感情であって、反面。モノがモノだけに親心として彼を心配する者が現れたとしても、まぁ無理もない。
何故なら、そのプレゼントとは玩具を欲しがる子供にはあまりにも不相応な代物――日本刀なのだから。
「あれが今日から君の相棒になる刀だ。大切に扱ってよ?」
「うん! 僕大切にするよ。どうもありがとうおばちゃん!」
「おばっ!? だからお姉さんって何度言えば理解してくれるのかな君は!」
「えぇ……。でもお父さんが言ってたよ。ババァにしてはいい腕前だって」
「F○uk you! いつかアイツぬっ殺す!!」
「お、おばさん落ち着いて!?」
「君もおばさんおばさんって言うな! 私はまだ■■歳だっつーの!!」
台座の上で鎮座する大小の刀。結城悠の半身、世界にたった一振りの日本刀となると、彼の顔にも満面の笑みがこぼれて。――あぁ、とても懐かしい夢。後、おばさんは元気にしてるだろうか。
高天原へと導かれて、元いた世界に置いてきてしまった、であろう我が半身。自分には必要のないものと結論を下した。取り戻すことを止めた。今の半身は腰に携えた二振りの刀であって、アレではない。そう思っていた。思っていたが、いやはや。心のどこかではまだ完全に諦めきれていないらしい。
だからこんな懐かしい夢を見てしまったのだと、悠は自嘲気味に小さく笑う。
もし、戻ってきてくれるのなら。――ありえないことだというのに。
それはさておき。
「朝っぱらからうるさいな」
不機嫌を露わにして悠はのそっと上半身を起こす。
彼にとって本日から数日、三日月宗近に与えられた休暇であった。特に悠自身予定などまるで計画しておらず、されど高天原転覆計画の功労賞と言われてしまえば無碍にすることもできず。
よってたまにはゴロゴロと、日々の疲労を癒さんとのんびりすごすことで費やそうとしたところを妨害されたともなれば、例え自分でなくとも怒りの感情を抱こう。
さて、その愚かにも妨げた不埒千万な輩はと言うと。
「お、おはようございますお兄様……えへっ」
可憐な少女がぺろっと舌を出す。今でこそ質素な寝間着姿でも、きちんと着飾れば彼女を一国の姫と勘違いしても違和感はあるまい。
その名に“姫”の字を冠する彼女……かの軍神、上杉謙信の愛刀である備前国――現在の岡山県南東部――にて活躍していた福岡一文字作である姫鶴一文字に、悠もにっこりと笑みを浮かべ返して――彼女の頭頂部に拳骨を見舞った。
ごちん、と鈍く重い音に共犯者の顔がさぁっと青ざめる。当事者については頭を押さえ涙目でごろごろと絶賛悶絶中である。
「人の部屋にノックもなしに忍び込むのは感心しないぞ?」
「えっと……それじゃあオレ達はこの辺で――」
「見逃してもらえる……とでも思ったのか?」
共犯者にも差別はしない。等しく頭頂部に拳骨をくれてやる。
「とりあえず、朝っぱらから喧嘩するのはやめてくれ。俺はもちろん近所にも迷惑だ」
「うぅ……こっそりお兄ちゃんのお布団に忍び込もうとしただけなのに」
「お前が抜け駆けしようとしたからだろ!」
「なるほど。充分お仕置き案件だな」
涙目を向ける姫鶴一文字らの自白に溜息をこぼしつつ、さて。
開けっぱなしだった窓を、ふと見やる。相変わらず快晴の空がどこまでも続いていて、頬を撫でる風は優しい。時刻は多分、午前七時頃。とっくに朝食の準備に取り掛からねばならない時間ではあるものの、今の悠は休暇中だ。
付け加えて、御剣姫守達が空腹を訴えてこないところを見ると、きちんと自分達で用意できたのだろう――その裏に悠の熱血指導があってこそだが。
結城悠は料理ができる男だ。これは彼が以前から家事をしていたからであって、そこに男女は関係なく人間やれば大なり小なり身に付くものである。
故に何年経っても料理ができない御剣姫守達の教師を頼まれた悠は、快く承諾した。例え下心があったとしても、やる気があるのは事実であったし、彼としても自分が不在の時でも料理ができた方が心配しなくて済む――はずだった。
「玉子焼き一つ作らせるのに一日を費やす羽目になるなんてなぁ……」
「も、もうその話はいいだろ兄者!」
「いや、今でこそ本当にマシになったけど教える時は本当に大変だったんだぞ? 側で見て教えてるのにまったく違うものができあがるって……ある意味一つの才能だな」
「オ、オレ達だって頑張ってたんだよ!」
「まぁ結果的にあの頃よりはうんと上達したからいいんだがな――まぁいい、さてと」
予定よりも早い起床だが、起きてしまったものは仕方ない。
二度寝をする、という選択肢もある。なるほど、確かにそれもよいかもしれない。覚醒しきっていない時に再び眠りに就く感覚は人間を堕落させる毒と言っても差し支えあるまい――もっとも。
(こいつらがいなければなぁ……)
本人が見ているのも気に留めず堂々と布団に顔を押し付け匂いをくんくんと嗅いでいる輩を前にして、二度寝がどれほど危険であるか推して知るべし。
「それじゃあ、そろそろ着替えたいから出て行ってくれないか?」
「大丈夫です。姫は何も見てませんから。どうぞ安心して着替えてください」
「じゃあ顔を隠しているはずの両手がしっかり開いてるのはどうしてだ? いいからさっさと出て行ってくれ。これ以上出て行かないようなら、本部に掛け合って異動願いを出さざるを得ないな」
「それじゃあ失礼しました姫達は外で修練してまいりますのでどうぞごゆっくり!!」
さながら稲妻の如く。どたどたと慌しく退室していった鶴姫一文字達に呆れを込めて溜息を一つこぼして、悠はようやく身支度に入る。
例えるならばエベレスト、もしくはK2か。いや、例に差異は対してあるまい。
机の上で高く積み上げられている書類は見事な白い山を築き上げている。
下を見やる。げんなりとした表情を浮かべつつも、昇りきらんとする登山家と目があった。
とても力ない。文字通り疲労困憊である彼女に、悠は労いの言葉を掛けてやることにした。
「おはよう小狐丸。今日も書類と格闘中か……」
「おはよう悠。相変わらず今日も君は魅力的だね。今日こそ私と夜を共にしてくれる決心がついたのかな?」
「寝言は寝て言うもんだぞ小狐丸。肩でも揉んでやろうか?」
「お、今日は随分と積極的だね。とうとう私の魅力に気付いてくれたのかな?」
「お前が充分かわいいのは知ってるよ。最近多忙なのは気になってたからな。昨日だってあんまり寝てないだろ」
「……隊長だからね。でもこうして君と触れ合えるのなら、徹夜した甲斐があったかな」
「健康第一。我らが隊長が倒れられたら困る」
悠にとって、小狐丸と言う少女は恩人であると同時に頭を悩ませる存在であった。
とは言え、決して彼女そのものを嫌っているなどということはなく、寧ろ恩人として感謝の念を抱く相手ですらある。例えそれが、何度も夜這いを仕掛けてこようとも。
あの日、小狐丸に拾ってもらわなければ今の結城悠はなかったのだから。――もちろん、三日月宗近ら多くの御剣姫守への感謝も忘れない。
「ふふっ、気を付けるよ。それにしても……いやはや、書類仕事ばかりで嫌になってくるよ」
「弥真白支部を任されてるんだから仕方ないだろ。俺だって手伝ってやりたいのは山々だけど……まぁ頑張れ。山ならいつか登り切れるだろ――はい、終わったぞ」
「うぅ、悠が冷たい……」
「今日の晩飯はしっかり俺が作ってやるから、それで許してくれ」
「愛情増し増しと夜のお遊戯の付け合せならね」
「後半は却下だ」
「照れ屋さんだね悠は。そうそう、もし外で光忠を見かけたら伝言を頼めるかな? これ以上仕事をほったらかすなら強制除隊してもらうって」
「了解した――まったく、あの人の遊び癖は本当に酷いもんだな……」
今頃ふらふらと町で遊んでいるだろう実休光忠を脳裏に描いて、小さな溜息を一つ吐く。悠は執務室を出るとそのまま町へと足を運んだ。




