世界救済のハジマリ⑨
橘六花は、いわゆる『お嬢様』だった。
一般水準よりはるかに裕福な家庭に生まれ、その水準に見合った教育を受けてきた。父親が副社長を務める電子機器メーカーの名はあまりにも有名で、それゆえに初等部から入学していた私立学校でもさらに上位と言える立ち位置にいた。
もっとも六花本人は気さくで穏やかな人格だったため、同学校の生徒たちから遠巻きにされるようなこともなくーーたまに六花の立場にとって代わろうとする者に辟易することもあったがーー普通に学校生活を謳歌している。一年前には初等部を卒業しており、現在は中等部の二年生である。
さて、そんな六花には一つの趣味があった。
家の周りを一人で散歩する、というものである。
学校では取り巻きに囲まれ、家に戻れば習い事や稽古事でスケジュールがみっちり詰まっている。
『家柄に見合った嗜みを身に着けろ』という両親の厳しい教育方針に従って五歳の頃から続けているピアノやバイオリン、茶道や華道などはそろそろ愛着がわいてきており、嫌いとはもう言えない。とはいえ親であれ学友であれ習い事の師匠であれ、常に自分のそばに誰かがいては気が休まらないのも当然だ。
そんな理由から、六花はたまに一人で家を抜け出して周辺を散歩している。
思い出す。
ーーあの日も、私は家の近くを歩いていた。
いつも歩いている散歩のコースに、広い川があった。土手があり、岸の片方は均されて少年野球の練習場になっている。あの日は冬の真っただ中で、川の水面は鉛のように重たい色をしていた。
もう冬だ。
寒いのは嫌いではないが、指が固まるのでピアノが弾きにくくなる。夜に控えたレッスンに支障をきたさないためにも早く帰った方がいいかもしれない。そんな呑気なことを考えながら川にかかった鉄橋を渡る六花の耳に、何かが聞こえてきた。
『ーーぎゃははっ! おい、こいつ泡拭いてやがるぞ!』
『うわ、マジでキモいわ。こんなんなるんだ』
『ほらほら、さっさと起きろよお嬢様。もう一回もう一回っ!』
見る。
目を見開く。
「……なっ……」
自分と同じ中学生くらいだろうか。数人の男女が一人の女子生徒を川に突き落として、溺れかける女子生徒を見て笑っている。女子生徒は真冬の水温にさらされてがちがちと体を震わせていたが、無理矢理川に落とされ続けた。何度も、何度も。
だが、六花を何より驚かせたのは川に落とされている女子が着ている制服だ。それは六花の通う中学のものだった。
なぜ。
どうして。
そんな疑問は、見知らぬ制服を着た男子が手で弄んでいるものを見て吹き飛んだ。
(あれはーー)
男子生徒が持っているのは財布だ。遠目の六花からでも、それが有名なブランドのものであることがわかる。
そして、それが六花の通う学校で流行っている品であることも。
(……そういう、ことですか)
六花の通う学校の生徒は、独特なデザインの制服ですぐにわかる。そして裕福な家の子供が多いことも有名だ。実際、『何かあったらいけないから』というあいまいな理由で子供に大金を持たせる親も少なくない。
となれば、不心得な者たちが狙いをつけるのは当然とすら言えた。
あそこで泣きながら何度も川に突き落とされている女子生徒は、運悪くその標的になってしまったのだ。
『げほっ、げほっ……ッ!』
水を吐瀉物のように吐きだす女子生徒のえずきが、鉄橋の上にいる六花にも聞こえた。
それを見て違う制服の男女は楽しそうに笑う。まるでゴミバケツにするように女子生徒の身体を蹴飛ばし、手に持ったスマートフォンで写真を撮ってまた爆笑。
「……っ」
最悪の見世物だった。
時間帯も悪かった。夕暮れ時はひと気が少なく、周囲を見回しても誰もいない。
助けを呼ぼうにも、六花は携帯電話を持ってきていなかった。親に呼び出されてはせっかくの散歩から連れ戻してしまうので、いつもわざと忘れて部屋に置いてきているのだが、それが今ばかりは完全に裏目に出ていた。
周囲に公衆電話もない。交番もない。
ーー助けないと。
『おら、何寝てんだよ!』
『ねーねー、次は服脱がしてから落とそうよ』
『おっ、いいねー!』
ーー助けないと。
『うわ、また吐いた』
『いいねえ、面白い写真いっぱい撮れたぜ。ネットに流したらリツイートどんくらい来るかな?』
『お前ひどすぎー! カワイソウじゃん』
助けないと。
助けないと。
あの中に割って入って、手を差し伸べないと。
ーー誰が?
「あ?」
女子生徒を虐めている男子の一人が唐突に顔を上げた。
六花はびきり、と肩を硬直させた。
見られた。逃げないと。でも、私が逃げれば、あの女子生徒は。
「……ぁ」
六花は正真正銘箱入りのお嬢様だ。楽器も茶道も華道も修めているが、そんなものはこの状況下ではまったくの無力だった。人を殴ったことなど人生で一度もない。あの男子生徒が鉄橋まで上ってきたら、自分もあの女子生徒と同じ目に遭うのではないか。
そう考えるだけで手すりに載せた手が不自然に痙攣した。膝から力が抜けかけた。
「……っ」
結局、六花は逃げた。根が生えたような足を何とか動かして。
幸いなことに、男子生徒は六花を追ってはこなかった。
×××
翌日、六花が学校に行くと、朝から緊急集会が開かれた。
内容は六花が予想した通りのものだった。
『昨日の夕方ごろ、当校の生徒一人が何らかの事件に巻き込まれたようで、川岸で倒れているのを発見されました。病身に搬送されましたが、いまだ意識が戻らないそうでーー』
理事長の話を六花はうつろな瞳で聞いていた。
事件。病院。意識が戻らない。
理事長の語るショッキングな話の内容に周囲がざわめく。
「六花様、大丈夫ですか?」
「……ええ。少し驚いただけです」
心配そうに声をかけてくる隣の席の女子生徒に、六花は何とか平静を装って答えた。
ーー昨日、鉄橋を離れた六花は迷わず近くの公衆電話に飛びつき、警察に連絡した。
警察には『川岸で誰かがひどく虐められている』とだけ伝えた。本当は虐めているのが中学生くらいの相手だったことも、川に突き落とされているのが自分と同じ学校の生徒であったことも言おうと思えば言えた。
だが言わなかった。言えなかった。もし自分がその場にいたことが知られれば、その女子生徒やその親に、『なぜ助けなかったのか』と責められるような気がして。
そして、そんなふうに自分の身ばかり案じる自分が加速度的に嫌いになっていく。
弱い自分が、嫌いになっていく。
×××
朝の全校集会を受けて、六花の学校では保護者による生徒の送迎が強く推奨された。
当然だろう。生徒が『何らかの事件』に巻き込まれた以上、学園側も何かしら手を打たざるを得ない。
しかし、何も起こらなかった。
緊急集会から一週間が開けても、半月が過ぎても、何も起こらなかった。いつしか送迎は義務ではなくなり、以前のように交通機関を使って登校する生徒も増えてきた。
何もなかったのだ。犯人が改心したのか、あるいはすでに捕まったのか。ともかく六花の通う学園の生徒がそれ以上被害に遭うことはなかった。理事長などは胸を撫で下ろしていることだろう。
一か月たっても六花の通う学園には何事も起こらなかった。
ーーだからこそ、六花にとってこれは運命だったのだろう。
「あ?」
歩道橋。
六花は、いつものように徒歩で帰宅する途中だった。
比較的人通りの多い道を進み、途中で歩道橋を渡ろうとする。
そして階段を上りきったところで見覚えのある男女グループに遭遇したのだ。
「……っ」
六花は息を呑んだが、向こうは自分のことをただの通行人だと思ったようで、すぐ興味なさそうにそれまでみていたものに視線を戻した。
「おい、何びくびくしてんだよ。いいから金出せ、金。ほら」
「あ、その……」
声をかけられているのは高校生くらいの、一人の女子生徒だ。六花の知らない制服を着ている。自分より年下らしいとはいえ、威圧的な態度を取る複数の相手に怯えているのが傍から見ていた六花にもわかった。
「あのさあ、俺たちだって別に暴力振るいたいわけじゃないんだって。ただちょーっと金貸してほしいだけ。わかる?」
「おいこらキョロキョロしてんじゃねーよ」
「コーコーセーなんだろ? バイトとかしてんじゃん。大丈夫大丈夫、ちゃんと返すから」
ああ、と六花は思う。
これは同じだ。
周囲に人けはない。誰も助けてくれない。
あの時と、同じだ。
「けっ、警察呼びますよっ……?」
「ああ?」
「ーーあうっ!」
絡まれていた高校生くらいの女子生徒が悲鳴を上げた。女子生徒を囲んでいた男子の一人が女子生徒の腹を勢いよく殴ったのだ。
下校途中だったらしい女子生徒のカバンが地面に落ち、そこに絡んでいた人たちが群がる。スクールバッグの中に手を突っ込んで財布やアクセサリーなんかをむしり取っていく。女生徒は手すりにしがみついたまま何度も咳き込んでいるが、それを意にも介さず中学生くらいの男女は笑いながら女生徒の荷物に群がっている。
これで終わりならまだよかった。
女生徒は災難だったが、このまま彼らが立ち去ってくれるならまだマシだった。
だが、そうはならなかった。
「ーーよし、そんじゃ川行くべ」
その言葉に、六花は凍り付く。
「だねー」
「えー、また川?」
「この間、○○学園のお嬢様で『遊んだ』ときお前も結構笑ってただろ」
「まあね」
笑いながらそう話し、「はいおねーさんこっちねー」と慣れ慣れしく引っ張っていこうとする。
いけない。何かしないと。そう思った。
前は何もできなくて、自分の弱さに後悔した。
「ーーッ」
女生徒が助けを求めるように周囲に視線をさまよわせ、たまたまそこにいた六花を見つけ、すがるような視線を送る。
ーー今度こそ。
六花はありったけ勇気を振り絞った。
「あのっ……」
声を張り上げる。何を言ったのか自分でも思い出せない。頭が真っ白になって、膝ががくがくと震えていたことだけ覚えている。
「ああ? 何オマエ。何か文句あんの?」
六花が声を張り上げたことで女生徒に絡んでいた男女グループが振り返る。
その中の男子生徒の一人が、威圧的に言葉を発した。それでも六花が退かないのを見て、ずかずかと歩み寄ってきて。
結果だけ記せば、蹴られた。
六花の華奢な体は体格ではるかに勝る男子生徒に吹き飛ばされ、六花の身体は宙に浮きあがり、そして落ちた。
「ーーぁ」
歩道橋の階段を、一番下まで。
橘六花の人生はそこで終わった。
×××
『橘六花さん。あなたは死にました』
六花は何もない空間で目を覚ました。
目の前には見たこともない女性がいて、自分は学園の制服姿だった。
夢ではないことが、何となくわかった。
「私は死んだんですか?」
『はい。あなたは死にました。少年に蹴られて、歩道橋の階段を真っ逆さまに落ちたのです』
そうか、と六花は呆然と思った。
私は死んだのか。
「……一つ、聞いてもいいですか?」
『あなたが助けようとした女学生のことですか?』
「はい」
『死にました』
「……ッ!?」
目の前の女性はあっさりと言った。
『あなたが死んだあと、少年たちはそれに気づかず女生徒を川に連れて行きました。そこで女生徒は川から上がれず、溺れて死んだのです。じきに彼女もここに近い場所に来るはずです』
「そんな……」
六花は唖然とした。あの女生徒が死んだこともそうだが、何より。
自分は彼女を救うことができなかった、という自分のあまりの無力さに。
一度逃げ出して、今度は立ち向かった。勇気を振り絞って、精一杯虚勢を張って。
それでも、何もできなかった。
弱かったから。
『ーーあなたが誰かを救うことができる世界があります』
沈黙する六花に女性が囁くように言った。
『ここではない、一つの世界があります。そこには大きな敵が現れ、それに大勢の人が殺されるでしょう。ですが、あなたはそれを防ぐことができます』
「……」
女性の言葉は、なぜかどれも本当な気がした。
だが、とても信じられなかった。自分などに誰かを救えるなんて六花には思えなかった。
家柄のせいもあるが、『女らしくあれ』と言われて育てられた六花には強さと呼べるものは何もない。楽器も、茶華道も、得意な料理も、単なる力の前には何の役にも立たないのだ。
「……私では、役に立ちません。私には力がありませんから」
『その力を、私たちが与える、と言ったら?』
「……?」
『敵は強大で、並の人間では相手にならない。だから、あなたに力を与えてその世界に送ります。あなたはそのためにここに呼ばれたのです』
六花はその言葉を信じなかった。
だが、もし。
自分に誰かを救うことができるなら。
あの時のような惨めさを味わわずに済むのなら。
「ーーわかりました。行きます」
女性はその言葉を予定調和のように受け入れた。
『では、あなたの望む力を授けましょう。何がいいですか?』
「剣を振るえる力をください」
六花は強さの形を剣に求めた。
拳を振り上げる不良たちとは重なりたくない。恐怖で足を震わせる無力な自分でもありたくない。
だからこそ、六花は剣に憧れた。
まっすぐに、自分の正義を貫けるように。
『わかりました。では、あなたを異世界に送りましょう』
その言葉とともに、橘六花は異世界に降り立った。
『誰か』を救う剣士として。
×××
そして今、異世界の片隅で、六花は死にかけている。
「はっ……はあっ……」
「ったくこのクソアマ、手間かけさせやがって……」
アイラを救出したリッカは、そのまま廃屋の中に残ってチンピラたちの足止めをすることに決めた。
アイラを逃がした時点で敵の残りは十五人弱。リッカがその気になれば、剣士としての『異能』によってどうとでもできる程度の戦力と言えた。
言える、はずだった。
「……ッ」
ずきり、と腕や脚に痛みが走る。
リッカは廃屋のエントランスで、チンピラたちに囲まれていた。チンピラの数は八人。あれからさらに半数を撃破したリッカだったが、そこまでだった。
リッカの手に、敵から奪った鉄の棒はない。
奪われたのではなく、持っていられなくなったからだ。
重すぎて。
「ま、これで終わりだろ」
「番犬っつっても所詮女ってこったな。最後の方は攻撃もたいしたことなかったしよ」
好き勝手に言われるが、リッカに反論する気力はもう残っていない。二本の足で立って、敵の動きに気を配っているのがやっとだ。
リッカの『異能』には欠点があった。
リッカの頭には敵の攻撃をかわすための最善ルート、剣の振り方、狙う場所、足運びーーつまり、最適に剣を振るためのあらゆる情報が自然と浮かぶ。それに従えば体格や筋力ではるかに自分を上回る人間を倒せた。これまでは。
だが、問題はリッカのほうにあった。
もとの世界では文字通りの箱入りお嬢様だったリッカには、筋力や体力を鍛える機会がほとんどなかった。『女らしくあれ』と厳しく育てられたリッカの細腕では、いつもの木刀ならともかくチンピラから奪った鉄の棒を何度も振ることができなかったのだ。
加えて体力の問題もあった。身体の最適な動かし方はわかる。だが、戦いを重ねていくにつれて身体が『異能』の伝える道筋を終えなくなっていった。結果、被弾が徐々に増え、攻撃も力が入らなくなり、武器は手から滑り落ちた。
(終わり……ですか)
もう動くこともできない。手は握力を失ってぴくぴくと痙攣し、口の中は血の味で満ちていた。殴られた腹や顔が灼けるように疼く。頭はもうほとんど回っていない。
戦いはもう終わっていた。
リッカの敗北、という形で。
「やっと大人しくなりやがったなァ、番犬女」
大男が近づいてくる。片腕だけでリッカが持っていたものの倍以上の太さがある鉄の棒を持ち上げて、ゆらりと立つ。
「……」
あれで殴られれば、意識が飛ぶだけでは済まないだろう。死ぬかもしれない。
『異能』が逃げろと告げてくるが、もうリッカに動く気力は残っていなかった。
「んじゃ、そろそろ死んどけ」
大男が鉄塊を振り上げる。リッカはぼんやりとそれを見上げた。
(……また、死ぬんですか)
前と同じように、こんな人間の手にかかって。
だが、リッカの胸には前回のような絶望はない。前とは違う。アイラを助けられたことが、リッカにとっては誇らしかった。
過去の自分とは違う。だから下ではなく、前を向いていられる。
(ーーですが)
ただ、頭の片隅に悔しさはあった。
女神に力をもらったのに、結局自分は弱いままだった。
こんなチンピラごときに負けることが、悔しくて堪らない。そう思えた。
「あばよ、クソ女」
リッカが呆然と見上げる巨大な鉄の棒が振り下ろされ。
「っぎゃあああああああああああああああああああああああああ!」
「うひゃあああああああああああああああああああああぁーっ!」
いきなり廃屋の扉が吹っ飛んだ。
その場の全員があっけにとられる。もともと曲がっていた木製の扉が盛大に上空へ舞い上がり、それを突き破った何かが勢いよく廃屋の中に突っ込んでくる。
突っ込んできたそれは悲鳴を上げながらゴロゴロと転がり、エントランスの端にある壁にぶつかって止まった。廃屋を揺るがすような音を立ててふっ飛ばされていたドアが落下する。
「な、何だァ!?」
チンピラの一人が声を上げると、もうもうと埃が上がる中、転がってきた人影が立ち上がる。
「ちょっ、げほっ、埃やべえ……そして体超痛てえええええ……っ!」
「お兄さんしっかりして! あ、お姉さん! 助けに来たよ!」
「アイラ……? それに、あなたは……?」
あっけにとられたリッカが呟く。
その視線の先にいたのは、さっき逃がしたはずの幼女と、見覚えのある黒髪の少年だった。
お久しぶりです。
最近気づいたんですが、僕の書く文章ってやたら心情描写多いですよね。どうりでダラダラ長ったらしくなるもんだと。これは要検討ですね!
次回更新は未定!




