世界救済のハジマリ⑦
手紙に記された場所は案の定、スラム街の真っただ中だった。
自分たちのテリトリーに自分を引き込もうという向こうの考えを理解しながら、それでもリッカは迷わず敵陣に踏み入れる。
見知った道から外れ、細く、暗く、入り組んだ路地裏を走る。
「はっ……はっ……」
リッカの持ち物は樫の木を削った木刀一本だけだ。子供がちゃんばらに使うような、削った木に持ち手として布を巻き付けただけの棒きれは、それでもリッカにとって唯一の相棒としての安心感を与えてくる。リッカは走りながら、無意識にその柄に触れた。
これさえあれば、敵を倒せる。
強くいられる。
誰かを守れるくらい、強くーー
ーーぎゃははっ! おい、こいつ泡吹いてやがるぞ!
うわ、マジでキモいわ。こんなんなるんだ。
ほらほら、さっさと起きろよ。もう一回もう一回っ!
「……ッ」
リッカの脳内にかつての記憶の断片がフラッシュバックする。幻聴だとわかっていても、それは耐えがたい不快感となってリッカの胸を抉った。
場所は川岸。
汚水のように濁った色の、冬の川。
数人の男女が一人の女子生徒を川に突き落として、溺れかける女子生徒を見て笑っている。女子生徒は真冬の水温に何度もさらされてがちがちと体を震わせていたが、無理やり川に落とされ続けた。何度も、何度も。
自分はそこにいた。
手の届く位置にいた。
けれど、自分は橋の上からその光景を見つけて、それでも何もできなくて。
そのまま逃げるように立ち去って。
「……はっ……はあっ……!」
リッカは頭を振り、そのイメージを脳から追い出した。
ーーあの時の私とは違う。今の私は、あの時の自分とは違う。
今の私には、力があるから、あの時と同じ轍は踏まない。絶対に。
今度こそ、負けたりしない。
リッカはどんどん人けのなくなる路地裏を進み、やがて目的の場所にたどり着いた。
そこは、巨大な廃屋だった。
「……ここですね」
もともとスラム街というのは、かつては街の一部だった。
そこが大規模な火災によって焼き払われ、住む人がいなくなり、今はただ朽ちた街並みだけが広がっている。数少ない無事な住居はならず者たちに占領され、いつしかそこはスラム街と呼ばれて他の住人から敬遠されるようになったーーと、リッカはそう聞いている。
指定された場所は、そんな場所の一つだ。
もとは裕福な人物の屋敷だったのだろう。リッカの目には、建物の規模はスラム街に入って以降見た中でもっとも大きく見えた。
門は朽ちていて、屋敷の前に広がる庭は雑草が好き勝手に伸びている。そしてその奥、屋敷の扉はすでに剥がれかけている。
リッカはそこに躊躇なく踏み込んだ。周囲に人の気配はない。
あるのは、中。
「……お、来たなァ」
リッカが建物の中に入ると、すぐに軋むような笑みが出迎えた。
屋敷の内部は長らく補修されていないのが一目でわかる様相だった。もとは豪奢なエントランスだったのだろう、扉の向こうは広い吹き抜けが広がっている。しかし壁にはいくつも穴が空き、装飾の塗装はほとんど剥がれている。薄暗く埃っぽい、というのがリッカの率直な感想だった。床には酒瓶がいくつも転がり、ここに巣食う者がいることを示している。
「……」
エントランスの奥には、左右に一対の上り階段がありーーその中ほどに、リッカは目当ての人間を見つけた。アイラだ。意識がないのか、ぐったりと壁にもたれかかるようにして階段に何とか座っている。
そして、それを囲むように、一目でチンピラとわかる二十人近い男たちが立っている。年齢はほぼ全員が十代から二十代。リッカが知っている顔もあった。みな一様にニヤニヤと下卑た笑みを浮かべ、中には鉄製の棒を持っている者もいる。
その中心、アイラのすぐそばには、見覚えのある大男が座っていた。
「どうやらちゃんと一人で来たらしいなァ。ははっ、感心感心」
人数差からか、向こうには余裕があるようだった。リッカは数に頼る真似に相容れないものを感じつつ、凛とした声で告げた。
「……アイラは無事ですね?」
「あー? ひひっ、心配すんなよ。騒がれると面倒なんで一発殴って気絶させただけだ」
「……」
リッカの目が剣呑さを増す。
それを見て、大男は嘲るように笑った。
「そう怒るなよ、番犬女。変なことされるとうっかりこのガキをケガさせちまうかもしれねえぞ?」
アイラを囲むチンピラたちがひけらかすように鉄製の棒やナイフをもてあそぶ。
リッカは怒りを自制し、冷静さを保つのに大きな労力を有した。叶うことなら感情のままに今すぐ飛び出して、アイラのそばにいるチンピラたちを木刀で半殺しにしてやりたいと強く思った。
だが、それはできない。
向こうはアイラを人質に取っている。リッカが迂闊に攻撃すれば真っ先に危害が及ぶのは、チンピラたちに囲まれたアイラだ。
意識を切り替える。『剣士』としての自分へと。
(……距離は)
アイラのいる階段まで、直線距離でおよそ十メートル。
(人数は……)
二十二。うち、半数が武器を持っている。
(優先すべきは)
アイラの救出。
それさえできれば、後は何とでもなる。あのチンピラたちは、人質という汚い手段を取らなくては自分の前に出てくることもできないような腰抜けなのだから。
だが、少なくとも今は、リッカが手を出すことはできない。
「……言われた通り、一人でここまで来ました。アイラを解放してください」
「ハイわかりました。ーーなんて言うと思うか? ここにはお前に恨みを持ってるやつらがわんさかいるんだぜ?」
「……私に、何をしろと?」
「剣を捨てろ」
大男は即座に言った。
「その木刀を自分の手で外して、遠くに投げろ。まずはそっからだ」
リッカは思わず舌打ちしかけた。この木製の剣はリッカの命綱だ。これがなければリッカの『異能』は効果の大半を失う。アイラの奪還が間違いなく遠のく。
だが、ここで躊躇うことも許されない。大男の手にはナイフが握られていた。今自分が迷えば、あの刃物はアイラに向かうかもしれない。
「……わかりました」
リッカは迷いを外に出さないように努めながら、木刀を腰のベルトから抜く。そして横合いに放った。からんからん、と軽い音を立てて木刀が転がっていく。
「お、本当に捨てやがったぜ」
「ならもう……いいよな?」
「ああ、そうだな」
チンピラたちが待ちきれない、という表情で大男に小声で尋ね、大男は頷いた。
「遊んでやれ」
がたん、と音がしてリッカの背後で扉が閉まった。
暗がりに隠れていたチンピラ二人が勢いよく扉を蹴飛ばしたのだ。それはリッカを逃がさないという意思表示に他ならない。
だが、リッカは振り向くことすらしなかった。暗がりに誰かが潜んでいるのはわかっていたし、今のリッカに逃げるという選択肢は最初からない。
遊んでやれ、という言葉に従ってチンピラのうち六人が階段から降りてきた。そのうち二人が鉄の棒、粗悪なナイフをそれぞれ持っている。
男の一人がリッカに声をかけてきた。
「お前さあ、俺のこと覚えてる? お前がぶん回した棒切れのせいで前歯二本やられてんだけど、まさか忘れたとか言わないよねえ?
見れば、確かにその男の口元には歯二本ぶんの隙間が空いている。
「アレ痛かったわー。マジその夜寝られなかったからね。もうその日からずっと、お前をぶん殴ってやりたくて仕方なかったわけ」
男はぐっと体をひねった。
「こんなふうにさァ!」
ーー瞬間、リッカの意識が引き伸ばされる。
リッカの異能、『剣才』はリッカに剣士としての能力を与える。それには当然、敵の攻撃を見切る技術も含まれている。木刀がないとはいえ、リッカがその気になれば敵の拳をかわすことはたやすい。
だが、リッカは拳を振り上げる男の奥で、スキンヘッドの大男がナイフの先をアイラにつきつけるのを見ていた。同時に、『抵抗すればこのガキにナイフを刺す』という大男の意思も正確に受け取っていた。
だから、リッカは動かなかった。
「……っ」
がづん、とリッカの視界が揺れた。
自分より頭一つ分も大きな相手の拳がほおに叩きつけられ、たたらを踏んで後退する。転ばなかったのは奇跡だ。衝撃がリッカの脳を痺れさせ、思考を真っ白に染め上げる。
この世界に来て初めてまともにもらった攻撃。
これまで圧倒的な戦闘能力でチンピラたちを一方的に倒し続けた無敵の女剣士がただの一発で簡単によろめいた。
「は……ははっ、すげえ! マジで当たる! おもしれえー!」
「おい、俺も俺も!」
リッカは抵抗しなかった。できなかった。反撃されないと思った男たちは次々とリッカを殴りつけた。頭を、腹を、脚を、あざと擦過傷で染めていく。
エントランスがリングへと変貌する。階段からは野次が飛び、リッカを取り囲む男たちは笑いながらリッカを殴り続けた。
「づっ……」
膨大な反撃と回避のシミュレーションがリッカの脳内を流れ続ける。リッカの異能があれば、いくらでもこの場を切り抜ける手段はあった。だが、リッカはそのすべてを放棄して暴力に耐え続ける。血の味が滲む唇を嚙み、衝撃を体捌きで最小限に流しつつ、待って、待って、待った。
ーーそして、来た。
「おい、そこどけって。次これで行くから」
「はははっ! 容赦ねえー!」
「殺すなよ、ボコったあとはちゃんと『使う』んだから」
面白がるような声が聞こえる。打撲と擦り傷でふらつくリッカに、男の一人が鉄棒を掲げて近づいてくる。あれを振り下ろされれば、リッカの意識は一瞬で吹き飛ぶだろう。
男が棒状の鉄塊を振り上げる。それを見て。
「……」
リッカの目が、ぎらりと光った。
「ほら行っーー」
男の声が不自然に途切れる。
周囲の人間が唖然とする中、鉄棒を持った男の目がぐるりと裏返って濁った白目をさらした。そのまま地面に崩れ落ちる男には目もくれず、リッカは『異能』が告げるままに体を動かした。
「ふっ!」
『手刀』で意識を刈り取った男から鉄の棒を奪う。体を回し、腰をひねり、つま先だけは残して体を独楽のように回転。鉄の棒がその重量と遠心力によって周囲の男たちを残らず吹き飛ばす。男の一人が持っていた粗悪なナイフが宙を舞い、リッカはそれを空中で拾う。残った遠心力を乗せて投げる。
刺さる。
ーーアイラのそばにいる大男の腕に。
「あ、あああああああっ!?」
凍り付いた時間が動き出したかのようだった。男の一人から奪い、リッカが投げたナイフは大男の腕に深々と突き立っている。大男が絶叫を上げ、それを取り巻くチンピラたちが何事かと視線を前に向ける。
ついさっきまで番犬女をいたぶっていた男たち六人は、すでに残らず倒れ伏していた。何が起こったのか、理解が追い付かない。そして、それまで無抵抗だった番犬女が仲間から鉄の棒を奪い、反撃に出たのだと思い至った時には、すでに赤髪の剣士は間近まで迫っていた。
「はあああっ!」
走った勢い。鉄の棒が持つ重量、それを振り回したことで生じる遠心力。それらが固まっていた男たちの中に突き立ち、こじ開ける。
リッカの放つ剣気は、十四の少女が出せる限度をすでに超えていた。男たちは気おされ、動きを止める。その好機を逃す愚鈍さをリッカは持ち合わせていなかった。
邪魔者を鉄棒の一閃で弾き飛ばし、アイラを抱え上げる。
抱え上げたアイラは意識がないせいかリッカの手には鉛のように重く感じられた。それでも離さず、即座に離脱しようとする。
「ッーー何してんだ、女一人にやられてんじゃねえ! ぶっ殺せ!」
リッカの射程外に出ていた大男が、腕からナイフを抜きながら血走った目で叫んだ。その声に蹴飛ばされるようにして男たちが武器を構える。
今のリッカは、たった一人で敵陣のど真ん中に突っ込んだ状態だ。片手には意識のない子供を抱えており、男から奪った鉄の棒を満足に振ることはできないだろう。階段から何人かは突き落としたが、まだ十五人以上が無事で、その全員がリッカに敵意を向けている。
「らあっ!」
「……っ」
がんっ、と男が振り下ろした鈍器のような鉄塊を、片手に持った鉄の棒で受ける。手首に鈍い痛みが走ったが、リッカは構わず衝撃を利用して階段を一気に飛び降りた。
エントランスに降り立ち、男たちと距離を取る。
「はっ……はっ……」
「このアマぁ……!」
鋭く自分をにらみつけるリッカに、大男は殺意のこもった目を向ける。
ーーと。
「……あ……?」
「アイラ、目が覚めましたか」
「お姉さーーつう…… っ」
荒っぽく連れ戻したからか、アイラが意識を取り戻した。
顔をしかめているのは、殴られた箇所が痛むからだろう。
アイラはリッカに体を支えられたまま立ち上がり、場所と、いる人間と、最後に変わり果ていたリッカの姿を見て絶句した。
意思の強さを表すような赤い髪は乱れ、ほおには殴られたような痕があり、服は裂け、そこからは無残な内出血が確認できた。アイラはなぜこうなったのか、自分の置かれている状況は何なのか、それらをすべて理解する。
「……ごめんなさい」
「アイラは悪くありません。謝らないでください」
「でも、私のせいで、こんな……お姉さんも……っ」
アイラの顔がくしゃくしゃに歪む。
それを見て、またリッカの怒りが募った。
それはこんな小さな女の子巻き込んだ相手の卑劣さに対してであり、そして、それを阻止できなかった自分の無能さに対してのものだ。
「何だよ、ガキがお目覚めかァ? いいぜ、二人まとめてぶっ殺してやれ、てめえらァ!」
階段の上で大男が凄絶な笑みを浮かべた。一人、また一人とチンピラたちが階段からリッカたちのいるエントランスに降りてくる。ひ、とアイラののどが引きつった。
リッカはそんなアイラに声をかけた。
「アイラ、起きたばかりですみませんが、走れますか?」
「……? う、うん」
「では、あなたはここから逃げてください」
リッカはちら、と背後の扉を見やる。そこには二人のチンピラが門番のように立ちはだかっている。
「私があの二人を何とかします。その隙に」
そう言うと、アイラが泣きそうな顔を浮かべた。
だが、自分がここにいては役に立たないどころか邪魔になることは痛いほどわかった。今まで無敵を誇っていたリッカがこんなにも傷だらけになっているのは自分を助けるために無茶をしたからだとアイラは理解していた。
「……うん」
「いい子です」
リッカはくすりと微笑んだ。
「何余裕ぶっこいてんだ、くそアマぁ!」
エントランスに降りてきた男の一人が、鉄の棒を振り下ろしてきた。リッカが持っているのと同じようなものだ。アイラは身を縮こまらせーーリッカは、軋む体に鞭打って『剣』を振るう。
「アイラ、出口へ!」
「う、うんっ!」
視線は前に注いだままリッカが叫ぶ。
リッカの異能は、道筋を与える。剣を、体を、どんなふうに動かせば望む結果が得られるかを伝えてくる。
「うおっ……!」
敵の鉄の棒を下から跳ね上げ、弾く。男の手から離れた鉄棒は真上に打ち上がった。
リッカはくるりと反転、武器を失った男を鉄棒で吹き飛ばし、手近なチンピラにぶつけてわずかな時間をかせぐ。
もう一度くるりと回転しーー今度は、落ちてきた棒状の鉄塊を弾き飛ばした。
「~~~~ッ!」
リッカの手首を多大な衝撃が襲うが、歯を食いしばって耐える。
飛ばした鉄棒の向かう先は、出口をふさいでいるチンピラ二人。
「がっ!」
「げうっ!」
回転しながら飛んでいった鉄棒は門番を二人まとめて昏倒させた。支えを失って勝手に開いた扉をアイラがくぐる。
アイラは一瞬だけ振り返った。
「人を呼んでくるから、待ってて!」
そう言って、悪意にまみれた屋敷を脱出していく。リッカはそれを確認したのち、鉄棒を水平に突き出した。
「動かないでください」
「ーーッ」
アイラが屋敷の外に出たとき、チンピラの何人かは追いかけようとする素振りを見せた。しかし、リッカが機先を制したことでその全員か硬直する。
「てめえ……! よくもやってくれたな、番犬女ァ! こうなりゃてめえだけでもぶっ殺してやらァあ!」
人質を奪われたあげく屋敷から逃がされたことで大男が激昂する。どうやらこれで見逃してくれるほど甘くはなさそうだ、リッカは思った。
敵はまだ半数以上残っている。
対して、リッカはすでに限界を迎えようとしていた。体中が痛むし、足にはもう力が入らないし、逞しさとは無縁の自分の腕があと何度『剣』を振れるかもわからない。
それでも、リッカは退こうとは思わなかった。
こちらを睨み付ける男たちの前に、精一杯の虚勢をかき集めて立ちはだかる。
意思を込めて告げた。
「ここは鼠一匹通しません。……あなたたちの相手は、私がします」
滑り込みセーフ! 今日は五月三十一日! 五月中にもう一度更新する、なんて言っといてさっきまで忘れてたバカがここにいました。
次回更新は少し先になるかもしれません。




