プロローグ
×××
「はっ……はっ……」
――走るのなんて、いつぶりだろうか。
ヒガン・カレギシは足場の悪い山中を駆け抜けながら、そんな益体もないことを考えてしまう。
魔王討伐のための旅をしている時は、仲間である魔法陣使いの青年が色々と便利な術式を編み出していたので走るよりも【転移】の回数の方が多かった気がする。移動に関して困った記憶がない。
そして、輪をかけてないのが、敵から『逃走』することだ。
この世界に転世する際特別な力を得ていたヒガンたちにとって、出会う敵の大半が一山いくらの雑魚だった。よって、敵に背を向けて全力疾走する機会など望むべくもない。
だが、今のヒガンはその望むべくもない機会に直面している最中だった。
肌を引っかく枝を無視し、張り出した木の根を飛び越える。夜という時間帯のせいでいつも微笑を咲かせている表情からも、流石に余裕が失われつつあった。
そして、唐突に月明かりが遮られる。影が差す。
「――ああもう、しつこいなあ!」
ヒガンが毒づくのとほぼ同時、ヒガンの目の前に巨大な何かが降ってきた。
衝撃で地面がぐらぐらと揺れ、砂煙が舞い上がる。粉塵が晴れた先では、巨大な生物の目がヒガンを補足していた。
生物は、怪物だった。
体高五メートルはくだらない巨体。重量は間違いなくトン単位。そんな図体を上空まで跳び上がらせるほどの脚力。
青白い肌と赤い瞳を持つその怪物は、その巨体と不気味さを覗けばカエルにそっくりだった。巨大なカエル、そう言えなくもない。
もっとも、『黙って』さえいればの話だが。
『ゲゲッ、ゲッ、ゲゲゲゲゲッ! 見つけたぞ、小娘ェ!』
巨大ガエルの口が横に大きく裂け、粘質な唾液交じりの声を放つ。両生類が苦手な人間が見れば卒倒するような光景だった。
「足止めにあれだけ『手持ち』をつぎ込んだのに、まだ追ってくるとは思わなかったよ」
『ゲゲッ、ゲゲゲゲゲッ! あの程度でェ、この俺を押さえたとでも?』
巨大ガエルには目立った外傷はない。つまり、モンスター使いである自分が九割近い使役獣を差し向けてまで目の前の怪物に対して行った足止めは、失敗したのだ。
内心て歯噛みするヒガンを赤い目で見下ろしつつ、ここまで再三繰り返した問いをなおも投げかける。
『ゲゲッ……さあ、諦めて話せェ。小娘、ガリオはどうやって殺した?』
「……本当にしつこいね。だからそんなやつ知らないって」
『嘘はいかんなァ……お前からは匂うのだよ、忌々しいヤツの香りがなァ』
さっきからずっとこの調子だ。ヒガンもいい加減にうんざりしてくる。
この巨大ガエルは、山中で潜伏していたヒガンの前に突然現れたのだ。脈絡も気配もなく、いきなり。戸惑うヒガンを意に介さず巨体カエルはこう告げた。
――ガリオを殺したのは、お前か?
「……まったく、迷惑な話だよ」
ガリオというのが何者なのか、ヒガンは知らない。だがどういうわけか、この巨大ガエルは何か確信をもってヒガンのもとへ訪れたようだ。
ヒガンはガリオというのには心当たりはないが、現れた巨大ガエルそのものには興味を持った。あらゆるモンスターを使役する『異能』を持つヒガンからしてみれば、人の言葉を解する世にも珍しいモンスターは獲物に映る。
まずは弱らせようと手持ちの使役獣をけしかけ、巨大ガエルが応戦の構えを見せてーー
ヒガンはその瞬間、本能的に『死』の気配を嗅ぎ取った。そしてそれは正しかった。
ヒガンの使役獣は一瞬で吹き飛ばされ、追加で呼び出した配下のモンスターも片っ端から殺された。ヒガンが撤退を決心するまでそう時間はかからなかった。
ヒガンは確信する。
目の前の巨大なカエルはただのモンスターではない。
正真正銘の、化け物だ。
『まだ口を割らんかァ……ゲゲゲゲゲッ、ならば泣いて喋るまで痛めつけるまでェ』
粘つくような巨大ガエルの言葉を聞き、ヒガンは小さくため息を吐いた。
「……もういいや」
どこか投げやりな様子で右手を前方に掲げて。
「その気持ち悪い声は聞き飽きたよ。ーー終わりにしよう」
ぱちん、と澄んだ音が夜の山に響いた。
瞬間、ヒガンの背後に『穴』が開き、そこから一体のモンスターが這い出てくる。
黄金に輝くドラゴン。『従魔姫』ヒガンの隠し玉。
竜の中でも破格の性能を持つそのモンスターに、初めて巨体ガエルがぴくりと反応する。
『竜かァ……小癪な』
ヒガンは取り合わない。ただ端的に命じた。
「殺しておいで」
『ガルァアアアアアアッ!!』
黄金の竜が息を吸う。魔力を込める。吐きだす。それだけで、動作の一つが恐ろしい威力をもって成立する。
『ギャアアアアアアアアアアアアア!』
断末魔じみた巨大ガエルの咆哮。黄金竜のブレスは巨大ガエルのそばで弾けて周囲の森ごと炎で満たした。生死を確認するまでもない必殺の攻撃。
その、はずだった。
『ガッ……』
突如、黄金竜がびくりと痙攣したかと思うと周囲の木々を巻き込んで倒れた。
「……え?」
ヒガンは目の前の光景を疑う。黄金の竜を、得体のしれない黒い霧が覆っている。それが触れるたび、竜はびくりびくりと痙攣を繰り返し、やがて動かなくなった。
『アアアアアアアアアアアアアアアア!』
突然の大音声に振り向くと、炎の海を割って巨大ガエルが近づいてくるのが見えた。
『舐めやがって、舐めやがって、舐めやがって殺す殺す殺す殺すゥ! クソトカゲがァ! 小娘がアアアアアア!』
壮絶な不協和音。耳に響く憎悪の絶叫。ヒガンは目を見開いた。ーー巨大ガエルが、全身を炎に巻かれながらもこちらへと向かってきている。
「……これは、無理だね」
ヒガンはいよいよ本格的な撤退を決めた。
強すぎる。目の前の敵が、悪夢のように。思い出したくもない、魔王を彷彿させるほど。
が、じりじりと後退するヒガンを敵はただでは行かせない。
『ゲッ、ゲッ、ゲゲゲゲゲゲゲゲッ! 逃がすわけねェだろうがァァァァァ!』
巨大ガエルが呼気を噴き出す。それは竜のブレスと酷似した予備動作でこそあったものの、口から吐き出されたのは荘厳な炎とは似ても似つかないおぞましいものだった。
黒い霧。
ついさっきヒガンの切り札だった黄金竜を狩った未知の攻撃。
「つっ……」
咄嗟にヒガンは後ろに飛んだ。だが、完全には避けきれない。霧の端がヒガンの横腹をかすめる。
「――あ」
焼けたような、痛み。熱。霧が触れた横腹から、ヒガンは高温の炎が全身を駆け巡るような錯覚を感じた。
立っていられない。前が見えない。たまらず倒れこむ。さっきの黄金竜とまったく同じように。
(なに、これ)
思考がまとまらない。初めての感覚。視界が明滅する。
『ゲゲゲゲゲッ、ゲゲゲゲゲゲッ!』
焼けただれたカエルの哄笑が脳内に響く。危機感だけが脳裏で膨らんだ。腹が熱い。身体が熱い。黒い霧が自分を食い尽くそうと迫ってくるのだけが見えた。
――死ぬ。
明確にその恐怖を感じ取ったヒガンは、なりふり構わず最後の手段を取った。
「……カー、バンクル」
ずっとそばにひそませていた、最後の使役獣。空間に関する魔法を扱える稀有なモンスター。
ヒガンは端的に念じた。
(転、移。行き先は……)
心中でカーバンクルに指示を出しながら自嘲する。
どうしても、熱にやられた頭では行き先が一つしか思い浮かばない。
『ゲゲッ……ゲ、グ。くそがァ、体が痛てェ。痛てェえ……トカゲがァ……ッ』
たった一瞬、巨大ガエルが痛みに堪えるように呻く。ヒガンは躊躇いなく命じた。
(……転移)
ヒガンの視界が暗転する。炎に包まれた森も、常軌を逸した化けガエルも一気に世界から遠ざかる。
まったく同時に、ヒガンは意識を手放した。
ちょっと新作にうつつを抜かしていたのですが、そんなことを言っても怒られるだけかと思われますので黙っていようと思います。
新章開始、みたいな感じです。どうぞよろしくお願いします。




