名犬ミアラスタ①
×××
薔薇大陸の大国、魔法国家ファランドルに隣接する『ローダ王国』。
そこに属する貴族の一つ、セレス家。その三女。
ミアラスタ・セレス。
ーーそれが、誰も知らない、私のほんとうの名前です。
セレス領は山と、川と、たくさんのぶどう畑があるだけの場所でした。領地で造られる赤ワインは他領地の人々に評判のようでしたが、魔法道具なんかと比べればそれのもたらす利益は微々たるものです。セレス領は、決して裕福な領地とは言えませんでした。
それでも私はこの領地が大好きだったのです。
優しい領民の皆さまも、政務ばかりで構ってくれないお父様も、すっかりお仕事が忙しくなってしまったお兄様も。
そしてーー
「あら、ミア。また一緒に寝たくなったの?」
寝台で月明かりに照らされながらくすくすと笑う、お母様も。
「……はい。駄目でしょうか?」
「もちろん構わないわよ。おいで」
お母様がするりと体をよけて、私のために場所を空けてくれました。私は自分の部屋から持ってきた枕を持っていそいそと寝台に上がります。
するとお母様は、にまにまといたずらっぽい表情でこう言いました。
「それにしても、ミア。あなたはもうすぐ九つでしょう? あまり子供っぽいのもどうかしら」
「う……」
お母様の言う通り、私はもうすぐ九歳の誕生日を迎えます。その次は十歳。貴族の娘で二けたの年齢であればある程度自立した人格を持っているのが普通です。
私もそれは頭ではわかっています。けれど、たまに、ほんとうにたまに、一人で眠ることができない日があるのです。そういう日はこうしてお屋敷の人が寝静まった頃にこうしてお母様の部屋に忍び込み、お母様に添い寝をしてもらっています。
ですが、これには事情があるのです。
「……お母様は」
「なにかしら?」
「……お母様は、ご病気です。こんな時間でないと会いに来ることもできません」
私がそう言うと、お母様は私をからかうのをやめて困ったような笑みを浮かべました。
お母様は重い病気で、昼間はずっとこの部屋で休んでいます。その時間帯、私は作法、学問などのお稽古ごとがあるため昼間は滅多に会うことができません。
お母様とお話する時間は、こんな夜にしかないのです。
お母様もそれはわかっているのか、優しく私の髪を撫でてからこう言いました。
「……ミア」
「はい」
「こんなことを今言うのもなんだけれどーー」
お母様は、つらいことでもあるかのように目を伏せて、
「あなたが座っている場所、さっきまで虫の死骸が落ちていたわよ」
「えええええええ!?」]
びっくりです。あまりにも急な話題転換にも、そんなことを座った後に言い出すという行為にもびっくりです。
「どっ、どこですか? どのあたりですか!?」
「あ、ごめんなさい。虫の死骸と枕を見間違えたわ」
「どうやったら見間違えるんですか!?」
薄暗い夜であることを考慮してもその二つを混同させることは不可能な気がします。
「ミアはからかい甲斐があるわねえ」
「……虫はいないんですよね?」
「もちろん。だから絶対にお尻を上げては駄目よ? 絶対にあなたのお尻があるあたりを見ては駄目よ? きっとあなた、凄くびっくりするから」
「虫はいないんですよね!?」
「いないわ」
ここで言い切るなら変な冗談は言わなくて良かったのではないでしょうか。
お母様はいつもこうです。本当は優しいのに、なぜかいつも私をからかって遊ぶのです。
こんな感じの人なので、たまに私はお母様が本当にご病気なのかわからなくなるときもあります。
……お母様はいつも薬を飲んでいらっしゃるので、そんな現実逃避は認めさせてもらえないのですが。
さて、そんないつものやり取りが一段落したところで、お母様がこう言いました。
「それで、ミア。今日はどんなお話がいいかしら?」
「『名犬リオン』のお話がいいです!」
「あなたは本当にあれが好きねえ」
食い気味に答えた私に、お母様が苦笑しました。
お母様はご病気なのでいつもお部屋にいます。そして本をたくさん読んでいるのですが、一緒に眠るときはその中から私にお話を聞かせてくれるのが私たちの習慣になっていました。
その中で私が群を抜いて好きなお話のタイトルが、『名犬リオン』。
優しいけれど頼りない飼い主さんと、小さいけれど賢い犬の物語。
どうしてかわかりませんが、私はあのお話が好きで好きで仕方がないのです。
「まあいいわ。それじゃあ、『リオンと海賊の洞窟』にしましょうか」
「はいっ!」
「えっと……『ある日のこと。リオンが手紙を持ってきた。差出人は昔のお友達でーー』」
私は目を閉じ、お母様の声に耳を傾けます。
お母様はとても記憶力が良くて、読んだ本の内容は決して忘れません。今も、手には何も持っていないのにまるで目の前に文章が浮き上がっているような調子で、すらすらと物語を進めていきます。
二十分ほどで物語は終わってしまいました。
私は眠ることも忘れて夢中になって聞き入り、終わったあともその余韻が胸の中に残っています。
「久しぶりにこのお話をしたけど、たまにはこういうものも悪くないわね」
「はい。私もそう思います」
私は至極真面目な表情で頷きーー
「――私が犬なら、飼い主さんのような人に飼われたいです」
「ぶふっ!?」
お母様の方からあまり淑女らしくない音が聞こえました。
それからしばらく笑いを抑えるように体を震わせたあと、笑い好きで涙すら浮かんでいる表情で口を開きます。
「ど、どうして犬の目線なの……?」
「へ? 何か変でしたか?」
「そこは普通白馬の王子様とかじゃないの……? あはは、やっぱりミア、あなたって面白いわ……!」
何だか褒められていない気がしないでもないです。
でも、やっぱり素敵だと思います。もし私が犬なら、あんなふうに優しい飼い主のところに行きたいですね。リオンは幸せものだと思います。
私はそう心から思っているのですが、話せば話すほどお母様が笑うので最終的には理解を得るのを諦めました。なぜ伝わらないのでしょう。お母様があんまり笑うので私までつられて笑ってしまいました。
そうやって、夜が更けていき。
「じゃあ、おやすみ。ミア」
「はい。おやすみなさい、お母様」
そう言って、目を閉じて。
こんなふうに穏やかな時間がずっと続けばいいと願って。
ーーお母様が亡くなったのは、それから一か月後のことでした。
×××
大地が爆ぜる音を覚えています。
人々の苦痛に満ちた呻きを覚えています。
『魔王』と呼ばれる一体のモンスターがセレス領に足を踏み入れたのは、それからすぐのことでした。
時は魔王の悪名もまだ広まっておらず、ふらりと現れた真っ黒で獅子の頭を持つそのモンスターはただの『新種』だと判断されました。
奇妙な『新種』モンスターを排除すべく討伐隊が組まれましたが、今にして思えばそれがそもそもの間違いだったのです。
伐隊を差し向けられたことで、魔王は怒り狂いました。雷の魔法がまき散らされ、咆哮一つで周囲のモンスターたちが人を襲うようになり、おびただしい数の領民の亡骸が積み上がりました。
私たちの領地の戦力など、まるで相手になりませんでした。討伐隊はあっさりと全滅。残された手段は、魔王の怒りが鎮まるまで息をひそめることだけでした。
領主の城を開放し、領民たちを可能な限り受け入れて魔王がいなくなるのを待つ。領主であるお父様が下した判断は、結果的に最善でした。魔王は一昼夜暴れ回ると、あとはあっさりと去っていきましたから。
……ただ、領民の皆様を守るために、大勢の『戦える人』が命を落としました。
領民の皆様を城に避難させる間、魔王を誰かが足止めしなくてはなりません。
それは訓練を積んだ兵士であり、勇敢な村人でありーー類まれな魔法の才能を持つ、病弱で、読書が好きな、領主の妻でもありました。
お母様は【風】魔法の名手でした。病気の体を無理矢理動かして、魔王相手に領民が逃げるまでの時間を稼いだのです。
私がそのことを知ったのは、焼き焦げたお母様の服の欠片が城に届けられたあとでした。遺品を持ってきてくれた兵士さんが気の毒そうな顔を浮かべる前で、私は呆然とすることしかできませんでした。
私が九歳の誕生日を迎えた、翌日のことでした。
×××
「おい知ってるか? 例の『英雄』たち、たった四人で魔王を倒したらしいぞ」
「そりゃ確かか? とんでもないやつがいるもんだな……あの化け物をたった四人とか」
それから一年後、魔王は討伐されました。
倒したのは屈強な傭兵団だとか、隣国ファランドルの精鋭部隊だとか、いろいろありましたが、『年端もいかない少年少女を含む四人組』という説が濃厚だったようです。……正直、にわかには信じられませんが。
この頃から土地の復興も始まり、ようやくセレス領にも活気が戻り始めました。
私にとってもお母様を喪った悲しさから立ち直りつつある頃合いで、領地のぶどう畑がよみがえっていくにつれて少しずつ気分も上向きになりつつあった気がします。
しかし、この時にはすでに私の運命の歯車は狂い始めていたのです。
いえ、本当はずっと狂っていたのでしょう。魔王がやってきて、お母様が亡くなったあのときから。
それが現実となって私に降りかかってきたのは、それからさらに二年後のことでした。
×××
「ミアラスタ。お前は、ミネルヴァ家に嫁ぐことが決定した」
「……え?」
私はそのとき、何を言われたのかわかりませんでした。
魔王襲撃から三年が経ったある日、数年ぶりに私はお父様の執務室に呼ばれました。
そして入り、執務机の前に立ち、開口一番お父様が告げたのがその台詞でした。
「ミネルヴァ家……というのは、隣の領の?」
「他にないだろう。領主の弟君ーーバラック卿がお前を望んでいる。当家はそれを呑んだ。これは決定事項だ。お前は近日中にミネルヴァ領に行ってもらう」
疑問を許さない、鉄のような口調。厳格な父はいつもそうでした。ですが、この時ばかりは私も混乱しました。
「ま、待ってください! 私はまだ十二歳です。とても嫁げるような年では……」
この国における婚約が可能になる年齢は十四。いかに貴族でも王様のつくった方には背けないはずです。
しかし、お父様は表情をぴくりとも動かすことなくこう言いました。
「……先方は、お前を望んだ。年齢など些細な問題に過ぎない」
「――っ」
その、鉄のような声。表情。私はすぐに悟りました。
政略結婚。
私のような幼い娘にその価値があるとは思えません。ですが、貴族の娘として生まれた以上、政治の道具に使われるのだろうな、とは理解していました。
そして私には、それを拒否する権利も、気力もなくて。
「……わかりました」
私はそれ以上何も聞きませんでした。今にして思えば、お母様を亡くしたことで少し自暴自棄になっていたのかもしれません。
(……もう、どうでもいいです)
この場所にはお母様との思い出が多すぎました。私はここにいるだけで、ふとした拍子に今はもういないお母様のことを思い出してつらい気持ちになります。なら、ここではないどこかに行ってしまうもいいかもしれません。
たとえそれが、政治の道具としての役目だとしても。
当時のセレス領は、魔王に荒らされた土地を復興させるためにミネルヴァ領から多額の援助を受けていてーーその対価として私が差し出されたのだと知ったのは、少し後のことでした。
貴族さんの家名は何となくです。国名も大陸名も何となく。だいたい名前をつけるときは何となくですが、転世者組はちょっとだけ仕込みがしてあったりします。
更新遅くてすみません! 普通に限界速度です!




