町外れの空き家を買った。近所に民家は数件。住人は老人ばかり。
掃除をするにも金がいる。
その事実が、無性に悔しかった。
「そりゃあ俺ら、何も持ってないからね」
ハサンはそれまで来ていた下着の一枚を破くと、ぞうきん代わりにして床を拭いていた。
これで新しい下着を買わなければならない。
ボロ布の一枚でもあればぞうきんにできるのだが、そんな余分な荷物は持ち合わせていない。水を溜めるバケツも、ほうきも、ちり取りも、この家にはなかった。
あるのはクモの巣とネズミと虫とカビと埃だけ。
ほうきやちり取りのようなものは、借りれば良い。バケツもそうだ。
これらは『借りて使っても、そのまま返せる』という点が大きい。
けれど掃除で一番使うぞうきんだけは、なんらかの方法で調達しなくてはいけない。
これが予想外に面倒だった。
二ヶ月前に捨てたあの下着を捨てずに取っておけば、今大活躍していただろうに。
「ぼやいたって仕方ないよ、姉さん」
「わかっている」
わかってはいるが、やはりどうにも釈然としない。
「ゴミ捨て場がけっこう離れたところにあったよね。取ってくる?」
あそこは浮浪者の縄張りになっている。
ぞうきんにできそうな布があれば、自分たちの服にしているだろう。
「ぞうきんを買う、というのがこんなにも屈辱的だとはな」
「姉さん、金持ってるんだからケチくさいこと言わないでよ」
「そういう問題ではない」
はぁー、とハサンは長いため息をつくと、ぞうきんを一旦干して、外に出た。
「出かけてくる」
「どこに行く」
「ちょっと」
軽い足取りで出て行ったハサンだったが、三十分ほどで帰ってきた。
両手に、何着かの汚い服を携えている。
「近所から、布もらってきたよ」
「きみすばらしいな」
ハサンの対人能力には本当に感心する。
「若い男の子だからね。ジイ様バア様に可愛がられやすいの」
「なるほど」
「姉さんだって若いだろ。次は姉さんの番」
「わたしが?」
「当たり前だろ」
しかしこれだけの布があれば掃除は困らない。
「そういうことじゃなくて」
ハサンはやや呆れ顔。
「引っ越しそばでも振る舞ってきたら?」
「そば?」
「ん?」
「引っ越しそば、とは?」
「……あ、そば知らない?」
「なんだそれ」
あっちゃー、とハサンは額をぺちりと打ち、
「食べ物だよ。外国の。つゆを掛ける麺なんだ」
つゆをかけるめん。ああ、『麺』のことか。理解するのに時間がかかった。
「それをどうする」
「あげるんだよ。近所に。これからお世話になりますって」
「ワイロか」
「人聞きが悪いね」
「そもそもあいさつはいるか?」
「いやまあ、姉さんの好きにしたらいいけど……」
ふむ。
わたしは腕を組んだ。近所付き合いの必要性は思いつかなかった。一見不要に思えるが、対人能力が優れているハサンの言うことだ。それなりにスジが通っていることなのだろう。
しかし、
「あげるものがない」
「じゃあ、気持ちだけで」
気持ちだけ。気持ちだけの引っ越しのあいさつ。
余計にわからなくなってくる。
「きみの言うことは一々難しい」
「どこが!?」
ハサンがぞうきんを手から滑らせた。べりゃ、と床にぞうきんが落ちる。
「言葉遣いが独特なんだ。単語はわかるが意味がわからない。そういう定句はどこで覚えるんだ?」
「俺には姉さんがどこに引っ掛かってるのかわからないよ」
「あげるものがないと言ったら『気持ちだけ』とか」
「それ本気で言ってる?」
「何がだ」
「これはなんとも……」
天を仰ぐ。何か考えているようだ。
「だから、つまり、『引っ越して来ました。これからよろしくお願いします』って言えばいいんだよ」
「何をよろしくする」
「困ったことがあったら頼らせてね、って事前に言っておくわけ」
「なぜ」
「困ったことがあったら頼りたいじゃん」
「事前に言う意味がない」
「姉さん。とにかく行ってきな」
面倒になったらしい。
こいつ、わたしを『姉さん』と呼ぶくせに扱いがおざなりだ。




