第9話:雨の日のストーカー
翌日の午後は、土砂降りだった。
雨粒がテラスの石畳を叩き、庭の向こうを白く煙らせている。
二階の小サロンには暖炉があり、私はその近くで薬草茶を飲んでいた。
昨日まで、ずっと眠っているばかりだった気がするのに、今日は朝から忙しかった。法務官と話し、覚えている支出を紙に書き、疲れたところでディートリヒにペンを取り上げられた。
「もう十分だ。続きは明日」
「忘れるかもしれませんわよ」
「それだけ減らず口が出るなら大丈夫だ」
そうして、椅子へ座らされたのだった。
向かいにはディートリヒがいる。憲兵隊が保全した資料の写しへ、目を通していた。
「確認できた分だけで金貨四万枚か」
「贈答品と男爵家の借金返済、それから東部貴族への贈賄です。書類を分けてありますから、重複して数えないように」
「その説明を、今朝から三度聞いた」
「大事なことですので」
彼が私を見る。
私はカップを口元へ上げて、視線を避けた。
昔の癖は、記憶と一緒に戻ってくるらしい。
「君の関わった書類についても、命令書と合わせて調べるそうだ」
「はい」
「事情を話したからといって、すべてがすぐ片付くわけではない。ただ、誰が何を決めたかは、記録ではっきりする」
私は頷いた。
今度は、一人で辻褄を合わせなくていい。
目の前の紙を私が片付けなければ、国が傾くわけでもない。
扉が叩かれた。
入ってきた執事は、まず私を見て、それからディートリヒへ向き直った。
「閣下。正門の前が、少々騒がしくなっております」
ディートリヒがペンを置く。
「来たか」
「ローレンツ殿下でございます。供を連れず、馬でお越しになりました。王宮へ確認しましたところ、外出は認めていないとの返事です。追っ手がこちらへ向かっております」
私はカップを持ったまま、窓を見た。
何か聞こえる。
雨に紛れていた声が、名前を呼んでいると分かった。
「門は開けるな。追ってくる近衛には事情を伝えろ」
「承知しました」
「シセル」
ディートリヒが私を見た。
「奥の部屋へ移れば、聞こえない」
私は少し考えて、カップを置いた。
「見るだけ、見ます」
カーテンの隙間から、正門を見下ろした。
鉄格子に男がしがみついている。外套も傘もなく、金髪が額へ張りついていた。
門番が下がるように言っているのに、彼は格子を揺らすばかりだった。
「シセル! 頼む、顔を見せてくれ!」
その声を聞くと、体が一瞬強張った。
名前を呼ばれたら、行かなければ。
踏み出しかけた足を止め、私は窓枠へ手をついた。
もう、行かなくてもいいのだ。
「俺が悪かった! お前を疑った俺が馬鹿だった! コレットの言うことなんて、信じるんじゃなかった!」
通りを行く馬車が速度を落とした。
軒下で雨を避けていた人たちも、男の身なりと門番の呼び方から、相手が誰なのか気づき始めたらしい。
指を差す者がいた。手帳を開く者もいる。
「俺を本当に愛して、支えてくれたのはお前だけだったんだよ!」
ローレンツが顔を上げた。
雨が目に入ったのか、強く瞬きをする。
「仕事がなくても、同じことを言えたのでしょうか」
私が呟くと、隣のディートリヒは返事をしなかった。
私にも、答えは分かっていた。
だから今は、彼に言ってもらう必要がなかった。
ローレンツが呼び続ける。
かつて、朝も夜もなく聞いた声。
今ここにいる私は、眠って、食べて、喉の痛みが引くのを待っているだけでいい。私を呼べば何でも整う生活を、彼は返してくれと叫んでいる。
「向こうから、私が見えるでしょうか」
「見えん。部屋の明かりを落としてある」
「そうですか」
私はカーテンを離した。
ディートリヒは、私が何を選ぶのか待っていた。
「一度だけ、話します」
「会わずに帰らせることもできる」
「分かっています」
私はショールを整えた。
「その上で、私が言いたいのです。もう呼ばれても行きませんと」
ディートリヒが、私の顔を見た。
やがて頷き、執事へ声をかける。
「門は閉じたままだ。彼女へ手が届かない位置を空けておけ」
私は部屋を出た。
階段を一段ずつ下りる。急いで駆け下りていた頃とは違い、隣の足音が私に合わせて遅くなった。
「閣下」
「何だ」
「途中で帰りたくなったら、帰ります」
「そのときは、茶を淹れ直させよう」
私は頷いた。
それが聞けただけで、足が少し軽くなった。
玄関で、従僕が黒い傘を差し出した。
ディートリヒが受け取り、私の頭上へ広げる。大きな傘なのに、並んで歩けば肩が触れた。
彼は何も言わず、傘をこちらへ寄せた。
「閣下の肩が濡れています」
「後で着替える」
「私も、着替えくらい持っておりますけれど」
「病み上がりが張り合うな」
私は口を閉じた。
代わりに、半歩だけ彼へ寄った。傘の縁から外れていた肩が、雨に当たらなくなる。
ディートリヒがちらりと私を見たので、前を向いたまま歩いた。
正門の前で、ローレンツがこちらに気づいた。
顔が、ぱっと明るくなる。
「シセル!」
格子の隙間から、両手が差し出された。
「来てくれたのか! やっぱり、お前は俺を見捨てたりしなかったんだな! 許してくれるんだろ!?」
私は、手の届かない場所で立ち止まった。
許してもらえると、彼はもう決めていた。
私の返事を聞く前から。




