第10話:泥水を啜る元婚約者
「シセル! 頼む、手を取ってくれ!」
ローレンツは門の外で膝をついた。
敷石の継ぎ目に溜まった泥水が、ズボンへ染みていく。それにも構わず、格子の隙間から腕を伸ばした。
「コレットとは、もう縁を切る! あんな女、最初からただの遊びだったんだ! 俺の心の中にいたのは、ずっとお前だけだった!」
門番が眉をひそめた。
通りの人たちが、囁き合う。
ローレンツは、そのどちらにも気づかない。
「お前を正妃にする! 誰よりも贅沢をさせてやる! だから、公爵邸から出てきてくれ!」
私は彼の顔を見た。
婚約は解消され、王太子の権限も止められている。それでも、この人はまだ、私の行き先を自分が決めるものだと思っている。
「殿下」
「シセル! 分かってくれたか!?」
「私に、何のお話がおありですか」
男が一瞬黙った。
何かを聞かれるとは思っていなかったらしい。
「だから、俺が悪かったと」
「何をなさったことが、悪かったのですか」
「コレットに騙されて、お前を責めたことだ! もうあんな女は近づけない! そうすればいいんだろう!」
私は息を吐いた。
取り消せば元に戻る。邪魔な女をどければ、私は喜ぶ。
その先を、考えたことがないのだ。
ローレンツが格子へ体を押しつけ、さらに手を伸ばした。
私は足を半歩引いた。
「触れないでいただけますか。靴が汚れます」
「え……?」
手が止まった。
私の肩のそばで、ディートリヒの腕も動きを止めた。出ようとしたところを、私が話すのを待ってくれたらしい。
「卒業パーティーで、私に死んで詫びろと仰いましたね」
「本気じゃなかった! 何度も言っているだろう!」
「私は、死にかけました」
ローレンツの唇が震えた。
「本気ではなかったと聞いても、苦しかったことはなくなりません。今も長く歩けば疲れます。食事が怖くなる日もあります。それを、元通りにしろと仰るのですか」
「なら、治るまで待つ! 何人でも医者を呼ぶ!」
「治ったら、戻ると申し上げましたか」
雨音が大きく聞こえた。
彼は何も言わず、私を見ていた。
「公爵様から聞きました。婚約は解消されたと。私はここで療養します。殿下には、お会いしません」
「記憶が戻れば、きっと分かる! お前は俺を愛していたんだ! 俺だって、お前がいないと――」
「困るのでしょう」
私はその先を引き取った。
「何度も伺いました。けれど、私が困っているときには、聞いていただけませんでした」
ローレンツの目が大きく開く。
記憶のことを疑ったのかもしれない。私は、彼が何か尋ねる前に続けた。
「病室で、近寄らないでとお願いしました。苦しいとも。殿下は、聞いてくださいませんでしたね」
「それは、俺が必死だったから!」
「私も必死でした」
その言葉は、思ったより静かに出た。
彼は、初めて口をつぐんだ。
私は傘の縁から落ちる雫を見た。
もう、言うことはなかった。
「お引き取りください。近隣の皆様のご迷惑です」
「シセル、待て! 頼む!」
膝を進めた男の手が、格子を掴み直す。
私は眉を寄せた。
「人を死にかけるまで追い詰めておいて、今度は愛を持ち出す。そのやり方が、汚らわしいですわ」
ローレンツの顔が歪んだ。
何か言おうと口を開くが、うまく言葉にならない。荒く息をしながら、彼は格子へ額を寄せた。
「俺は、お前を……」
支えていた腕が滑った。
彼の体が前へ傾くのを見て、ディートリヒがすぐに門番へ声を飛ばした。
「倒れるぞ! 支えろ!」
門番が外側の通用口から駆け出した。
間に合わず、ローレンツの頬が水溜まりに触れる。すぐに抱き起こされたが、返事はなかった。
「医官を呼べ。軒下へ運んで、濡れた上着を替えさせろ」
ディートリヒは私から離れる前に、従僕へ傘を渡した。
私は少し後ろへ下がった。
追いついてきた王宮の近衛兵が、息を切らして門前に集まる。
「殿下! 殿下、お返事を!」
担架が運び込まれた。
私は、そこまで見届けてから目を伏せた。
彼を支える手は、もう足りている。
私が入る場所を探す必要はなかった。
そのとき、一台の辻馬車が通りに停まった。
扉が開き、薄桃色のドレスが飛び出してくる。
「ローレンツ様! ローレンツ様あっ!」
コレットだった。
彼女の後ろから侍女が降り、足元に気をつけるよう叫んだが、本人は聞いていない。担架へ駆け寄ろうとして、近衛兵に止められた。
「お下がりください。治療中です」
「私は殿下に呼ばれて!」
「そのようなお話は伺っておりません」
コレットが顔を上げた。
視線が門の内側に立つ私へ向く。
泣き顔が、怒りに変わった。
「あなたが、呼び出したのね!」
「殿下が勝手にいらしたのです」
「嘘! 私を捨てろと、殿下を唆したんでしょう!」
彼女は鉄扉の前へ走り寄った。
侍女が追いつき、袖を引く。
「お嬢様、もう参りましょう。王宮から出るとき、私どもも戻るように言われて――」
「うるさい!」
振り払われた侍女が、よろめいた。
コレットは通りの人々へ向かって、声を張り上げた。
「皆さん、騙されないで! この女は記憶喪失のふりをしているだけよ! 王宮の階段で私を突き落としたくせに、被害者ぶって逃げ隠れているのよ!!」
人垣がざわついた。
私は彼女を見つめた。
あの日も、そうだった。
声の大きい方の話が、先に広まった。
「階段から突き落とされた、か」
私の横へ、ディートリヒが戻ってきた。
ローレンツは別の医官に引き継がれ、担架ごと門衛所の庇へ運ばれていく。
ディートリヒはコレットに向かい、上着の内側から封書を取り出した。
「では、その話をもう一度、正式な調書と照らし合わせよう」




