第8話:医師と患者の、共犯協定
よりによって、この男に聞かれるとは。
私は膝の上で、ショールの端を握っていた。
何のことでしょう、と首を傾げる案は、浮かんだ瞬間に捨てた。
あれだけ喋っておいて、今さら無理だ。
「どこから聞いていらっしゃいましたか、閣下」
「あーあ、思い出しちゃった、という見事なため息のところからだ」
「それはどうも。お聞き苦しいことを申しました」
頭を下げると、彼は隣のベンチへ腰を下ろした。
逃げ道を塞ぐ位置ではなかった。
それでも、このまま立ち去れるとは思わない。
「国王陛下に、お伝えになりますか」
「何を恐れている」
「ご存知でしょう。記憶が戻ったなら、元通り働けと言われることです」
私は彼を見た。
「嫌です。もう、戻りません」
「うん」
短い返事だった。
私はかえって、用意していた言葉を失った。
「……それだけ、ですか」
「他に何がいる。婚約は解消されている。君は王太子府の職員でもない。記憶があろうとなかろうと、働く義務はない」
「でも、向こうはそう思いません」
「向こうの頭の中まで面倒を見るな」
その言い方がおかしくて、危うく笑いそうになった。
笑っている場合ではない。
私は背筋を伸ばした。
「追い返されるくらいなら、屋敷を出ます。礼儀を欠いても、身分を捨てても。今度は、生きて逃げます」
ディートリヒの顔から、笑みが消えた。
しばらく、私を見つめている。
何を言われるのかと身構えていたら、彼は小さく息を吐いた。
「そうしろ」
「え?」
「私が気に入らなくなっても、逃げろ。二度と、自分の命を差し出して話を終わらせようとするな」
温室の入り口から、アンナがこちらを見ていた。
ディートリヒは手を上げ、大丈夫だと知らせた。
それから、私へ向き直る。
「だが、今すぐ出る必要はない。少なくとも体が戻るまでは、ここにいろ。嫌でなければな」
返事をしないでいると、彼が片眉を上げた。
「条件がいるか」
「……その方が、安心できます」
言ってから、情けなくなった。
何かを返せなければ、食事も寝床も取り上げられるような気がする。
ディートリヒは私の手元を見た。ショールの端が、くしゃくしゃになっていた。
「では、治療とは別の話として、協力を頼みたい」
彼は声を落とした。
「王太子府の帳簿を調べている。不自然な支出が多い。君なら、出所を知っているものがあるだろう」
「あるどころではありませんわ」
思わず、素の声が出た。
彼の口元が動く。
「それは心強い」
「安心なさらないで。私の手が入った書類もあります。知らずに押しつけられた仕事ばかりではありません」
「詳しく聞こう」
私は一度、息を吸った。
「神殿へ渡す金の一部が、宝飾品の支払いへ回されました。私が気づいたときには、殿下の決裁印が押されていた。伯爵家にも責任が及ぶと言われて、費目を変えました」
口に出すと、あの夜の机が見えるようだった。
元の数字を二重線で消した、私の指。
「間違っていると分かっていました。それでも、帳尻を合わせれば済むと思ってしまった」
ディートリヒは遮らなかった。
だから、最後まで言えた。
「原本と、変更を命じられた書付は残してあります。いつか私だけの責任にされるのが、怖かったから」
「どこに」
「王太子府の執務室。暖炉脇の戸棚に、私の作った索引があります。そこから辿れます。殿下は目立つ裏帳簿など作っておられません。領収書と命令書を突き合わせれば、全部つながるようにしてあるのです」
ディートリヒが、感心したように私を見た。
「恐ろしい仕事の残し方だな」
「これでも、置き土産としては控えめですわ」
彼はとうとう笑った。
私も、少しだけ口元を緩める。
「では、その資料を憲兵隊に正式に保全させる。君自身の関与も、隠さず説明しよう。脅されていた事情も、命令書も含めてだ。法務官を呼ぶ」
「私も、罰を受けるかもしれませんね」
「結果を約束することはできん。ただ、一人で責任を負わされることはないようにする。記録も残る」
甘い答えではなかった。
だから、信用できた。
無罪だと言われて安心するより、何を話せばよいか分かる方がよかった。
「記憶のことは、どうなさいますか」
「外へ公表する必要はない。君の治療の経過だ。ただし、法廷で証言するなら、そのときは回復したと伝える。戻っていないという診断書を、私が偽造することはしない」
「墓場までは、無理ですか」
「その芝居を一生見せられる私の身にもなれ」
「見せて差し上げるとは、申し上げておりませんが」
彼がまた笑った。
普段の嫌味な笑い方とは、少し違った。
「泣き寝入りするお嬢様だと思っていたら、牙を剥く野良猫だったか」
「人を野良猫呼ばわりとは、高貴な公爵閣下のお言葉とも思えませんね」
「記憶を隠して王太子に書類を押し返そうとする悪女に、言われたくはないな」
そう呼ばれて、不思議と嫌ではなかった。
いい子でいろとも、許してやれとも言われない。
私の腹の黒いところを見つけて、この男は楽しそうにしている。
「では、協定成立ということで」
私は手を差し出した。
ディートリヒが取る。仕事の話をしていたはずなのに、指を包まれた瞬間、握り返すのが一拍遅れた。
「どうした」
「閣下のお手は、大きいのですね」
「今さら気づいたのか」
スープのときも、診察のときも、何度も見た手だった。
けれど、自分から差し出して触れるのは、初めてだった。
先に離したのは、彼の方だった。
私はなぜか、少し惜しいと思った。
「シセル」
「はい」
「そのうち、仕事以外の話にも付き合ってもらいたい」
私は彼を見上げた。
「公爵家の帳簿まで見ろと仰るのでしたら、お断りです」
「妻にしたい女へ、最初に頼むことが帳簿だとでも思うのか」
意味を理解するのに、少しかかった。
「……今、何と?」
「聞こえていただろう」
ディートリヒは立ち上がり、膝へ落ちていたショールを私の肩に戻した。
私は返事の代わりに、彼の袖を睨んだ。
何か気の利いたことを言わないと、一方的に負けた気がする。
「ずいぶん、気の長いお話ですこと」
「ああ。今すぐ答えろとは言っていない」
その返しには、言うことがなかった。
温室を出る前に、彼は私を振り返った。
「王宮から面会願いが何通も来ている。ローレンツが、そろそろ直談判に出るかもしれん。会う必要はないが、どうするかは考えておけ」
私は頷いた。
さっきまで、王宮のことしか考えられなかったのに。
彼が行ってしまった後も、握られた手をしばらく開けなかった。




