↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
死んで詫びろと言われたので、本気で毒を飲んでみた  作者: 九葉(くずは)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
8/15

第8話:医師と患者の、共犯協定

 よりによって、この男に聞かれるとは。

 私は膝の上で、ショールの端を握っていた。


 何のことでしょう、と首を傾げる案は、浮かんだ瞬間に捨てた。

 あれだけ喋っておいて、今さら無理だ。


「どこから聞いていらっしゃいましたか、閣下」


「あーあ、思い出しちゃった、という見事なため息のところからだ」


「それはどうも。お聞き苦しいことを申しました」


 頭を下げると、彼は隣のベンチへ腰を下ろした。

 逃げ道を塞ぐ位置ではなかった。

 それでも、このまま立ち去れるとは思わない。


「国王陛下に、お伝えになりますか」


「何を恐れている」


「ご存知でしょう。記憶が戻ったなら、元通り働けと言われることです」


 私は彼を見た。


「嫌です。もう、戻りません」


「うん」


 短い返事だった。

 私はかえって、用意していた言葉を失った。


「……それだけ、ですか」


「他に何がいる。婚約は解消されている。君は王太子府の職員でもない。記憶があろうとなかろうと、働く義務はない」


「でも、向こうはそう思いません」


「向こうの頭の中まで面倒を見るな」


 その言い方がおかしくて、危うく笑いそうになった。

 笑っている場合ではない。

 私は背筋を伸ばした。


「追い返されるくらいなら、屋敷を出ます。礼儀を欠いても、身分を捨てても。今度は、生きて逃げます」


 ディートリヒの顔から、笑みが消えた。

 しばらく、私を見つめている。

 何を言われるのかと身構えていたら、彼は小さく息を吐いた。


「そうしろ」


「え?」


「私が気に入らなくなっても、逃げろ。二度と、自分の命を差し出して話を終わらせようとするな」


 温室の入り口から、アンナがこちらを見ていた。

 ディートリヒは手を上げ、大丈夫だと知らせた。

 それから、私へ向き直る。


「だが、今すぐ出る必要はない。少なくとも体が戻るまでは、ここにいろ。嫌でなければな」


 返事をしないでいると、彼が片眉を上げた。


「条件がいるか」


「……その方が、安心できます」


 言ってから、情けなくなった。

 何かを返せなければ、食事も寝床も取り上げられるような気がする。

 ディートリヒは私の手元を見た。ショールの端が、くしゃくしゃになっていた。


「では、治療とは別の話として、協力を頼みたい」


 彼は声を落とした。


「王太子府の帳簿を調べている。不自然な支出が多い。君なら、出所を知っているものがあるだろう」


「あるどころではありませんわ」


 思わず、素の声が出た。

 彼の口元が動く。


「それは心強い」


「安心なさらないで。私の手が入った書類もあります。知らずに押しつけられた仕事ばかりではありません」


「詳しく聞こう」


 私は一度、息を吸った。


「神殿へ渡す金の一部が、宝飾品の支払いへ回されました。私が気づいたときには、殿下の決裁印が押されていた。伯爵家にも責任が及ぶと言われて、費目を変えました」


 口に出すと、あの夜の机が見えるようだった。

 元の数字を二重線で消した、私の指。


「間違っていると分かっていました。それでも、帳尻を合わせれば済むと思ってしまった」


 ディートリヒは遮らなかった。

 だから、最後まで言えた。


「原本と、変更を命じられた書付は残してあります。いつか私だけの責任にされるのが、怖かったから」


「どこに」


「王太子府の執務室。暖炉脇の戸棚に、私の作った索引があります。そこから辿れます。殿下は目立つ裏帳簿など作っておられません。領収書と命令書を突き合わせれば、全部つながるようにしてあるのです」


 ディートリヒが、感心したように私を見た。


「恐ろしい仕事の残し方だな」


「これでも、置き土産としては控えめですわ」


 彼はとうとう笑った。

 私も、少しだけ口元を緩める。


「では、その資料を憲兵隊に正式に保全させる。君自身の関与も、隠さず説明しよう。脅されていた事情も、命令書も含めてだ。法務官を呼ぶ」


「私も、罰を受けるかもしれませんね」


「結果を約束することはできん。ただ、一人で責任を負わされることはないようにする。記録も残る」


 甘い答えではなかった。

 だから、信用できた。

 無罪だと言われて安心するより、何を話せばよいか分かる方がよかった。


「記憶のことは、どうなさいますか」


「外へ公表する必要はない。君の治療の経過だ。ただし、法廷で証言するなら、そのときは回復したと伝える。戻っていないという診断書を、私が偽造することはしない」


「墓場までは、無理ですか」


「その芝居を一生見せられる私の身にもなれ」


「見せて差し上げるとは、申し上げておりませんが」


 彼がまた笑った。

 普段の嫌味な笑い方とは、少し違った。


「泣き寝入りするお嬢様だと思っていたら、牙を剥く野良猫だったか」


「人を野良猫呼ばわりとは、高貴な公爵閣下のお言葉とも思えませんね」


「記憶を隠して王太子に書類を押し返そうとする悪女に、言われたくはないな」


 そう呼ばれて、不思議と嫌ではなかった。

 いい子でいろとも、許してやれとも言われない。

 私の腹の黒いところを見つけて、この男は楽しそうにしている。


「では、協定成立ということで」


 私は手を差し出した。

 ディートリヒが取る。仕事の話をしていたはずなのに、指を包まれた瞬間、握り返すのが一拍遅れた。


「どうした」


「閣下のお手は、大きいのですね」


「今さら気づいたのか」


 スープのときも、診察のときも、何度も見た手だった。

 けれど、自分から差し出して触れるのは、初めてだった。


 先に離したのは、彼の方だった。

 私はなぜか、少し惜しいと思った。


「シセル」


「はい」


「そのうち、仕事以外の話にも付き合ってもらいたい」


 私は彼を見上げた。


「公爵家の帳簿まで見ろと仰るのでしたら、お断りです」


「妻にしたい女へ、最初に頼むことが帳簿だとでも思うのか」


 意味を理解するのに、少しかかった。


「……今、何と?」


「聞こえていただろう」


 ディートリヒは立ち上がり、膝へ落ちていたショールを私の肩に戻した。

 私は返事の代わりに、彼の袖を睨んだ。

 何か気の利いたことを言わないと、一方的に負けた気がする。


「ずいぶん、気の長いお話ですこと」


「ああ。今すぐ答えろとは言っていない」


 その返しには、言うことがなかった。


 温室を出る前に、彼は私を振り返った。


「王宮から面会願いが何通も来ている。ローレンツが、そろそろ直談判に出るかもしれん。会う必要はないが、どうするかは考えておけ」


 私は頷いた。

 さっきまで、王宮のことしか考えられなかったのに。

 彼が行ってしまった後も、握られた手をしばらく開けなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。