第7話:戻った記憶と、可愛くない決断
公爵邸に移ってから、一週間が過ぎていた。
喉の痛みはずいぶん薄れ、食事も普通のものに近づいてきた。まだ長く歩くと疲れるが、午後の散歩を許してもらえるくらいには回復している。
鏡を見るたび、アンナは顔色がよくなったと言った。
私は自分の元の顔色を知らないので、そうなのねと頷くしかなかった。
「今日は温室へいらっしゃいませんか。窓を開けてありますので、風が気持ちいいですよ」
肩にショールをかけてもらい、別館の奥へ向かった。
硝子屋根の下には、色鮮やかな花と薬草の鉢が並んでいた。名前を書いた小さな札が、どの鉢にも立てられている。
難しい綴りも、読めた。
そのたびに、自分だけが思い出せないのは変なものだと思う。
「少し、歩いていてもいいかしら」
「はい。私は入り口でお茶を用意しておりますね。お疲れになったら、お呼びください」
私は白煉瓦の小道を進んだ。
ここでは、休みたいと言えば椅子が出てくる。温室へ行きたいと言えば、ショールを持たせてもらえる。
些細なことを自分で決めるたび、まだ少し、許されたような気持ちになる。
赤い花の鉢が目に留まった。
葉の縁が、見覚えのある形をしている。
指先でそっと触れると、柑橘に似た香りが立った。
天竺葵。
その名が浮かんだ途端、別の窓辺が見えた。
王宮の執務室。窓際の鉢を替える私の手。
花などどうでもいいから、早く書類を持ってこい。
背後から飛んできた声に、思わず肩をすくめた。
「っ……!」
私は傍らのベンチへ手をついた。
さっきまで温室にいたはずなのに、次々と別の景色が重なってくる。
七歳の春、薔薇園で膝を擦りむいた金髪の少年。
お前が俺の婚約者か。ずっと俺を助けてくれるよな。
十歳の冬、練習用だったはずの書状が、そのまま殿下の手柄になった日。
十五歳の夏、足りなくなった寄進金の帳簿を抱え、相談しても取り合ってもらえず、明け方まで机に向かっていた夜。
コレットとすれ違った階段。背後の物音。振り向いた私を指差して、あの人に押されたと叫んだ声。
そして、卒業パーティー。
青い礼装。
ローレンツの声。
床から見上げたディートリヒの顔。
私はベンチに座り込み、両手で顔を覆った。
記憶は順序よく戻ってはくれなかった。幼い日の母の膝と、徹夜明けの机が、何の脈絡もなく続いた。
けれど、一つにつながっていく。
私の家。私の名前。十七年分の、私だった。
しばらく、何もできなかった。
温室の土の匂いと、ベンチの硬さを確かめながら、ただ息を整えた。
「あーあ。思い出しちゃった」
ようやく出たのは、我ながら間の抜けた声だった。
嬉しいかと聞かれれば、嬉しい。
父が手紙を書くとき、眉間に皺を寄せる癖も、母が私の髪を編んでくれたことも思い出した。
しかし、余計な男までついてきた。
よりによって、一番忘れていたかった男だ。
私は額を押さえた。
さて、どうするべきか。
今ここで、記憶が戻りましたと公表したら。
婚約は解消された。ローレンツは謹慎中で、王太子の権限も止められたと聞いている。
それでも、あの王宮の人間なら言いかねない。
ひとまず今月の予算だけ。
引き継ぎが終わるまで。
あの子も反省しているのだから、話くらい聞いてあげて。
冗談ではない。
ひとまずで差し出した一時間が、毎晩になり、十年になったのだ。
同じ手に、二度も引っかかってたまるものか。
思い出せない私には、誰も仕事を持ってこなかった。
頭が痛いと言えば、休ませてもらえた。
あの生活へ戻りたくないと、理由を並べて許しを請わずに済んだ。
「黙っていれば、いいのよね」
いけないことを思いついた自覚はあった。
けれど、今はそれくらいの盾が欲しかった。
「よし。墓場まで持っていこう。死ぬまで記憶喪失のふりを突き通してやる」
健気で可哀想な令嬢など、クソ食らえだ。
記憶がない間まで、私はローレンツに謝りかけていた。忘れてもまだ、体に染みついていたのだ。
ここで自分の味方をしなければ、いつする。
当面は、きちんと体を治す。
その後は王都の外れにでも、小さな家を借りればいい。蓄えなら、自分の給金を貯めた口座がある。遠くへ行くかどうかは、歩いても息が切れなくなってから決めよう。
働くにしても、自分で時間を決める。朝まで書類を書けなどと言う客は、扉の外へ追い返してやる。
そこまで考えて、口元が緩んだ。
「ざまあみなさい、ローレンツ殿下。精々その足りない頭で、ご自分の書類をお読みなさいな」
「ほう」
心臓が跳ねた。
私は慌てて顔を上げる。
ヤシの鉢の陰に、ディートリヒが立っていた。
「記憶が戻ったのか、悪女殿」
いつから。
どこから。
そう尋ねる前に、彼が歩いてきた。
私の顔を一度確かめ、額の汗を見て、隣に膝をつく。
「気分は悪くないか」
「それは、その……」
「誤魔化すのは診察の後にしてくれ」
ひと通り様子を確かめると、彼は立ち上がった。
先ほどまで真面目だった口元が、ゆっくりと曲がる。
「死ぬまで記憶喪失のふりを突き通す、だったか。実に、可愛げのない決断だ」




