第6話:王太子の胃痛と、消えた実務
机の上の書類の山は、一向に減る気配がなかった。
減るどころか、時間が経つごとに増えていく。
「殿下。東部防壁の資材費ですが、昨年の見積書と発注額が違っております」
「殿下、答礼晩餐会の予算から、宝飾品の代金が支払われております。ご説明を」
「殿下、神殿への寄進金の出納帳も合っておりません。こちらの署名は、殿下のもので間違いありませんな」
次から次へと執務室へ入ってくる文官や大臣たちの声が、鋭い針のようにローレンツの鼓膜を突き刺した。
東の離宮で謹慎を命じられても、机に向かわずに済むわけではなかった。急ぎの決裁は国王と各省へ移され、ローレンツに残されたのは、過去の支出に関する説明だった。
アルトハイム公爵が揃えた書類の写しに、財務卿の質問書まで添えられていた。
「待て、少し待てと言っているだろう! 今、確認している!」
ローレンツは怒鳴り散らした。
だが、その声は上擦り、机の上に広げた書類を握る指先は小刻みに震えていた。
分からないのだ。
一枚の羊皮紙にびっしりと並んだ、複雑な関税率の計算式。地方貴族たちの入り組んだ婚姻関係と利害関係。神殿法廷の条文番号。
文字の羅列を見ているだけで、頭の芯が割れるように痛んだ。
これまで、こんな苦労をしたことは一度もなかった。
執務机の前に座れば、すでにシセルが完璧に精査した書類が、付箋とともに整然と並べられていたのだ。
殿下、こちらの書類はサインだけで結構です、内容は私が確認いたしました。
こちらの予算案は、三行目の数字を承認していただければ、東部の大公も納得いたします。
彼女はいつも、分かりやすく要約したメモを添えて、彼がペンを走らせるだけの状態に整えてくれていた。
「確認とおっしゃいますが、殿下。朝から、同じ頁を開いておいでですぞ」
財務卿の冷ややかな声が飛んだ。
白髪の老貴族は、眼鏡の奥から侮蔑を隠そうともせずにローレンツを見据えていた。
「シセル嬢がおられた頃は、殿下がすべてご理解の上で決裁なさったと聞いておりました。今になって何も分からないとは、どういうことですか」
「なっ! 財務卿、口を慎め!」
「本日の日没までにご回答ください。緊急の支払いは陛下が処置されましたが、使途不明金の説明まで免除されたわけではありません。失礼いたします」
財務卿は深々と一礼することもなく、苛立たしげに部屋を出て行った。
バタン、と閉まった扉を見つめながら、ローレンツはガリガリと爪を噛んだ。
胃の奥が雑巾を絞られるように痛む。脂汗が額から滲み出て、喉がカラカラに渇いていた。
その時、甘ったるい香水の匂いとともに、部屋の扉が遠慮がちに開いた。
「ローレンツ様」
入ってきたのは、薄桃色のフリルのドレスを着たコレットだった。彼女も調査が終わるまで王宮に留め置かれ、呼び出しに応じるよう命じられていた。
手には小さな銀の盆を持ち、湯気の立つ陶器のカップを乗せている。額の湿布はすでに外され、傷跡も見えなかった。
面会を取り次いだ侍従は、記録係を扉の外に残して下がった。
「お疲れのご様子でしたので、私、お茶を淹れてまいりましたの。甘いお菓子もご一緒にいかがですか?」
コレットは小首を傾げ、可憐に微笑みながら机の脇へとすり寄ってきた。
卒業パーティーの前であれば、その無邪気な笑顔にローレンツも鼻の下を伸ばしていただろう。
だが、今の彼にとって、その甘ったるい声は苛立ちの燃料でしかなかった。
「お茶など後だ! コレット、お前、男爵令嬢なら少しは読み書きや計算ができるだろう! この書類の束を見ろ! 少しは手伝え!」
「えっ?」
コレットの笑顔が引き攣った。
差し出された分厚い帳簿を見て、彼女は露骨に嫌そうな顔をして後ずさった。
「そ、そんなの無理ですわ。私、難しい数字なんて見ているだけで頭が痛くなっちゃいますもの。シセル様みたいなお堅くて地味な方ならともかく、私にそんな無粋なこと」
「無粋だと!?」
ローレンツの怒声が炸裂した。
机を激しく叩く。
「この書類が片付かなければ、俺は廃嫡されるかもしれないんだぞ! お前が階段から落とされたなどと泣きつくから、俺はあいつを責めたんだ! お前のせいでシセルは毒を飲んだんだぞ! 少しは責任を感じたらどうなんだ!」
「ひっ!」
コレットが怯えたように悲鳴を上げた。
そして、手元が狂ったのか、持っていた銀の盆が傾いた。
熱い紅茶が、机の上に広がっていた重要な書類の束の上に、容赦なくぶちまけられた。
さらに倒れた陶器のインク壺から、真っ黒なインクが滝のように書類を飲み込んでいく。
「あっ」
「貴様あッ!!」
ローレンツは狂ったように立ち上がった。
紅茶と黒インクで無残に汚れた羊皮紙。文字は滲み、数字は完全に判読不能になっていた。
今日中に説明しなければならない、東部防壁の支出記録の写しだ。隅に書き込みかけていた答えまで、黒く潰れていた。
「何をしてくれたんだ、この阿呆が! 出て行け! 今すぐ俺の視界から失せろ!」
「ひ、酷いですわ! ローレンツ様、私を怒鳴るなんて!」
コレットは床に座り込み、両手で顔を覆って泣き声を上げた。
「私、ローレンツ様のために良かれと思って! それに、私、階段で打った頭が、まだ痛むのに! 乱暴なシセル様と違って、私には優しくしてくださるって約束しましたのに!」
いつもの、男の庇護欲をそそる涙劇。
だが、ローレンツの目に映ったのは、守るべき可憐な少女ではなかった。
ただの、自分の足手まといになり、喚き散らすだけの鬱陶しい邪魔者だった。
うるさい。
鬱陶しい。
こいつは、こんなにも中身のない、役立たずの女だったのか。
シセルなら、決してこんな失敗はしなかった。
お茶を淹れる時は、常にローレンツの好みの温度を計り、決して書類のある机の上には置かず、脇の小机に静かに配膳していた。
インクをこぼすどころか、ペン先が摩耗していれば、彼が気づく前に新しいものと取り替えてくれていた。
「衛兵! この女をつまみ出せ! 二度と私の執務室に入れるな!」
「嫌! 離して! ローレンツ様!」
駆け込んできた衛兵たちに両脇を抱えられ、コレットは醜く喚きながら引きずり出されていった。
バタン、と扉が閉まる。
静まり返った部屋の中で、ローレンツはインクまみれの机に両手をつき、荒い息を吐いた。
頭が狂いそうだった。
胃の痛みが限界を超え、喉の奥まで苦い胃液がせり上がってくる。
「シセル。シセルはどこだ」
彼はうわ言のように呟いた。
そうだ、あいつの部屋だ。
王宮に残されているシセルの私室に行けば、何か引き継ぎの覚書や、書類の処理手順を書いた控えが残っているはずだ。
あいつは几帳面だった。必ず何か残している。
ローレンツは侍従を呼びつけ、シセルの部屋に資料があるはずだと訴えた。自由な外出は許されなかったが、記録の確認ならばと、護衛つきでの移動が認められた。
王宮の西翼に着くなり、彼は侍従を押しのけるようにして、彼女の私室へ入った。
部屋は、すでに主を失って冷え切っていた。
伯爵令嬢の部屋とは思えないほど、家具は簡素で、飾り気のない部屋だった。
壁際の本棚には、法律書や経済学の専門書、他国の地理誌がびっしりと並んでいる。
着飾るためのドレスも宝石もほとんどなく、あるのはインクの染みがついた作業用の簡素な服ばかりだった。
「どこだ、どこにある!」
ローレンツは乱暴に机の引き出しを開け放ち、書類を引っ張り出した。
だが、出てくるのは過去に決裁が完了した古い記録ばかりで、これからの手引きは見当たらない。
焦燥感に駆られ、一番下の深い引き出しを力任せに引き抜いた時、ガタリ、と奥から小さな音がした。
奥の仕切りに挟まっていたのは、一冊の手帳だった。
使い込まれて角が擦り切れた、焦げ茶色の革表紙の手帳。
ローレンツは縋り付くようにそれを手に取り、震える指でページをめくった。
そこに書かれていたのは、書類の処理法ではなかった。
『ローレンツ殿下についての控え』
シセルの、端正で几帳面な筆跡だった。
『殿下は空腹時に集中力を欠き、機嫌を損ねやすいため、午前の執務が長引く際は十一時半に小さな焼き菓子を差し入れること』
『雨の日は幼少期に落馬された右肩が痛むご様子。湿布の匂いを嫌われるため、無香の薬草油を手配しておくこと』
『他国の使節との会談前夜は緊張で眠れなくなる癖がおあり。夕食後のお茶はいつものものを。窓辺の天竺葵を気に入っておられるので、花が枯れていないか確かめること』
ページをめくっても、めくっても。
書かれていたのは、すべてローレンツのことだった。
彼が何を好み、何を嫌い、どうすれば笑顔になり、どうすれば傷つかないか。
彼自身すら気づいていないような癖まで、細かな字で書き足されていた。前の手帳から転記したと、欄外に注記のある頁もあった。
そして、手帳の最後のページ。
卒業パーティーの前夜の日付が記された欄に、小さな文字で、こう書き残されていた。
『明日は殿下にとって晴れ舞台。式典用の祝辞の修正完了。清書は朝に。青い礼装の補正も、仕立て屋に頼んで今夜中に終えていただく。
最近、殿下のお顔に疲労の色が見える。明日のパーティーが無事に終わったら、少しお休みいただけるよう、来週の公務の予定を調整しておこう。
今日も殿下に怪我はなく、ご無事だった。本当によかった』
ペンのインクが、そこで途切れていた。
「あ……」
ローレンツの喉から、掠れた声が漏れた。
手帳を持つ指が、激しく震えた。
怪我はなく、ご無事だった。
晴れ舞台。
少しお休みいただけるように。
彼女は、この手帳を書いた翌日に。
あの壇上に引きずり出され、婚約者である自分から死んで詫びろと罵倒されたのだ。
シセルは、何を考えてあの小瓶を持っていたのだろう。いつから、あんなものが必要なほど追い詰められていたのだろう。
これまで、不行き届きの数々――。
言いかけて、途切れた声だった。
あの時のシセルの声が、耳の奥で鮮明に蘇った。
その後で、シセルは一度、言葉を取り消さないかと尋ねた。
あれが最後の機会だった。
自分は、同じ命令を繰り返したのだ。
「うっ、おえっ!」
猛烈な吐き気が込み上げ、ローレンツはその場に崩れ落ちた。
手帳を床に落とし、胸を押さえて激しく嘔吐した。
何も出なくなっても、吐き気は止まらなかった。
手帳には、彼女自身のことがほとんど書かれていない。
ローレンツは一度も尋ねていなかった。シセルが何を食べたいか、何時に寝たか、今日は休めたのか。
どうしてあの娘だけは、何も言わずに働き続けられると思っていたのだろう。
「シセル。シセルッ! 頼む、嘘だと言ってくれ!」
床に膝をついたまま、ローレンツは子どものように泣き叫んだ。
だが、その叫びに応える者は、誰もいなかった。
その時、部屋の扉が音もなく開いた。
床にうずくまる王太子の前で、革靴が止まった。
見上げたローレンツの目に映ったのは、国王直属の筆頭侍従の、氷のように冷たい顔だった。
「ローレンツ殿下。陛下より、至急の沙汰書をお持ちいたしました」
侍従は床の惨状を一瞥すらしようとせず、無機質に告げた。
「本日付で、殿下の王太子としての権限を停止いたします。ならびに、ヴェルナー伯爵令嬢への自死の強要と、公金の不正支出について、特別査問会を開くことが決定いたしました」




