第5話:毒のない温かいスープ
アルトハイム公爵邸の別館に与えられた部屋は、王宮の医務棟よりもずっと静かだった。
高い窓から、雨上がりの光が差し込んでいる。庭の木々にはまだ雫が残り、枝が揺れるたび、きらきらと散った。
暖炉には小さく火が入っていた。
椅子の肘掛けに触れると、木がほんのり温かい。
私はそこへ腰を下ろし、膝の上に両手を重ねた。
眠っていても、ここでは誰も起こしに来ない。起きていればお茶を勧められ、疲れたと言えば、ではお休みくださいと言われる。
それだけのことに、いちいち戸惑った。
机には紙もペンもあった。
父からの手紙へ返事を書こうとして、私は自分がすらすら文字を書けることに驚いた。礼状の書き出しも、考える前に手が動く。
けれど、お母様は何色がお好きでしたか、と尋ねる一文で、ペンが止まってしまった。
ノックが二度、響いた。
「シセル様、お食事をお持ちいたしました」
初老の従僕がワゴンを押して入ってきた。
丸机に皿が並べられ、銀の蓋が外される。
黄金色の鶏のスープだった。細かく刻んだ野菜と、柔らかくほぐした肉が入っている。
小さな白パンと蒸した白身魚、温かい薬草茶も添えられていた。
「今日は少しずつ、お試しいただけるそうです。お辛ければ、どうぞお残しください」
従僕はそう言って下がった。
食べ残してもいいのかと、私はまた少し驚いた。
湯気が上がっている。
空腹だった。いい匂いだとも思った。
銀のスプーンを取り、澄んだスープに入れる。
そのとき、指が止まった。
匙の中で、液体が揺れた。
喉が締まる。息を吸おうとしても、胸がうまく広がらない。
あの人は、私は毒を飲んだと言っていた。
それを思い出すより先に、手が震え始めた。
カチ、カチ、とスプーンが皿に当たる。
飲まなければ。せっかく作ってくださったのに。
そう思うほど、唇を近づけられなくなる。
「シセル」
声がした。
顔を上げると、開いた扉のところにディートリヒが立っていた。
私の手を見て、すぐに近づいてくる。
「匙を置いていい」
私は言われた通りにしようとして、うまく指が開かなかった。
彼が皿を支えた。ようやくスプーンを放すと、思っていたより大きな音が鳴った。
「申し訳――」
「割れていない」
先にそう言われて、私は口を閉じた。
「今は食べなくていい。落ち着くまで待とう」
ディートリヒは向かいの椅子に座った。
何が怖いのか、説明を求められなかった。
私が息を整える間、彼はただそこにいた。
「お腹は、空いているのです」
しばらくして、私はようやく言った。
「なのに、喉が動かなくて」
「うん」
「また苦しくなるような気がして。水は飲めたのに、変ですね」
「変ではない。同じように見えるものでも、怖いときはある」
ディートリヒは皿の湯気を見た。
「私が少し、いただいてもいいか」
私は頷いた。
彼はスープをひと匙すくい、口へ運んだ。
飲み込んでから、少しだけ眉を上げる。
「塩が控えめだな」
「お嫌いですか?」
「君に出すには、これくらいでいい」
彼は使ったスプーンを脇の皿へ置き、新しいものを私の前に並べた。
「毒は入っていない。厨房も配膳も、長くここで働いている者に任せている」
その声を聞いて、私はもう一度スープを見た。
鶏肉が、皿の底に沈んでいた。
先ほどまで怖かった湯気が、今は少しだけ惜しい。冷めてしまう前に飲みたいと思った。
「一口、だけなら」
「ああ。無理なら、そこで終わりにしよう」
スプーンを持ち直す。
ディートリヒは皿を見ず、私を急かすこともしなかった。
ほんの少しすくって、唇に触れさせる。
温かかった。
舌に広がったのは鶏の旨味で、痛みではない。
恐る恐る飲み込んで、何も起こらないのを待った。
また一口、飲んだ。
「おいしい」
声がこぼれた。
その途端、スープの表面に小さな波紋が広がった。
「あれ?」
頬へ手をやると、濡れていた。
慌てて拭ったのに、また涙が落ちる。
美味しいとしか言っていないのに。泣くほど悲しいことなど、今は何もないのに。
ディートリヒがハンカチを差し出した。
私は礼を言おうとして、うまく声が出なかった。
「ゆっくりでいい」
彼は椅子の背にもたれた。
私は泣きながら、もうひと匙すくった。
半分ほど食べたところで手を止めると、それ以上は勧められなかった。
残しても、彼は怒らなかった。
「公爵様は、召し上がらないのですか」
「あとで」
机の上に目をやると、彼が持ってきたらしい書類がある。
私は皿から彼へ、視線を戻した。
「その『あとで』は、いつですか」
口にしてから、ずいぶん馴れ馴れしいことを聞いたと気づいた。
けれど、ディートリヒは一瞬黙り、廊下へ声をかけた。
「私にも同じものを」
私はハンカチを顔に当てたまま、少し笑った。
彼がこちらを見たので、急いで俯く。
それでも、笑ってしまったことまで隠すのは無理だった。
その夜、本邸の執務室で、ディートリヒは王太子府から取り寄せた記録を読んでいた。
机の隅には、空になったスープ皿が置かれている。
「過去三年分、抽出が済みました」
公爵家の調査係が、追加の綴りを机へ載せた。
「関税率改定の試算、治水事業の利害調整、式典の予算案。王太子府の担当分は、ほとんどシセル嬢が下準備をしておられます。署名は殿下ですが、修正指示の返書も彼女宛てです」
ディートリヒは一枚を持ち上げた。
日付の横に、時刻まで書き込まれていた。午前三時。
「十七歳の娘に、ここまで任せていたのか」
「婚約者教育の一環という扱いだったようです。本人も辞退せず、王太子府の職員もそれに甘えていたかと」
「辞退できる立場だと思うか」
調査係は口を閉じた。
ディートリヒは書類を置き、次の綴りを開いた。
「止まった案件は」
「緊急分は財務卿が引き取りました。東部防壁の資材費も、陛下の裁可で支払いが進んでおります。ただ、過去の支出の根拠については、殿下の説明がなければ調査が進みません」
「では、殿下に説明していただこう」
ディートリヒは、署名の並ぶ頁を指で叩いた。
「ご自分の名で出した書類だ。何も知らないとは言わせん。原本は保全しろ。離宮へ送るのは写しだけだ」
「承知しました」
調査係が下がった後も、ディートリヒはしばらく机に向かっていた。
署名の横には、細く整った字の補足がある。
彼の診察室へ、夜更けに書類を届けに来た少女の字だった。
顔色が悪いと指摘するたび、あと少しですからと笑っていた。
あと少し。
それを、何度聞いただろう。
ディートリヒは書類を閉じた。
明朝、離宮の机に積まれる写しを見下ろして、短く言った。
「今度は自分で読め、ローレンツ」




