第3話:『あの、どちら様でしょうか?』
男は手を伸ばしたまま、私を見つめていた。
口元にはまだ笑みが残っている。引っ込めることすら忘れたような、妙な笑みだった。
「な、何を、言っているんだ?」
私はアンナを見た。
困ったことを言ったらしい。けれど、本当に知らないのだから、答えようがない。
「冗談、だろう? シセル。怒っているのは分かる。当然だ。俺があんなことを言ったから、仕返しをしているんだな? 頼むから、そんな芝居はやめてくれ」
男が身を乗り出した。
私はさらに枕へ背中を押しつける。
「申し訳ありません。からかっているわけではないのです。自分の名前も、今、こちらの方に教えていただいたばかりで」
「嘘だッ!」
叫び声に、肩が跳ねた。
アンナが前へ出る。
「殿下、どうかお静かに。お医者様がすぐにいらっしゃいますから」
「お前は黙っていろ!」
男は両手で頭を抱え、乱暴に髪を掻きむしった。
「俺を忘れるはずがない! お前は七歳の頃から、ずっと俺の隣にいただろうが! 俺が呼べば飛んできて、俺の言うことなら何だって笑って聞いてくれたじゃないか!」
七歳の頃から。
私は自分の手を見下ろした。
指にはペンだこがある。きっと何かを書いていたのだろう。それさえ分からない私に、この人は笑って従えと言う。
「俺だぞ、シセル! ローレンツだ! この国の王太子で、お前の婚約者だ!」
婚約者。
私は恐る恐る顔を上げた。
それなら、親しくしていた相手なのだろう。忘れてしまったのは、気の毒なことなのかもしれない。
そう思おうとしても、彼の手が動くたび、体が勝手に身構えた。
「殿下、でいらっしゃいますか」
「そうだ! 分かったか!」
「お名前は、分かりました。ですが……それ以上、近寄らないでいただけますか」
「なっ」
「胸が苦しいのです。大きな声を出されると、息が詰まってしまって」
ローレンツの手が、膝の上へ落ちた。
ひどく傷ついた顔をしたので、私は言い過ぎただろうかと考えた。けれど、呼吸が苦しいのは本当だった。
取り消すことはできない。
「俺を、覚えていない?」
「はい」
「そんなはずはないんだ。俺は、ただ、お前がコレットをいじめたって聞いて、頭に血が上っていただけで。死んで詫びろなんて、本気で思っていたわけじゃないんだ!」
私は毛布を握り直した。
死んで詫びろ。
婚約者に向けて、そう言ったのか。この人は。
「謝ってほしかっただけなんだよ! 俺にすがって、許しを請うてくれれば、すぐに許してやるつもりだったんだ!」
「何を、ですか」
「え?」
「私は何をしたのでしょう。その方を、いじめたというのは」
「だから、コレットが階段から……いや、その話はもういい! 取り消すと言っているだろう!」
もういい。
死ねと言うほどのことが、その一言で終わるらしい。
私は返す言葉をなくした。
「シセル、思い出してくれ、頼む! あの日、お前が倒れてから、俺はろくに眠れていないんだ! 執務室は書類で埋まって、大臣たちからは責められて! お前がいないと、俺は何もできないんだよ!」
ローレンツはベッドの縁へ額を近づけた。
涙がシーツに落ちる。
私は動けなかった。慰めようと手を伸ばす気にもなれなかった。
自分の胸も喉も、こんなに痛い。それなのに彼は、机の上の書類の話をしている。
「お前が戻ってきてくれないと困るんだ! 婚約は解消させない! コレットのことはもういい、あんな女はどうでもいい! だから、俺を許してくれ!」
布団の端を掴む手に、力がこもった。
足元の毛布が引かれる。
「やめて!」
今度は、はっきり声が出た。
アンナが呼び鈴へ手を伸ばすのと、部屋の扉が開くのは、ほとんど同時だった。
「その手を離してもらおうか」
低い声がした。
白い医官の外套を羽織った男が、入り口に立っている。漆黒の髪に銀縁の眼鏡。手には革表紙の記録簿を持っていた。
「ディートリヒ!」
ローレンツが振り返る。
「なぜ入ってくる! 俺とシセルの大事な話の最中だぞ!」
「面会は許可しておりません」
男はベッドへ近づき、まず私を見た。
「苦しいか」
私は頷いた。
初めて会うはずの人だった。少なくとも、今の私にはそうだった。
それでも、答えを急かさずに待つその声に、少しだけ肩の力が抜けた。
「分かった。もう喋らなくていい」
彼は記録簿を机に置いた。
表紙の下から、何枚も紙がはみ出している。角が折れ、端には走り書きが見えた。
ローレンツが私へ向き直ろうとすると、男がその前へ立った。
「病室へ押し入り、目を覚ましたばかりの患者を怒鳴りつける。殿下の大事な話とは、そういうものでしたか」
「口を慎め! 相手が誰だか分かっているのか!」
「よく存じております。三日前、ご自分の婚約者に死んで詫びろと命じた方だ」
ローレンツの顔が赤くなった。
「お前に何が分かる! これは俺たちの問題だ!」
「では、彼女の返事も聞くべきでしたね」
男は、毛布に食い込んだローレンツの指へ視線を落とした。
「やめてと言いました。聞こえなかったとは言わせません」
ローレンツがさらに布団を引こうとした。
その手首を、男が掴んだ。指が外れ、毛布が私の膝に戻ってくる。
「痛っ! 離せ!」
「こちらの台詞です」
男はローレンツをベッドから離したところで手を放した。
王太子がよろめき、後ろの椅子にぶつかる。
アンナがすぐに私の毛布を掛け直してくれた。
「殿下。今から廊下の衛兵を呼びます」
「俺を追い出すつもりか! 俺の婚約者だぞ!」
男は上着の内側へ手を入れた。
出てきたのは、王家の紋章を押した封書だった。
「その婚約の件も含めて、陛下からお預かりした命令があります」




