第2話:胃洗浄の苦痛と、怒れる宮廷医
「器具を持ってこい! 急げ!」
講堂にいた医官たちが、ディートリヒの周囲へ駆け寄った。
彼の手は動き続けている。シセルの顔を見て、医官に短く指示を出し、また彼女に呼びかけた。
銀縁の眼鏡がずれても、直そうとはしなかった。
「おい、死なせるな! 頼む、ディートリヒ、死なれたら困るんだ!」
背後でローレンツが叫んだ。
「俺が殺したみたいになるだろうが!」
ディートリヒは振り向かなかった。
「衛兵。殿下を下がらせろ。治療の邪魔だ」
「何だと! 俺は――」
「下がれ!」
今度は、誰も言い返さなかった。
生徒と来賓が講堂から退き、衝立が運ばれてきた。床に残された小瓶の破片を、別の医官が布で包んで保管する。
ディートリヒのこめかみを、汗が一筋伝った。
「戻った。脈がある」
医官の声に、彼の肩がわずかに動いた。
「運ぶぞ。まだ気を抜くな」
王宮の医務室へ移されたシセルには、夜通し処置が続けられた。
胃の中に残った薬を除く処置も必要だったが、すでに体へ回ったものまで、それだけで消せるわけではない。容体が落ち着いたと思えば、また医官が呼ばれた。
交代を申し出た部下に、ディートリヒは時計を一度見せるよう求めた。
時刻を確かめてから、椅子に座る。
「半刻だけ休む。変化があったら、すぐ起こせ」
眠れるはずがなかった。
ベッドの端から覗く細い指を見つめていると、それがかすかに動いた。
「シセル」
近づけた彼の袖を、爪の先が引っかいた。
瞼は開かず、返事もない。
ディートリヒはその手を取った。自分の手が震えていることに、そこで初めて気づいた。
「詫びる必要などなかったんだ」
眠る少女に向かって、声を落とす。
「お前が死ななければならない理由など、どこにもない」
窓の外が明るくなっても、彼は手を離さなかった。
あの夜から三日が過ぎた朝、私が目を覚ますと、見慣れない高い天井があった。
白い漆喰と蔦の彫刻。カーテンの隙間から差し込む光の中で、埃がゆっくり漂っている。
部屋は消毒薬の匂いがした。
身を起こそうとして、胸の痛みに顔をしかめた。
喉も痛い。何かを飲み込むたびに、ひりつく。
手の甲には小さな包帯があり、腕にはいくつもの痕が残っていた。
「あ……」
声にならない。
私はベッドの上で、しばらく途方に暮れた。
ここは、どこだろう。
そもそも私は、誰だったか。
名前を思い出そうとすると、そこで考えが止まる。
親の顔も、家の形も分からない。窓や椅子の名前は分かるのに、自分の部屋がどんなだったか、一つも浮かんでこなかった。
ただ、誰かに叱られるのではないかと気になった。
こんなに明るくなるまで寝ていていいのだろうか。
急いで起きなければ。
でも、どこへ行くために?
扉が開いた。
銀の盆を持った若い侍女が入り、私と目を合わせるなり、あっと声を上げた。
「お目覚めになられたのですか!?」
彼女は盆を小机に置き、ベッドへ駆け寄ってきた。
「よかった……! 三日も熱が下がらなくて。先生をお呼びいたしますね」
「あの」
呼び止めると、彼女は足を止めた。
「お水を、いただけますか」
「はい。お口が渇いていらっしゃいますね。少しずつにしましょう」
侍女は水差しから杯へ水を注いだ。
私を支え、急がせずに待ってくれる。ほんの少し口に含んで、私はようやく息をついた。
「ここは、どなたのお屋敷でしょうか」
「王宮の医務棟でございます。アルトハイム公爵閣下が、治療にあたっておられます」
王宮。公爵。
どこかで聞いたような気もするが、それだけだった。
「あなたは、私をご存知なのですね」
「はい。私はアンナと申します。こちらでお世話をさせていただいております」
「では、教えてください」
私は杯を両手で持ったまま、彼女を見上げた。
「私は、誰なのですか?」
アンナの笑顔が止まった。
すぐには返事がなく、私の顔を確かめるように見つめてくる。
「ご自身の、お名前が……?」
「思い出せないのです。何も」
口にすると、急に心細くなった。
目を覚ませば誰かがいて、その人が私を知っている。それを、さっきまでは当然だと思っていた。
私だけが、何も知らない。
アンナは杯を受け取り、私の手にそっと布をかけた。
「シセル・ヴェルナー様でございます。お父様はヴェルナー伯爵。ご家族も、ずっと心配しておられます」
「シセル」
自分の名前を、一度声に出してみる。
まだ、借りた名前のようだった。
アンナが呼び鈴を鳴らし、廊下の者へ医官を呼ぶよう頼んだ。その声が消えないうちに、外で男たちが言い争い始めた。
「殿下、面会のお許しはまだ!」
「気がついたんだろう! 俺は婚約者だぞ!」
勢いよく、扉が開いた。
「シセル! 気がついたというのは本当か!」
飛び込んできたのは、豪奢な上着を着た若い男だった。
金髪が乱れ、目の下に隈がある。止めようとする侍従の腕を振り払い、まっすぐベッドへやってきた。
「シセル、ああ、神よ! 俺が悪かった、あんなのは全部取り消す! お前を捨てる気なんてなかったんだ! だから頼む、俺を許してくれ!」
男はベッドの縁に膝をつき、私の手へ手を伸ばした。
知らない人だった。
何を取り消すのか、何を許せばいいのかも分からない。
なのに、手が近づいただけで背筋が冷たくなった。
私は慌てて身を引いた。シーツを掴んだ指に力が入る。
「シセル?」
男は、自分が拒まれるとは思わなかったような顔をした。
アンナが私と彼の間へ入ろうとする。
私は毛布を胸元まで引き上げ、どうにか口を開いた。
「あの、どちら様でしょうか? 私、あなたのような怖い方、存じ上げません」
差し出された手が、空中で止まった。




