第14話:冷徹医師の理性が焼き切れる夜
私はトランクを見た。
持ち手が、少し斜めに倒れている。
つまらないことに目が行くのは、正面に立つ人の顔を見続けられなかったからだ。
「閣下。あの、お話は」
「覚えているだろう。温室で言ったことを」
覚えている。
忘れられるわけがない。
「ですが、あれはまだ、いろいろ片付いていないときでしたから」
「片付いたら、気が変わると思ったのか」
「分かりません。私は一度、殿下の婚約者でしたし。人前であんな騒ぎを起こして、記憶が戻ったことまで隠して」
うまく言えなくなった。
口に出すほど、自分の欠点を売り込んでいるようで嫌になる。
「私のような者を公爵夫人に選んで、閣下に何の得があるのですか!」
ディートリヒが、目を閉じた。
笑うのかと思った。
違った。彼は眼鏡を机に置き、両手を空けた。
「得があるから、そばに置きたいのではない」
「ですが」
「君がいなくなった食卓で、一人で飯を食うのが嫌だと言っている」
私は黙った。
思っていた答えと、あまりにも違った。
「食卓、ですか」
「悪いか」
「いいえ」
少しも悪くない。
ただ、胸の奥の、用意していなかった場所へ届いた。
ディートリヒは椅子を引いた。
「立たせたまま話すつもりではなかった。座ってくれ」
私は腰を下ろした。
彼も向かいに座る。
「あの日、学園へ来てくださったのは、偶然だったのですか」
ずっと聞けなかったことを、私は尋ねた。
彼は窓へ目をやった。
「卒業式の来賓として招かれていた。診療の日ではなかったから、医官としてではなく、式を見に行くつもりだった。到着が遅れ、入り口で騒ぎを聞いた」
「私のことを、ご存知だったのですね」
「君は医務室に、何度書類を運んできたと思っている」
私は少し考えた。
薬品の購入費。負傷兵の療養予算。式典で待機する医官の割り振り。
思い出した仕事が、多すぎる。
「ずいぶん、ご迷惑を」
「迷惑をかけていたのは、予算を削れと言いながら待機人数を増やした王太子府だ」
彼の言い方に、私は小さく笑ってしまった。
「一度、君は私の試算の誤りを見つけた。夜勤分の手当を、昼と同じ額で計算していたところだ」
「ありましたね」
「私は不機嫌だった。だが君は、間違っているものは間違っています、と譲らなかった」
それも覚えている。
偉い方へ言い返した後で、廊下の隅まで行ってから、膝の震えが収まるのを待った。
「怖かったんですよ、あのとき」
「そうは見えなかった」
「得意なのです。平気な顔をするのは」
ディートリヒが私を見た。
その視線から、今度は逃げなかった。
「知っておくべきだった」
彼が言った。
「顔色が悪い、眠れ、と何度も言った。あれで言うべきことは言ったつもりになっていた。どうすれば休めるかまで、聞かなかった」
「閣下のせいではありません」
「それでも、悔いは残る」
机の上の眼鏡に、夕日が反射していた。
彼はそれを手に取らなかった。
「あの日、倒れている君を見たときは、怖かった」
声が少し掠れた。
「何をすべきかは分かっていた。手も動いた。だが、君が戻らなかったらという考えが、離れなかった。あれほど自分の手を、頼りなく思ったことはない」
私は彼の手を見た。
大きくて、いつでも迷いなく動く手。
それが頼りなく思えたと、この人は言う。
「お前の命は私のものだ、と言えたら、簡単だったろうな」
私は顔を上げた。
彼は、苦いものを飲んだように口元を曲げた。
「助けたのだから出ていくな。そう命じれば、君はまた、自分を後回しにしかねない」
「そうかもしれません」
「だから、頼む。ここにいてくれ、シセル」
それきり、彼は黙った。
どんな命令よりも、返事が難しかった。
私は膝の上で指を組み、ほどいた。
「私は、閣下のそばにいると、困るのです」
彼の表情が動いた。
「どう困る」
「ご飯を残しても怒られないし。言い返しても、嫌いになられないし。仕事を終えていなくても、眠っていいと言われるでしょう」
「ああ」
「それで、私まで、明日もここにいたいと思ってしまうのです」
最後は、ほとんど小声になった。
ディートリヒが何も言わないので、思い切って顔を上げる。
彼は私を見たまま、動かなかった。
「何か、仰ってくださいませ」
「今、言葉を選んでいる」
「閣下にも、そういうことが?」
「君は私を何だと思っている」
私は笑った。
笑いながら、少し涙が出た。
「好きです。ディートリヒ様」
言ってしまった。
それだけで、耳まで熱くなった。
「だからこそ、一度、自分で暮らしてみたいのです。返さなければならない恩があるから残ったのだと、自分に言い訳したくありません」
彼はゆっくり頷いた。
「では、帰ることは止めない」
ほっとした。
同時に、少し寂しくなった。
面倒な女だと、自分でも思う。
「ただし」
ディートリヒが続けた。
「会いに行くことは、許してもらいたい」
「診察ですか?」
「求婚だ」
私は瞬きをした。
「今すぐ婚姻の日を決めろとは言わん。主治医も別の医官へ引き継ぐ。君が私へ気兼ねなく断れるようにしておく。それでも、私は君と結婚したい」
ずいぶん、困った人だった。
こちらの逃げ道を自分で作ってから、それでも好きだと言う。
閉じ込められるより、よほど逃げにくいではないか。
「条件がございます」
「言ってみろ」
「私が嫌だと言ったら、一度は聞いてください。仕事も休みも、二人で決めること。朝は、起こさなくていい日は起こさないこと」
「最後の条件は、今すでに守っている」
「ご立派です。それから、あなたも食事を後回しにしないこと」
ディートリヒが笑った。
私はその顔を見て、やっぱり好きなのだと思った。
「手を、握っても?」
私が尋ねると、彼は笑うのをやめた。
少し困った顔になって、手を差し出す。
「それまで断るわけがない」
私は両手で、その手を取った。
机を挟まずに触れた指は、思っていたより温かかった。
「帰りますけれど、さようならは申し上げません」
「ああ」
「求婚のお返事は、次に会ったときでもよろしいですか」
「待つ」
短い返事だった。
強く握られた手で、待ちたくなどないのだと分かった。
私は、同じくらいの力で握り返した。
廊下から、夕食を知らせる声がした。
気づけば、窓の外は暗くなっていた。
「今夜は、こちらで召し上がるのですね」
アンナの問いに、私とディートリヒが同時に返事をした。
彼女が口元を押さえて下がっていく。
ディートリヒが扉を開け、私が先に廊下へ出た。
トランクは、従僕に明日運んでもらうことにした。
今夜の食卓には、二人で向かった。




