第13話:契約終了と、閉ざされた扉
査問会から三日が過ぎた。
ローレンツは北方へ、コレットは国境の修道院へ向けて護送された。
不正支出の調査は続いていたが、照会は法務官がまとめて持ってくるようになった。答えられる分だけ書き、分からないことは分からないと返す。
それでも、誰も怒鳴りに来なかった。
実家への補償も、再婚約とは切り離して文書になった。
父からは、自分たちを理由に進む道を変えなくてよいと返事が届いた。心配だから一度は顔を見せてほしいとも。
私は、近いうちに帰ると書いた。
そして今、公爵邸の客室で、トランクを開けていた。
着替えを二着。使い慣れた羽ペン。返してもらった手帳。
父に頼んで口座から引き出してもらった金は、別の内袋にしまう。
机には、小さな借家の案内書もある。王都の外れだが、馬車に乗れば通院できる場所だった。まだ契約はしていない。退院の許可をもらってから、内見へ行くつもりだった。
階下を店にして、上で暮らせるらしい。
代書を引き受けてもいい。茶葉を並べるのもいい。
人の仕事はもう嫌だと思っていたのに、自分で料金と営業時間を決めると考えた途端、少し楽しみになった。
「完璧だわ」
私はトランクの金具を閉めた。
閉めてから、部屋を見回す。
窓辺の椅子。食事に使った丸机。
私がスープを飲み終えるまで、あの人が座っていた椅子もある。
妙に、落ち着かなかった。
寂しいのだと認めるのは、少し癪だった。
何でもしてもらえる生活に慣れたせい。まずは、そういうことにしておく。
ディートリヒのことは、簡単には片付かなかった。
妻にしたい女へ、最初に頼むことが帳簿だとでも思うのか。
あの声を思い出すたび、余計なところで手が止まる。
冗談だったとは思っていない。少なくとも、彼は私に好意を向けてくれている。
だからこそ、一度は自分の足で立ちたかった。
助けてもらったからここにいるのか、ここにいたいから残るのか。その区別を曖昧にしたままでは、返事をしても自分を信用できない。
私はトランクを持ち上げた。
ほんの少し胸に響き、慌てて下ろす。
廊下で待っていたアンナが、すぐに気づいた。
「重いものは、まだお持ちにならないようにと仰せでしたでしょう」
「二着しか、入っていないのだけれど」
「金貨は、服より重うございます」
言い返せなかった。
結局、荷物は従僕に持ってもらい、一階の執務室へ向かった。
ノックをすると、入れと返事があった。
ディートリヒは机に向かっていた。窓から差す夕日の中、白いシャツの袖をまくり、書類に目を通している。
従僕がトランクを下ろした途端、ペンが止まった。
「シセル。その荷物は何だ」
「ご挨拶に伺いました」
私は一礼した。
「治療から療養、査問会でのことまで、本当にありがとうございました。これからの照会にも、引き続き協力いたします。ただ、王太子府の資料をお渡しするというお約束は、ひとまず果たせたかと」
「そうだな」
「ですので、退院のお許しがいただけましたら、こちらを辞去しようと思います」
彼は返事をしなかった。
私は用意してきた案内書を机に置いた。
「王都の外れに、小さな家を見つけました。まずは実家で数日過ごして、父と見に行きます。近くに診療所もありますから、通院は怠りません」
淀みのない、退職の挨拶のようだった。
我ながら、よくできている。
ただ、彼が聞き終えても何も言わないので、用意した言葉が余ってしまった。
「その、閣下へこれ以上ご負担をおかけするわけには」
「負担?」
ディートリヒが、そこで顔を上げた。
「君は今、何の費用の話をしている」
「費用に限らず、お時間も、お立場もです。私のような、騒ぎを起こした元婚約者をいつまでも置いては、あらぬ噂も」
「私が噂を気にして、君をここへ連れてきたと思うか」
思わない。
けれど、素直にそう答えたら、用意した挨拶が崩れてしまう。
私は案内書の角を押さえた。
「では、私の都合で申し上げます。一度、自分の生活を持ちたいのです」
ディートリヒは黙った。
今度は、先ほどとは少し違う沈黙だった。
「君の都合なら、聞く」
彼は案内書を手に取った。
「段差の少ない家だな」
「はい」
「冬の暖房は」
「暖炉があります。煙突は、内見で見ます」
「そうか」
紙が机へ戻された。
私の話を、ちゃんと聞いてくれている。
ほっとするはずなのに、胸の奥が少し沈んだ。
「退院については、明日の診察で判断する。経過がこのままなら、伯爵邸へ帰ることは問題ないだろう」
「ありがとうございます」
頭を下げた。
そうか、達者でな。
その言葉を待った。
「それとは別に」
彼が立ち上がった。
机を回り、私の前へ来る。
「私からも、君に話がある」
従僕はすでに下がっていた。廊下では、アンナが近くの花瓶の水を替えている。
ディートリヒはそちらを見てから、私へ尋ねた。
「少し、扉を閉めてもいいか」
「はい」
木の扉が、静かに閉じられた。
鍵の音はしなかった。
私は扉の前から、半歩横へよける。
彼は追ってこず、その場に立ったまま眼鏡を外した。
「仕事の契約が終わったから、私との話も終わりだと。君は、そう考えているのか」
今度は、私が返事に詰まった。
「シセル。帰る前に聞いてくれ」
眼鏡を持つ指に、力がこもった。
「ここから出て行ってほしくない。今話しているのは、君の医師でも、調査の協力者でもない」




