第12話:王太子の廃嫡と、最後の毒
謁見の間には、王都に滞在している高位貴族と、各省の代表が集まっていた。
壁に並ぶ歴代の国王の肖像画が、いつもより遠く見える。
私はディートリヒの腕に手を添え、真紅の絨毯を歩いた。
中央に、ローレンツとコレットがいた。
コレットは手を握り合わせ、落ち着きなく周りを見回している。ローレンツは顔色が悪かったが、自分の足で立っていた。
私を見つけると、二人とも口を開きかけた。
すぐに、そばの兵が制した。
玉座の前には、書類を広げた長机が置かれている。
財務卿、憲兵隊の責任者、昨日会った法務官。
私が記憶を取り戻したことは、昨夜のうちに正式に報告してあった。
「シセル嬢」
国王が声をかけた。
「記憶が戻ったと聞いた。身体は、もう大事ないのか」
「まだ療養中でございます。本日は、休憩をいただきながらお答えいたします」
「うむ。無理はせぬよう」
私は一礼した。
大丈夫ですと言わずに済ませたことが、少し不思議だった。
査問官が経緯を読み上げた。
卒業パーティーでの発言。階段の件の証言撤回。買収された医師の供述と記録。ローレンツの名で決裁された、不正な支出。
公金の調査はまだ続いているが、すでに確認できた分だけでも、弁明を求めるには十分な量だった。
ローレンツは、細かい処理はシセルに任せていたと繰り返した。
財務卿が、命令書を一枚持ち上げる。
「この支払いを通すよう、殿下ご自身が指示されています。宝飾店の受取記録とも一致しておりますが」
「それは、贈り物を頼んだだけで……!」
「神殿へ渡す金から支出せよ、とございます」
ローレンツが黙った。
筆跡の確認を求められると、彼は小さく頷いた。
私も、前へ呼ばれた。
「費目を書き換えたのは、貴女で間違いありませんか」
「はい」
返事をすると、周りがわずかにざわついた。
私は机の上の紙を見た。
「私の書いたものです。命じられたことですが、不正だと分かっていました」
「命令を拒まなかった理由は」
「殿下に逆らえば、婚約者である私の家にも責任が及ぶと言われました。王太子府の上役にも相談しましたが、穏便に収めるようにと」
名を求められ、答えた。
列の中で、顔を伏せた者がいる。
「原本を残したのは、なぜですか」
「私だけが勝手にしたことにされるのを、恐れたからです」
立派な理由ではなかった。
国のためでも、正義のためでもない。
それでも、今は飾らずに言えた。
法務官が記録を閉じた。
提出した命令書と、私が相談を求めた書付は、すでに確認されていた。
上位者からの圧力を受けていたこと、私が不正な金を受け取っていないこと、原本を保全し、調査に協力していることが順に読み上げられる。
「シセル・ヴェルナー嬢の関与については、記録に留めた上で、不問とする。ただし、引き続き書面での照会に協力するように」
「承知いたしました」
私は頭を下げた。
自分のしたことが消えるわけではない。
けれど、誰の命令だったかも、私が何をしたかも、同じ記録に残った。
それでよかった。
椅子へ戻ると、ディートリヒが水の杯を寄せた。
私は一口飲み、ようやく指が震えていたことに気づいた。
彼は机の陰で、私の手を一度だけ握った。
それから離し、何事もなかったように前へ向き直った。
コレットへの問いは、昼前まで続いた。
転落の筋書きを考えたのは自分だと、最後には認めた。ローレンツに気に入られたかった、シセルが謝れば終わるはずだったと、彼女は泣きながら話した。
父親が医師への支払いに関わり、王太子府から流れた金で借金を返していたことも、別の調書で明らかになっていた。
休憩を挟んで、国王が裁決を言い渡した。
「コレット・ダグラス。身分を剥奪し、国境の厳罰修道院への終身送致を命ずる。ダグラス男爵家は取り潰しとし、財産は不正支出の弁済に充てる」
「陛下! お許しください! ローレンツ様、何か仰って!」
コレットが振り返った。
ローレンツは目を合わせなかった。
彼女は何度も彼の名を呼びながら、兵に付き添われて退出した。
「ローレンツ」
国王の声が、低くなった。
「立場を利用した不正支出、婚約者への威迫、事実の確認もないまま衆人の前で自死を強要したこと。王位を継ぐ者として、看過できぬ」
「父上、どうか」
「王太子の地位を剥奪する。王族籍を除き、北方の監視塔への終身幽閉を命ずる」
ローレンツの膝が折れた。
そばの兵が支えたが、彼は立ち直らなかった。
私はその姿を見た。
小さい頃、一緒に机を並べた男の子だった。
困るたびに私の名を呼び、私が駆けつけることを疑わなくなった人。
もう、助けに行こうとは思わなかった。
国王が玉座から立った。
絨毯を歩いて、私の前へ来る。
「シセル嬢。王家として、詫びる。提出された記録を見て、そなたにどれほどの仕事を負わせていたか、ようやく知った」
私は返事をしなかった。
知らなかったと言える場所に、この方は十年いたのだ。
私が家へ戻れない夜にも、王太子府の明かりはついていた。
「ただ、一つだけ、願いを聞いてはもらえぬか」
嫌な予感がした。
隣で、ディートリヒがわずかに姿勢を変えた。
「ローレンツは愚かだが、そなたを求めている。北方へ送られた後も、妻としてそばで支えてやってはくれまいか。そなたなら、あれを更生させられるかもしれぬ。伯爵家への補償と栄誉は、十分に――」
「謹んで、お断り申し上げます」
国王の言葉が止まった。
私は頭を下げなかった。
「シセル嬢」
「婚約は、陛下のご裁可で解消されたはずです。療養を妨げず、殿下から遠ざけてくださるとも伺っております」
「それは無論、そなたの意思を」
「では、お聞き届けください」
隣から手が伸びかけた。
私はディートリヒを一度見て、小さく頷いた。
自分で言える。
今は、言いたかった。
「私は死にかけるまで、あの方を支えました。それで足りなかった分を、残りの人生で埋めろと仰るのでしょうか」
国王は答えなかった。
「元王族の介護をする義務など、私にはございません。あの方を更生させるのは、私の仕事ではありません」
自分の声が、遠くまで届いていた。
誰も口を挟まない。
「補償が私の受けた被害に対するものでしたら、再婚約の条件にはなさらないでください。実家への栄誉と引き換えに、私の意思を変えることはできません」
国王はしばらく私を見つめ、やがて目を伏せた。
「相済まぬ。今の願いは、取り消す」
査問官へ向き直る。
「婚約解消に変更はない。伯爵家への補償も、これとは別に進めよ」
書記がペンを動かした。
今度は、取り消したことまで記録に残った。
ローレンツが顔を上げた。
「シセル! 待ってくれ!」
兵に立たされながら、彼は私を見た。
「記憶が戻ったんだろう! 俺を愛してくれていたことも、思い出したんだろう!?」
私は彼の前で立ち止まった。
兵が間にいるので、手は届かない。
「手帳を見た! 好物も、体調も、全部、気にかけてくれていたじゃないか! あの十年間は、全部嘘だったのか!」
「嘘ではありません」
私は答えた。
ローレンツの顔に、期待が浮かぶ。
「愛しておりましたわ、ローレンツ様」
「シセル!」
「だから、あなたに休んでほしかった。怪我なく帰ってきてくれると、嬉しかったのです」
あの手帳を、私は覚えている。
自分の手で書いたことだった。
今さら、あれまで嘘にするつもりはなかった。
「では、どうして」
「あなたが、それで何をしても許されると思ったからです」
彼の笑みが止まった。
「昔、愛していたことを、今も従う理由に使わないでください」
「俺は、やり直したいだけなんだ!」
「私は、やり直したくありません」
簡単な言葉だった。
けれど、口にするまでに十年もかかってしまった。
「私があの日、命を捨てようとしたことを悔やむのと、あなたを許すことは別です。もう、自分の命を差し出して返事をすることはありません」
ローレンツは口を開いたまま、私を見ていた。
私は静かに一礼した。
「さようなら、ローレンツ様。これからは、ご自分のことをご自分でなさってください」
彼が叫んだ。
何度も私の名前を呼んだ。
私は振り向かずに、ディートリヒのところへ戻った。
差し出された腕へ手を添えると、彼が顔を寄せた。
「よく言った」
「可愛げがございませんでした?」
「今さらだな、私の悪女」
私は笑いかけて、少しだけ声を詰まらせた。
ディートリヒは気づかないふりをして、出口へ歩き出した。
彼の腕を掴んでいるのは、私の方だった。




