ここにきた理由
また、食べたい。
頭の中に残り続けているのは、それだけだった。
あの時、口にしたもの。名前は分からない。思い出せそうで思い出せない。ただ、人間だった頃のどこかに、それが“食べ物”として存在していた記憶だけが、ぼんやりと残っている。
だから俺は、それを“アレ”と呼ぶことにした。
アレを、もう一度。
肉でも血でも満たされない何かが、あれを思い出すたびにわずかに埋まる気がする。甘くて、柔らかくて、ゆっくりとほどけていくあの感覚。
噛むたびに広がる味。
飲み込むのが惜しいと思った、あの瞬間。
欲しい。
ただそれだけの感情が、妙に強く胸の奥に残っていた。
足を止め、振り返る。
人間たちのいた方向。もう気配は遠い。だが、追えばまだ追いつけるかもしれない、そんな距離だった。
一歩、踏み出しかけて――止まる。
「それは違う」
小さく呟く。
本能が否定していた。
あれは奪うものじゃない。追いかけて得るものでもない。あの時のように、差し出されて、受け取る。
あの形でなければ意味がない。
理由は分からない。
だが、間違いなくそうだと分かる。
なら、どうする。
「どうしたらいい」
答えがない。
狩ればいいわけじゃない。相手は獣じゃない。今までのやり方が通用しない。
何をすればいい。
どうすれば、もう一度――
思考が同じ場所を回り続ける。
そのときだった。
「――ッ!!」
背中に、焼けるような痛みが突き刺さった。
息が詰まる。視界が揺れる。何かが体を貫いている。
理解するより先に、体が動いた。
地面を蹴る。転がる。距離を取る。
振り返る。
そこにいたのは――
「なんだ、」
見たことのない魔物だった。
全身が薄黒い甲羅で覆われている。光を鈍く反射するそれは、ただの皮膚ではない。二足で立ち、長い尾が地面をなぞる。
細長い口から、ぬるりと舌が出入りする。
目が、こちらを捉えている。
そして――手に持つ槍。
それが、ゆっくりと引き抜かれる。
血が滴る。
……不覚だ。
完全に意識が逸れていた。ここは縄張りじゃない。この地には、この地の主がいる。
異物である俺を排除しに来るのは当然だ。
「リザードマン、か」
なぜか、その言葉が浮かぶ。
一歩、踏み出してくる。
動きに無駄がない。間合いを測りながら、じりじりと距離を詰めてくる。
本能が告げていた。
――強い。
今までの獣とは違う。武器を使い、距離を制し、確実に仕留めるために動く存在。
格上。
はっきりとそう分かる。
「逃げるか?」
一瞬、考える。
だがすぐに首を振る。
それじゃ何も変わらない。
満たされないまま、また同じ場所に戻るだけだ。
ここに来た意味がない。
あの“アレ”に触れた意味も。
「やるしかないか」
体勢を低くする。
痛みはあるが、動ける。
風を読む。距離を測る。
リザードマンが槍を構える。
来る。
突き。
速い。
横へ跳ぶ。掠る。だが貫かれない。
そのまま踏み込む。
だが、即座に槍が引かれ、横薙ぎに振られる。
衝撃。
体が弾かれる。
地面に叩きつけられる。
肺から空気が抜ける。
……近づけない。
槍の間合い。
それが、圧倒的に不利だった。
なら――見る。
動きを読む。
もう一度、突き。
今度は早く動く。
踏み込みと同時に、斜めへ。
軌道を外す。
掠る。血が滲む。
だが構わない。
そのまま一気に距離を詰める。
懐へ。
腕に噛みつく。
硬い。
甲羅に弾かれる。
「チッ!」
膝蹴りが腹に入る。
鈍い痛み。
だが、離れない。
噛む位置を変える。
関節。
柔らかい場所。
そこへ牙を突き立てる。
手応え。
血の匂い。
リザードマンが低く唸る。
槍が落ちる。
そのまま押し倒す。
体重をかける。
逃がさない。
首へ。
牙を突き立てる。
暴れる。だが弱い。
力が抜けていく。
やがて、完全に動かなくなる。
「……はぁ……」
息を吐く。
勝った。
格上に。
全身が痛む。血も流れている。
だが、立っている。
生きている。
「強く、なったな」
ぽつりと呟く。
だが、それでも足りない。
胸の奥に残る、あの空っぽ。
満たされない何か。
消えていない。
視線を上げる。
森の奥を見る。
まだ知らないものがある。
まだ足りないものがある。
そのときだった。
ぞわり、と背筋が粟立つ。
遅れて気づく。
気配。
一つじゃない。
二つでもない。
もっと多い。
周囲を見る。
木の陰。
草の奥。
そこに――いる。
同じ姿。
薄黒い甲羅。
細長い口。
舌を揺らしながら、こちらを見ている。
一匹。
二匹。
三匹。
さらに、その奥にも。
いつの間にか、完全に囲まれていた。
「……は」
乾いた笑いが漏れる。
そういうことか。
ここは、あいつらの縄張りだ。
俺は、その中に踏み込んでいた。
さっきの一匹は、その一部に過ぎない。
血の匂いが広がっている。
仲間の死。
そして、俺自身の血。
それに引き寄せられたのか。
それとも最初から、見られていたのか。
どちらでもいい。
状況は同じだ。
逃げ場はない。
前も、横も、後ろも。
リザードマン。
槍を構え、じりじりと距離を詰めてくる。
冷たい視線。
完全に“狩る側”の目。
さっきの一匹と同じ。
だが――数が違う。
体が重い。
傷もある。
普通なら、ここで終わりだ。
だが――
「……上等だ」
低く唸る。
体勢を落とす。
呼吸を整える。
まだ動ける。
まだ終わっていない。
胸の奥で、何かが強く脈打つ。
飢え。
満たされない何か。
それが、今までで一番強く感じられた。
これか。
これが足りなかったものか。
分からない。
だが――確かにここにある。
強敵。
逃げ場のない状況。
生きるか、死ぬか。
ただそれだけの場所。
自然と、牙が覗く。
唸り声が漏れる。
囲まれた中心で、俺はゆっくりと息を吐いた。
そして――
ワォォォォォォォォォォォンン
戦いの狼煙を自ら高らかに宣言した。
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