瑞々しさ
なんの気まぐれだったのか、自分でも分からない。
いつもなら近づかない場所だった。
この森の中を横切るそれは、決して大きくはないが、俺にとってははっきりとした境界線だった。流れる水の音も、足元を奪う感触も、どうにも落ち着かない。
だから、向こう側には行かない。
理由なんてそれだけで十分だった。
けれど今日は、足が止まらなかった。
川の手前に立ち、水面をじっと見つめる。揺れる光。冷たい匂い。向こう岸の木々は、こちらと大差ないはずなのに、妙に違って見えた。
知らない場所。
それだけで、引っかかる。
「……」
胸の奥に、あの感覚があった。
満たされない、何か。
食っても埋まらない、あの空っぽ。
理由は分からないまま、ずっと残っている。
だからかもしれない。
変わらない景色の中にいることが、妙に息苦しくなっていた。
ここには、もう新しいものがない。
狩りも、縄張りも、全部慣れた。
だから――
「じゃあ、行くか」
小さく呟いて、一歩踏み出す。
水が脚に触れる。
冷たい。
思わず身を引きそうになるが、そのまま進む。流れは思ったよりも強い。足を取られそうになるたびに、爪を立てて踏ん張る。
濡れる感覚が気持ち悪い。
だが、それ以上に――
進んでいる、という感覚があった。
向こう岸にたどり着いたとき、自然と息が漏れた。
振り返る。
いつもの森が、少しだけ遠くに感じる。
それだけで、妙に軽くなった気がした。
「なんだこれ、」
思わず笑いそうになる。
ただ場所を変えただけだ。
それなのに、違う。
匂いが違う。空気が違う。音が違う。
知らない気配が、あちこちにある。
それを感じるたびに、意識がそちらへ引っ張られる。
足が、自然と前に出る。
新しい場所を踏みしめるたびに、胸の奥がわずかに満たされていくような感覚。
あの飢えが、少しだけ遠のく。
悪くなかった。
木々の間を進む。
見慣れたはずの森なのに、どこか違う。地面の硬さ、草の生え方、匂いの混ざり方。
一つ一つが新鮮だった。
気づけば、さっきまで感じていた苛立ちはほとんど消えていた。
代わりにあるのは、単純な興味。
もっと先へ行ってみたい、という感覚。
そんなときだった。
耳に、異質な音が触れた。
「……?」
足が止まる。
風に乗って届くそれは、今まで聞いたことのない種類の音だった。
複数の声。
甲高いもの、低いもの、混ざり合っている。
怒鳴り声。
金属がぶつかるような音。
獣のそれとは明らかに違う。
なんだ、これ。
耳を澄ます。
また聞こえる。
確かに、何かがいる。
それも、一つや二つじゃない。
胸の奥で、何かが弾ける。
興味。
それ以外に言葉が見つからなかった。
抑える理由はなかった。
地面を蹴る。
音のする方へ、一気に駆ける。
木々の間をすり抜け、枝を避け、斜面を駆け上がる。
距離が縮まるにつれて、音ははっきりしていく。
声だ。
言葉。
意味は分からないが、確かに“会話”だと分かる。
そして――殺気。
それもまた、はっきりと感じ取れた。
やがて、視界が開ける。
木々の隙間から、その場が見えた。
「あれは、」
思わず、息を呑む。
そこにいたのは――
人間だった。
見たことはない。
だが、分かる。
形が違う。動きが違う。纏っている雰囲気が、森の獣とはまるで違う。
三人。
いや、もっといる。
一方は、二人。
もう一方は、五人ほど。
数で囲んでいる。
「エリシア様、下がってください!」
低い声が響く。
剣を構えた男が、一人の少女を庇うように前に立っている。
少女――エリシアと呼ばれたそれは、息を乱しながらも周囲を見ていた。
「でも、ガレス……!」
「いいから! ここは私が抑えます!」
男――ガレスが、迫ってくる連中を睨みつける。
対する五人は、下卑た笑みを浮かべていた。
「おいおい、威勢がいいな騎士様」
「だがよぉ、その数で何ができる?」
「大人しくそっちの嬢ちゃん置いていきゃ、命だけは助けてやるって言ってんだ」
声が汚い。
笑い方が気持ち悪い。
言葉の意味は完全には分からないが、状況は理解できた。
囲んでいる側と、囲まれている側。
そして、あれは――
狩りだ。
俺がやっているのと、同じ。
ただし、相手が違うだけ。
「……」
視線を細める。
ガレスと呼ばれた男は強い。
動きで分かる。無駄がない。
だが、数が多い。
一人で五人は厳しい。
じりじりと、包囲が狭まっていく。
少女――エリシアが、後ずさる。
足がもつれかける。
その瞬間、山賊の一人が踏み込んだ。
「もらったァ!」
振り下ろされる刃。
ガレスが反応する。
だが、他の連中も同時に動く。
間に合わない。
そう思った。
――気づけば、体が動いていた。
考えるより先に、地面を蹴っていた。
風を切る。
一気に距離を詰める。
視界に映るのは、振り下ろされる刃と、それに気づいていない少女の姿。
間に合え。
そんなことを思ったのは、初めてだった。
俺は――そのまま、飛び込んだ。
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