生きることは食べる方。食べることは殺すこと。
最初の一匹を喰ってから、どれくらい時間が経ったのかは分からない。
ただ一つはっきりしているのは、俺がまだ生きているということと、そのために“同じこと”を何度も繰り返しているという事実だけだった。
血の匂いにも、肉を裂く感触にも、もういちいち動揺することはなくなっていた。
慣れた、というのが正しいのかもしれない。
目の前に転がる獣の腹を裂きながら、そんなことをぼんやりと考える。
温かい。柔らかい。生臭い。
手を突っ込めば、内臓の感触が指の間を滑る。
それを口に運ぶ。
噛む。
飲み込む。
「……」
やっぱり、美味くはない。
腹は満たされる。確かに満たされる。空っぽだった胃に、重みが落ちていく感覚はある。
けれど、それだけだ。
嫌悪感はもうほとんどないが、満足感もない。
ただ、“必要だからやっている”というだけの行為。
食事というより、補給に近い。
口の周りについた血を舐め取りながら、俺はゆっくりと顔を上げた。
静かだ。
だが、それは“安全”を意味しない。
むしろ逆だ。
この森は、静かなときほど何かが潜んでいる。
分かる。
気配が、ある。
木の陰、草の奥、風の流れのわずかな乱れ。
視界に映らなくても、“いる”と分かる。
いつの間にか、そういう感覚が身についていた。
食事の最中でさえ、完全に気を抜くことはできない。
背後を取られれば終わりだ。
さっきまで喰っていたもののように、自分が転がる側になる。
それが、この場所だ。
「……面倒だな」
ぽつりと呟く。
満腹になったからといって、休めるわけじゃない。
眠るときでさえ、意識のどこかを起こしておく必要がある。
少しでも気を抜けば、死ぬ。
それを、もう理解している。
最初の頃は、ただ襲ってきたものを返り討ちにするだけだった。
考える余裕なんてなかったし、それで十分だった。
けれど――それだけじゃ足りない。
じわじわと、実感してきている。
“待っているだけ”では、いずれ終わる。
さっきの獣だって、俺が先に気づかなければどうなっていたか分からない。
運が良かっただけだ。
そんなものに頼り続けるのは、長くない。
なら、どうするか。
答えは単純だった。
自分から動くしかない。
俺は、残りの肉に視線を落とした。
まだ食える部分はあるが、もういい。
これ以上ここに留まる理由はないし、留まるほど安全でもない。
立ち上がる。
風向きを読む。
匂いを探る。
どこに何がいるのか、ぼんやりとだが分かるようになってきていた。
獲物の匂い。
弱い個体の気配。
逆に、近づかない方がいい“濃い気配”。
それらを選り分ける。
……あっちだな。
森の少し奥。湿った土と草の匂いに混じって、獣の匂いがする。
まだ新しい。
足を踏み出す。
音を立てないように、ゆっくりと。
自然と、体が低くなる。
視線を落とし、呼吸を浅くする。
――狩り。
その言葉が、頭の中に浮かんだ。
さっきまでとは違う。
襲われて、反撃して、結果的に喰うのではない。
最初から、“喰うために動く”。
自分の意思で。
その違いは、思っていた以上に大きかった。
茂みの向こうに、影が見える。
小さい。四足。耳が長い。
こちらには気づいていない。
ゆっくりと、距離を詰める。
風は問題ない。匂いは届いていないはずだ。
足場も悪くない。
いける。
その瞬間――
そいつが、顔を上げた。
視線が、合う。
***
――何かいる。
草を食んでいた口を止め、顔を上げる。
風が運んできた匂いは、知らないものだった。
だが、本能が警鐘を鳴らす。
危険。
すぐに逃げるべきだと、体が叫ぶ。
視線を巡らせる。
いた。
黒い影。
低く、静かに、こちらを見ている。
目が合った。
その瞬間、理解する。
あれは、逃げなければいけない相手だ。
脚に力を込める。
逃げる。全力で。
だが――
遅かった。
地面を蹴る音。
迫る気配。
背後からの衝撃。
体が宙に浮く。
痛い。
何かが食い込む。
温かいものが流れ出る。
鳴き声が漏れる。
逃げたい。
でも、体が動かない。
視界が揺れる。
地面が近い。
黒い影が覆いかぶさる。
牙。
目。
終わる。
***
手応えがあった。
噛みついた首筋から、はっきりとした感触が伝わってくる。
暴れていた体が、次第に弱くなる。
やがて、動かなくなる。
俺はしばらくそのまま押さえつけていたが、完全に力が抜けたのを確認してから、ゆっくりと口を離した。
息を吐く。
心臓が早い。
だが、さっきまでとは違う。
恐怖ではなく、どこか冷静な感覚があった。
周囲を見る。
他に気配はない。
今のところは、安全。
視線を落とす。
さっきまで動いていたそれが、もうただの肉になっている。
俺がやった。
自分から狙って、仕留めた。
「……なるほどな」
小さく呟く。
これなら、選べる。
相手を。
場所を。
タイミングを。
ただ待つよりも、ずっといい。
リスクはあるが、少なくとも“運任せ”ではない。
腹の奥が、わずかに満たされる感覚があった。
食欲とは別の、何か。
理解したことへの納得感に近い。
俺は、倒したそれに口をつけた。
やはり味は大したことはない。
だが、構わない。
重要なのはそこじゃない。
ここで生きるために必要なことを、一つ覚えた。
それだけで十分だった。
血を舐め取りながら、ゆっくりと顔を上げる。
森は変わらない。
相変わらず、どこもかしこも危険だ。
だが、さっきまでよりも少しだけ、見え方が違っていた。
獲物がいる。
敵がいる。
避けるべき場所がある。
そして、自分がどう動くべきかも。
「……強くなるか」
自然と、そんな言葉が口をついて出た。
別に、大それた理由があるわけじゃない。
ただ――
楽に生きたい。
無駄に怯えずに済むように。
そのためには、今より強くなるしかない。
単純な話だ。
俺は立ち上がり、森の奥へと視線を向けた。
まだ知らない気配が、いくつもある。
その中に、次の獲物も、次の脅威もいる。
だったら、やることは一つだ。
殺して、喰って、慣れる。
それを繰り返す。
足を踏み出す。
覚悟に満ちた一歩は慎重に、けれど確実に進む。迷いはとうに無くなっていた。
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