爪、牙、飢え、
目が覚めると、俺は地面に伏せていた。
冷たい。湿っている。鼻先に触れる土の感触がやけに生々しくて、そこでようやく「自分が横たわっている」という事実を理解した。
意識が混濁している。自分は何者で、ここはどこなのか。
辺りを見回す。
風に揺れる木々。甲高い鳥の囀り。湿った大地。
ここは森の中だった。
……なんだこれ。
体を起こそうとして、違和感に引っかかる。腕に力を入れたつもりなのに、思った通りに動かない。いや、そもそも“腕”が、記憶している形と違う。
視界の端に、黒い毛並みが見えた。
それが自分のものだと理解するまで、数秒かかった。
呼吸が浅くなる。喉の奥で変な音が鳴る。落ち着け、と頭では分かっているのに、体の方が勝手にざわついている。
……夢、か?
そう思おうとしたが、鼻に入り込んでくる匂いがそれを許さなかった。土の匂い。湿った葉。腐りかけた何か。そして、どこか遠くから漂ってくる、生臭い臭気。
リアルすぎる。
ゆっくりと顔を上げる。視界がやけに低い。いや、違う。自分の体が低い位置にあるんだと、そこで気づいた。
四つ足。
言葉にした瞬間、ぞわりと背筋が粟立つ。
冗談だろ。
もう一度、自分の体を見る。黒い毛。太い前脚。地面に沈み込む爪。
どう見ても、人間じゃない。
「……は」
声を出したつもりで、漏れたのはかすれた唸り声だった。
その音に、自分で驚く。
いやいやいや、ちょっと待て。
頭の中で言葉がぐるぐる回る。状況を整理しようとするが、材料が足りなすぎる。最後の記憶は曖昧だ。ただ、こんな場所に来る理由なんて一つも思い当たらない。
そのときだった。
ガサ、と近くの茂みが揺れた。
反射的に、体が固まる。
考えるより先に、全身の毛が逆立った。喉の奥から低い唸りが漏れる。視線が勝手にそちらを向く。
何かがいる。
分かる。理屈じゃない。そこに“危険”があると、体が理解していた。
次の瞬間、飛び出してきた。
灰色の塊。いや、生き物だ。牙を剥き、まっすぐこちらに突っ込んでくる。
速い。
避けろ、と頭が叫ぶより早く、体が動いた。横に跳ぶ。地面を転がる。すぐさま起き上がる。
今のは何だ。
思考が追いつかないまま、相手を見据える。
犬に似ている。だが、明らかに大きい。目がぎらついていて、口元から涎を垂らしている。
そして、こっちを見ている。
獲物を見る目で。
「……なんで」
どうして襲われているのか、なんて考える余裕はなかった。
もう一度、そいつが跳んだ。
今度は避けきれない。肩口に衝撃。鋭い痛みが走る。熱いものが流れ出る感覚。
噛まれた。
理解した瞬間、恐怖が一気に押し寄せる。
死ぬ。
そんな言葉が頭をよぎる。
嫌だ、と反射的に思った。
その瞬間、体が勝手に動いた。
前脚を振り上げる。爪が何かに引っかかる感触。手応え。次いで、ぐしゃりと柔らかいものが潰れる音。
相手が離れた。
距離ができる。だが、まだ終わっていない。そいつはよろめきながらも、再びこちらを睨んでいる。
なんで来る。
さっきよりも、はっきりと分かった。
こいつは、俺を殺そうとしている。
理由なんてない。ただ、それが“当たり前”なんだ。
息が荒くなる。心臓がうるさい。
どうする。
逃げるか?
できるか? このまま背を向けたら、追いつかれて、今度こそ喉を噛み千切られる。
じゃあ――
やるしかない。
頭の中で何かが切り替わる。
怖い。でも、それ以上に理解した。
ここでは、やらなきゃ死ぬ。
それだけだ。
地面を蹴る。
今度は自分から距離を詰めた。相手が驚いたように一瞬動きを止める。その隙に、もう一度爪を振る。
当たる。裂ける。赤いものが飛び散る。
嗅いだことのない、強烈な匂い。
血だ。
その匂いに、頭が一瞬くらりとした。
なのに、不思議と嫌じゃなかった。
むしろ――
腹の奥が、ぎゅうと締め付けられる。
空腹。
今まで意識していなかったのに、急にそれがはっきりとした形を持って主張してくる。
食べろ、と。
そんな馬鹿な、と思う。
目の前には、さっきまで自分を殺そうとしていた相手がいる。まだ息はあるが、動きは鈍い。
これを、食べる?
理性が拒否する。
無理だろ。こんなの。
けれど、体が言うことを聞かない。
一歩、近づく。
相手が弱々しく唸る。それでも牙を向けようとする。
……ああ、そうか。
こいつも同じだ。
食うか、食われるか。
それだけの場所なんだ。
ここは。
息を吸う。血の匂いが濃くなる。
腹が鳴る。
迷っている時間はない。
俺は、口を開いた。
牙が肉に食い込む。温かい液体が舌に触れる。
――まずい、と思う暇もなかった。
気づけば、夢中で喰らっていた。
咀嚼する音。骨が砕ける感触。喉を通っていく重み。
全部が現実で、全部が異常で、でも確かに“必要”だった。
どれくらいそうしていたのか分からない。
やがて、動かなくなったそれから顔を上げたとき、俺は荒い息を吐きながら立ち尽くしていた。
口の周りが濡れている。鉄の味がする。
「……はは」
乾いた笑いが漏れる。さっきと同じ、うまく言葉にならない音で。
やってしまった、と思う。
でも同時に、理解してしまった。
ここでは、これが普通なんだと。
さっきまでの自分は、何も分かっていなかった。
ただ混乱して、現実から目を逸らそうとしていただけだ。
でも今は違う。
痛みも、匂いも、味も。
全部が教えてくる。
ここは、優しくない場所だ。
何も与えられない。欲しければ、自分で奪うしかない。
そして、奪えなければ――死ぬ。
それだけの、単純な世界。
ゆっくりと、周囲を見渡す。
木々の隙間。揺れる影。どこかに、まだ何かがいる気配。
さっきまでと同じなのに、見え方が変わっていた。
敵だ。
全部。
喉の奥で、低く唸る。
もうさっきみたいに戸惑わない。
理解した。
ここで生きるなら、やることは一つだ。
殺して、食って、生きる。
それ以外に、選択肢はない。
俺はゆっくりと足を踏み出した。
さっきよりも、少しだけ迷いのない動きで。
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