プロローグ
血の匂いには、もう慣れていた。
鼻腔の奥にこびりついた鉄のような臭気は、雨で洗い流しても消えない。爪の隙間に入り込んだ黒ずみも同じだ。舌で舐め取れば、まだ温かい味がした。
目の前には、さっきまで生きていた何かの残骸が転がっている。
角の生えた獣。四足で、牙がやたらと長い。名前は知らない。知る必要もなかった。この森では、名前よりも強さの方が重要だからだ。
「……もういいだろ」
低く漏れた声は、人間のそれとは少し違っていた。喉の奥で唸るような響きが混じる。
俺はその場にしゃがみ込み、ぐしゃりと潰れた肉塊から手を離した。
勝った。だから、生きている。それだけだ。
この世界に来てから、何度同じことを繰り返したか分からない。
気づけばここにいた。森の中で、狼の身体をして、妙に冴えた意識だけを持って。
最初は戸惑った。人間だった頃の記憶も、感覚も残っていたからだ。言葉も、思考も、全部そのまま。
けれど、そんなものはすぐにどうでもよくなった。
腹が減る。襲われる。逃げるか、殺すか。
それだけで一日が終わる。
――生きるって、こんなに雑だったか?
ふと、そんな考えがよぎる。
人間だった頃。何をしていたかは、もうぼんやりとしか思い出せない。だが、少なくとも毎日、血にまみれていた記憶はない。
もっと、こう……。
「……家」
ぽつりと、言葉がこぼれた。
それが何を意味するのか、完全には思い出せない。それでも、頭の奥に引っかかるイメージがあった。
屋根があって、壁があって、雨風をしのげる場所。
柔らかい何かの上で眠って、温かいものを食べて、誰にも襲われない時間がある場所。
そんなものが、確かにあった気がする。
「……くだらないな」
自嘲気味に鼻を鳴らす。
ここにはない。そんなもの。
この森は弱肉強食だ。強い奴が奪い、弱い奴が死ぬ。それだけで回っている。
だから俺も、殺した。
何度も、何度も。
気づけば、この辺りで俺に牙を向けるやつはいなくなっていた。
遠くから気配はする。だが近づいてはこない。俺の匂いを嗅いで、避けているのだろう。
縄張り。
そんな言葉が頭に浮かぶ。
いつの間にか、この一帯は俺のものになっていたらしい。
「……だから何だって話だ」
呟いて、立ち上がる。
腹は満たされている。しばらくは狩りをする必要もない。
だが、満たされないものがあった。
妙に、落ち着かない。
敵はいない。飢えもない。それなのに、どこか空っぽだ。
森の奥を見渡す。
木々が鬱蒼と茂り、光はほとんど差し込まない。風が吹けば枝が軋み、どこかで何かが死ぬ音がする。
これが、この世界の“普通”だ。
「……違う」
無意識に、首を振っていた。
違う。こんなものじゃない。
もっと――
そのときだった。
ふわりと、風向きが変わる。
血と土の匂いに混じって、異質な香りが流れ込んできた。
「……なんだ、これ」
思わず鼻をひくつかせる。
甘い。いや、香ばしい。どこか懐かしい匂い。
腹は減っていないはずなのに、妙に意識を引き寄せられる。
足が、勝手に動いた。
森の外へ向かって。
普段なら近づかない方向だ。そこには“別の連中”がいると、本能が知っているからだ。
だが、今日は違った。
木々の間をすり抜け、斜面を駆け下りる。
やがて、視界が開けた。
森の切れ目。その先に広がっていたのは――
「……」
言葉を失う。
見たことのない景色だった。
整えられた道。規則正しく並ぶ建物。煙を上げる屋根。行き交う小さな影。
――人間。
理解するのに、時間はかからなかった。
そして同時に、胸の奥で何かが強く鳴る。
さっき思い浮かべたもの。
屋根。壁。煙。
全部、そこにあった。
「……ああ」
喉の奥から、かすれた声が漏れる。
思い出したわけじゃない。ただ、分かった。
俺が欲しかったものが、あそこにある。
血でも、力でもなく。
もっとどうでもよくて、どうしようもなく大事なもの。
ああいう場所で、ただ生きること。
「……行くか」
小さく呟く。
危険なのは分かっている。あれは、俺とは違う生き物の領域だ。
見つかれば、きっと争いになる。
それでも。
踵を返す理由にはならなかった。
森を支配したところで、何も満たされなかったのだから。
だったら、次は――
俺はもう一度、あの景色を見た。
煙の上がる家々。穏やかに動く人影。
そして、そこにあるはずの“生活”。
「……盗るんじゃなくて、手に入れる」
誰に言うでもなく、そう呟く。
意味なんて、まだ分からない。
けれど――
ただ殺して奪うだけのやり方じゃ、あれは手に入らない気がした。
風が吹く。
森と、外の匂いが混ざり合う。
その境目に立ちながら、俺はゆっくりと息を吐いた。
血の匂いが、少しだけ薄れた気がした。
もっと後に投稿するつもりでしたが、現在書いている作品の書き直しての間、読んでもらおうと思って投稿します。




