ザリア
森の空気は静かだったが、その静けさの奥には確かな重みがあった。戦いの余韻がまだ地面に染みついている。血の匂いは薄れてきているが、完全には消えていない。少し離れた場所で、ハーピーの呼吸が浅く続いているのが耳に残る。
守ったはずなのに守り切れなかった現実が、言葉よりも強く胸の奥に残っていた。手を伸ばしても届かない距離、ほんの一瞬の遅れ、それだけで結果が変わるという事実を、身体が理解してしまっている。強くなったはずだった。それでも足りなかった。
アルアインはそんな空気など気にも留めないように、木にもたれながらこちらを見ていた。片目を細めるその視線は、値踏みというより確かめるようなものに近い。
「立てるか」
短い問いに、俺は黙って立ち上がる。足取りに迷いはないが、軽くはない。
「さっきの戦いで分かっただろ、あれじゃ足りねぇ」
返す言葉はない。だが否定もできない。
「少し相手してやる、来い」
その言葉は軽く放たれたものだったが、拒否する理由もなかった。むしろ必要だと、どこかで分かっていた。
「最初から本気で来い、手加減はするな」
一度だけ息を整え、人型へと変わる。骨格が軋み、筋肉の配置が変わる感覚はもう違和感ではなくなっていた。構えを取る。視界が狭まる。
踏み込む。速さはある。だが、その一歩はアルアインには届かない。
「遅いな」
わずかな動きで軌道を外される。視界から消える。次の瞬間には腕を取られていた。
「踏み込みが浅い、重心が流れてる」
そのまま崩され、地面に叩きつけられる。息が抜けるが、止まらない。すぐに立ち上がり、もう一度踏み込む。
「いいな、そのまま来い」
今度は角度を変える。だが、結果は同じだった。刃のように鋭い動きで懐に入られ、攻撃は空を切る。
「腕に頼りすぎだ、体で振れ」
受け流され、押し返される。速さも力もあるはずなのに、届かない。まるで最初から読まれているような感覚だった。
「見えてるからだよ、全部な」
何度も打ち込む。何度も崩される。汗が滲み、呼吸が荒くなる。それでも止めない。
「獣のままだ、だから通じねぇ」
最後の一撃を放つが、軽くいなされる。足を払われ、視界が回転する。
地面に倒れたまま、空を見上げる。枝の隙間から差し込む光がやけに遠い。
「その程度だ」
アルアインの声は冷たくも熱くもなかった。ただ事実を述べているだけだった。
ゆっくりと起き上がる。悔しさはある。だが、それ以上に納得している自分がいる。
「お前、名前は」
不意に投げられた問いに、言葉が詰まる。かつての名前が頭をよぎる。人としての記憶。ノームたちに呼ばれた名前。それらが交差する。どれも自分であり、どれも今の自分ではないような感覚があった。
沈黙が続く。
「名前がないのか」
アルアインはあっさりと言い切る。
「それならお前はザリアだ」
その言葉は迷いなく落とされた。
「昔、帝国に行った時に聞いた守り神の名前だ。お前にピッタリだろ?」
俺はその名を口の中で転がす。
「ザリア」
不思議と違和感がなかった。むしろ、今の自分に最も近い形のように思えた。守るという行為に縛られているわけではない。ただ、それを選んできた。その結果が今ここにある。
アルアインはそれ以上深くは聞かない。ただ頷くだけだった。
森の奥へと歩き出す。その背中は迷いがない。ザリアは一瞬だけ後ろを振り返る。集落の方向。グリフォンの匂いがまだ強く残っている。あれだけの存在を倒した痕跡は、簡単には消えない。しばらくは抑止になるはずだった。
それでも完全ではない。
だからこそ、足を前に出す。
「ついてくるかどうかだ」
アルアインの声が前から飛んでくる。
ザリアは答えない。ただ、その後ろを歩くことで意思を示す。
「不安か」
振り返らずに問う声。
「……ああ」
短く返す。
「当然だな」
森の空気が少しずつ変わっていく。匂いが違う。土の感触も、風の流れも変わる。人の領域へ近づいている証だった。
「知らねぇままじゃ守れねぇ」
その言葉は重かった。戦いよりも、現実を突きつける重さ。
「敵を知れ、場所を知れ、流れを知れ」
歩きながら続く声は、教えるというより刻み込むようだった。
「力だけじゃ生きられねぇ場所がある」
ザリアは黙って聞く。言葉の意味は完全には理解できない。それでも、否定はできなかった。
ハーピーの荒い息遣いが頭に残る。あの瞬間、自分は間に合わなかった。その事実だけで十分だった。
アルアインの背中が少しだけ近くなる。
「離れるなよ」
短い忠告。
ザリアは小さく頷く。
森の境界が見えてくる。見慣れた世界が、ゆっくりと終わろうとしていた。
足は止まらない。
ザリアはその背中を追いながら、ただ一つだけ確かに理解していた。
これは守るための一歩だということを。
読んでいただきありがとうございます。
いいね、☆☆☆☆☆の評価頂けると励みになります。




