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狼男に転生した俺は魔物の支配者ではなく、庭付き戸建ての夢を見る  作者: ミツメ


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20/21

届く

 森の奥へと踏み込んだ瞬間から、世界は別のものに変わっていた。音が消える。風が鈍る。土の匂いさえも、どこか遠くへ追いやられたように薄くなる。その中心にいるものが、すべてを支配しているのだと本能が告げていた。


 足を止めることはできない。止まれば、その瞬間に押し潰される。だから進む。四足で地面を蹴り、木々の間を縫うように走りながら、全神経を研ぎ澄ませる。視界の端、空気の揺れ、わずかな違和感、そのすべてに意識を向ける。


 来る。


 そう思った瞬間、衝撃が横から叩き込まれた。視界が弾け、身体が宙に浮く。次に地面が背中を打ち、肺の空気が一気に押し出される。呼吸ができない。だが、考える前に体が動く。転がる。起き上がる。足を踏みしめる。遅れれば死ぬ。


 目の前にそれはいた。


 グリフォン。


 巨大な翼が広がり、陽の光を遮る。嘴は鈍く光り、四肢の爪は地面に食い込み、わずかな動きだけで土を砕く。黄金の瞳が、逃げ場のない圧でこちらを捉える。その視線だけで、足がすくみそうになる。


 だが、退かない。


 グリフォンが動く。


 速い。


 消えたように見えた次の瞬間、目の前にいる。爪が振り下ろされる。


 避ける。


 間に合わない。


 肩に衝撃。肉が裂ける。血が噴き出す。


 痛み。


 だが、それを感じている余裕はない。即座に後方へ跳ぶ。距離を取る。呼吸を整えようとするが、許されない。翼が唸る。風圧だけで身体が揺れる。


 来る。


 今度は真正面から。


 突進。


 正面で受ければ砕ける。横へ流れる。地面を蹴る。ぎりぎりで軌道を外す。だが、そのまま終わらない。尾がしなる。振り抜かれる。


 防げない。


 直撃。


 視界が回る。木に叩きつけられる。骨が軋む音がする。


 立て。


 体が言うことを聞かない。


 それでも、立つ。


 グリフォンは距離を取らない。じっとこちらを見ている。観察している。次にどう動くかを見極めている。


 ならば、先に動く。


 踏み込む。


 速度を上げる。直線ではない。左右に揺れる。フェイントを混ぜる。わずかなズレを作る。


 届くか。


 爪を振るう。


 弾かれる。


 翼が盾のように割り込む。硬い。骨と羽毛が衝撃を吸収する。逆に弾かれ、体勢が崩れる。


 そこを狙われる。


 爪。


 避けきれない。


 胸を掠める。皮膚が裂ける。血が流れる。


 後退。


 距離を取る。


 息が荒い。視界が揺れる。


 勝てない。


 その言葉が頭をよぎる。


 だが、同時に浮かぶものがある。


 畑。


 小屋。


 ノームたちの墓。


 ハーピーの視線。


 ゴブリンの差し出した木の実。


 ここで終われば、すべてが消える。


 それだけは許せない。


 再び踏み込む。


 今度は低く。地を這うように。


 グリフォンの下へ潜り込む。


 狙うは腹。


 柔らかい部分。


 だが、読まれている。


 脚が落ちる。


 踏み潰される。


 直前で転がる。回避。だが、間に合わない。側面を蹴り飛ばされる。


 転がる。


 止まらない。


 地面を何度も打つ。


 動け。


 体に命じる。


 だが、遅い。


 グリフォンが上から落ちる。


 影が覆う。


 死。


 その瞬間、時間が引き延ばされたように感じた。


 終わる。


 そう思った。


 その時だった。


 横から、何かがぶつかる。


 鈍い音。


 グリフォンの身体がわずかに揺れる。


 ハーピーだった。


 折れたはずの羽で、無理やり飛び、体当たりをかけていた。


 一瞬の隙。


 それだけで十分だった。


 手を伸ばす。


 届かせる。


 力を。


 あの日の飢えではない。


 満たすためではない。


 守るため。


 繋ぐため。


 願う。


 渇望する。


 応えろ。


 そのとき、声が響いた。


「特別だ」


 全身が震える。


 内側から溢れる力。


 熱。


 視界が澄む。


 すべてが遅くなる。


 グリフォンの動きが見える。


 踏み込む。


 一歩。


 距離が消える。


 腕を振るう。


 爪が空気を裂く。


 喉元へ。


 一直線。


 触れる。


 切る。


 裂く。


 肉が開く。血が噴き出す。骨を断つ感触が伝わる。


 グリフォンの目が見開かれる。


 遅れて、身体が崩れる。


 地面に叩きつけられる巨体。


 衝撃。


 森が揺れる。


 静寂。


 終わった。


 そう理解する。


 足が震える。


 力が抜ける。


 だが、立つ。


 倒れない。


 振り返る。


 ハーピーが倒れている。


 動かない。


 遠くから、気配が近づいてくる。


 仲間たちだ。


 守れた。


 その実感が、遅れて胸に広がる。


 そして、そのまま意識が闇に沈んだ。


――――――――――――――――――――――――――――――


 神は嗤った。

 それは観測でありながら、同時に娯楽でもあった。世界の流れに干渉することは本来、均衡を崩す危うさを孕むが、時にその均衡そのものが停滞へと変わることもある。だからこそ私は見ている。選ばれたわけでも、祝福されたわけでもない一つの存在が、どのようにして抗い、選び、変わっていくのかを。あの個体は最初から歪だった。与えられた器と、その内側にある記憶の齟齬、捕食者としての本能と、誰かと共に在ろうとする意志、そのどちらもが中途半端でありながら、決して折り合うことをやめなかった。だから興味が湧いた。壊れるか、染まるか、あるいはどちらでもない何かになるのか、その過程こそが価値を持つ。


 あの森において、本来であれば結末は決まっていた。強者が弱者を喰らい、やがてより強いものに喰われるだけの単純な循環。その頂に位置していたのが、あの翼を持つ獣だった。グリフォン。空と地を制する象徴として、あの領域の均衡を保っていた存在。だが、その均衡に揺らぎが生まれたのは、あの個体が弱きものを集め、守るという選択をした時からだ。牙を持ちながら、それを振るう理由を変えた。その一点が、この世界においては異物となる。だからこそ、面白い。


 私はほんの少しだけ手を加えた。与えたのは力ではない。可能性だ。彼が手を伸ばしたとき、その意志がどこへ向かうのかを見たかった。飢えに従うのか、それとも別の何かを掴もうとするのか。その答えが示された瞬間、応える理由は十分だった。


『アネモイ』。それは神を冠する権限。


 風を司る古き力の断片であり、流れそのものを操る権能の一端。だが、与えたのはそのすべてではない。あの個体が扱える程度に削ぎ落とし、なおかつ本質だけを残したもの。風を読むのではなく、風と同化する。空間を切り裂くのではなく、流れを捻じ曲げる。力として見れば未完成であり、不安定であり、それゆえに扱う者の意思に強く依存する。だからこそ、価値がある。


 あの瞬間、彼は確かに選んだ。満たされるためではなく、守るために力を求めた。その願いは純粋であり、同時に危うい。守るという行為は、やがて奪うことと隣り合わせになる。いずれ彼は知るだろう。何かを守るためには、何かを切り捨てなければならない場面が訪れることを。そのとき、彼はどうするのか。変わらずにいられるのか、それとも新たな形へと歪むのか。


 それを見届けるのが、今の私の興味だ。


 風は常に流れ続ける。止まることはない。だが、その流れの中に、抗う一点が生まれたとき、世界はわずかにその形を変える。あの個体は、まだ小さい。だが確かに、流れに触れ始めている。


 だからこそ、もう少し見ていようと思う。


 どこまで行けるのかを。

読んでいただきありがとうございます。


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