二つの王座
土を手に取ると、あのとき教わった感触が確かにそこにあった。湿り気を含んだ柔らかな土、根を張り、栄養を吸い上げ、季節とともに変わっていく大地の息遣い。ノームたちが言っていたことは間違っていなかった。
土は生きている。だからこそ、手を入れれば応えてくれるし、怠ればすぐに痩せていく。その変化を感じ取れるようになったのは、ここで過ごした時間の証だったのかもしれない。気づけば一年が経とうとしていた。あの日、焼け落ちた集落の中で何もできずに立ち尽くしていた自分とは、まるで別の存在のように思える。
畑には穂が揺れている。粟や稗が風に撫でられ、静かに音を立てる。その光景を見ていると、胸の奥がじわりと熱くなる。あの日、作ると約束したもの。食べさせると決めたもの。結局、それは叶わなかった。だからこそ、今こうして実っていることに、言葉にならない感情が込み上げる。
収穫する。一本一本、丁寧に刈り取る。無駄にしないように、雑に扱わないように。手の中にある重みが、確かな成果として伝わってくる。周囲では、小さな魔物たちもそれぞれに手を動かしている。ぎこちないながらも真似をし、収穫を手伝っている。ゴブリンは器用に束ね、ハーピーは高い位置から周囲を見張りながら時折手を貸す。その光景は、かつて想像もしなかったものだった。
平穏だった。
少なくとも、この瞬間は。
だが、その時間は唐突に途切れる。
「誰か倒れてる」
ハーピーの声だった。短く、だがはっきりとした言葉。空気が変わる。
顔を上げる。ハーピーは森の奥を見ている。その視線の先にあるものを、考えるより先に体が動いていた。
走る。
四足の姿に変わり、地面を蹴る。風を切る。木々の間を抜ける。匂いを探る。すぐに見つかる。血の匂い。人間の匂い。
そこに倒れていたのは、あの剣士だった。
体は傷だらけだった。深い切り傷、抉られた跡、乾ききっていない血。呼吸は浅く、不規則で、今にも止まりそうなほど弱い。意識はほとんどない。だが、まだ生きている。
膝をつく。状況を確認する。これまで見てきたどんな傷よりも深い。相手の強さを物語っている。
あの森の奥にいるもの。
こいつは、そこに挑んだ。
そして、ここまで追い詰められた。
理解する。これは偶然ではない。逃げてきたのだ。この場所まで辿り着くことを選んだのか、それともただ限界だったのかは分からないが、結果としてここにいる。
助けるか。
考えるまでもなかった。
持ち上げる。重い。だが問題ない。集落へと運ぶ。急ぐ。だが乱暴にはしない。揺らせばそれだけで命が消えるかもしれない。
戻る。周囲の気配がざわつく。魔物たちが集まる。警戒と好奇心が入り混じった視線。だが、誰も手を出さない。ここがどういう場所かを理解しているからだ。
地面に下ろす。すぐに手当てに入る。前にハーピーにやった時よりも、遥かに難しい。傷が多すぎる。深すぎる。だが、やるしかない。水を使い、汚れを落とす。布を巻く。圧迫する。血を止める。呼吸を確認する。何度も何度も、手を動かす。
時間が経つ。
日が傾く。
夜になる。
それでも、手は止めない。
やがて、呼吸がわずかに安定する。完全ではないが、さっきよりはましだ。
そのとき、ようやく理解した。
後回しにしていたものが、もう目の前まで来ている。
このままでは終わらない。
あの怪物は、確実にここへ来る。
剣士ですら、この状態になる相手。
ならば、ここにいるものたちでは耐えられない。
守るなら、今しかない。
立ち上がる。
周囲を見る。ゴブリン、ハーピー、小さな魔物たち。それぞれがこちらを見ている。言葉はない。だが、分かる。
ここを守るのは、自分だ。
覚悟は、もうできている。
ゆっくりと息を吐く。
体を変える。筋肉が軋む。骨が鳴る。狼男の姿へと変わる。
振り返らない。
歩き出す。
一歩。
また一歩。
やがて、走る。
地面を蹴る。加速する。風を裂く。
向かう先は、森の奥。
あの気配の源。
すべての原因。
終わらせるために。
ただ、それだけを考えていた。
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風は嘘をつかない。大気の流れ、木々のざわめき、地を這う匂いの揺らぎ、そのすべてがこの森の内側で何が起きているのかを語っている。ゆえに、私は知っている。ここはすでに変質している。弱きものが淘汰され、強きものが残るという単純な循環から外れ、別の理に侵され始めていることを。
それは小さな違和から始まった。獲物が減ったのではない。むしろ増えている。弱き気配が一箇所に集まっている。逃げているのだ。本来ならば散り、隠れ、やがて消えるはずのものたちが、なぜか同じ方向へと流れている。その先に何があるのかを確かめる必要があった。
私は空を裂き、森の上を滑る。翼が空気を捉え、音もなく高度を保つ。視界の端に映る動き、地上の揺らぎ、すべてを拾い上げながら進む。その途中で、人間と遭遇した。
異質な個体だった。
逃げない。隠れない。こちらを見据え、刃を構える。愚かな行為だが、同時に興味深い。試す価値があると判断した。
急降下。風圧が地を叩く。人間は動く。遅い。だが、完全に遅いわけではない。刃が閃く。私の前肢に触れる。浅い。だが、確かに届いている。
面白い。
そのまま踏み潰すこともできた。だが、やらなかった。遊びではない。これは確認だ。この森に入り込んだ異物の質を測るための。
人間は粘った。避け、流し、受ける。力では劣る。速度でも劣る。だが、無駄がない。積み上げてきたものがある動きだった。数度、致命に近い軌道で爪を振るったが、すべて逸らされた。
ならば、変える。
高度を上げる。間を置く。人間が息を整える。その瞬間を狙う。再び落ちる。今度は一直線ではない。風を裂き、軌道を歪め、視線を欺く。
捉えた。
爪が肉に食い込む。骨の感触。人間の体が宙に浮く。叩きつける。地が割れる音。刃が落ちる。動きが鈍る。
まだ、生きている。
しぶとい。
だが、ここまでだ。
止めを刺そうとしたその瞬間、風が変わった。
違う気配。
人間ではない。魔物とも違う。だが、どちらにも属しているような歪な存在。
目を向ける。
遠い。だが、確かにいる。
見ている。
その気配は強くはない。だが、軽視できない。質が異なる。単純な力では測れない何かを含んでいる。
一瞬の判断。
ここで無理をする必要はない。
人間はすでに終わっている。致命ではないが、戦力としては失われた。目的は達した。
私は翼を広げ、再び空へと戻る。
上昇する。
風を掴む。
森を見下ろす。
あの気配の先を追うべきか。
否。
今はまだ、その時ではない。
だが、確実にそこにある。
異物。
この森の理を乱すもの。
弱きものを集め、牙を向けぬ強者。
理解できない存在。
だからこそ、排除する価値がある。
私は旋回し、さらに奥へと戻る。自らの領域へ。頂へ。
時間はある。
逃げ場はない。
いずれ、ぶつかる。
その時こそ、本当の意味でこの森の主が誰であるかを決めることになる。
風は変わり続けている。
だが、その流れを断ち切るのは、いつも決まって強者だ。
そして、その座にいるのは、私だ。
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