生まれてきた意義
ワォォォォォォォォォォォンン。
喉の奥から絞り出すように放たれた咆哮は、森全体を震わせるほどの響きとなって広がっていった。それは単なる威嚇ではなかった。怒りであり、悲しみであり、どうしようもなく溢れ出した感情そのものだった。胸の奥に溜まり続けていたものが限界を迎え、声となって噴き出したに過ぎない。それでも、叫ばずにはいられなかった。
集落に辿り着いたとき、そこにあったはずの平穏は完全に消え去っていた。整えられていた畑は踏み荒らされ、実りかけていた作物は無残に引き抜かれ、地面には無数の足跡が刻まれている。
水車はまだ回っていたが、その周囲は炎に包まれ、木でできた家々は燃え崩れていた。空気は煙と焦げた匂いに満ち、そして濃く漂う血の匂いが鼻を刺す。
そこにあるのは血と殺意と飢え。かつて自分がいた世界と、何一つ変わらない光景だった。あの穏やかな時間が嘘だったかのように、すべてが塗り潰されている。
一瞬、言葉を失う。理解が追いつかない。だが、それを引き裂いたのはノームたちの悲鳴だった。耳に刺さるようなその声に、意識が現実へと引き戻される。視線を向けると、そこには人間がいた。痩せ細り、目を血走らせた男が、今まさにノームの身体を切り裂こうとしている。刃が振り下ろされ、肉が裂ける音が響く。その光景が、やけに鮮明に目に焼き付いた。
人間たちは明らかに飢えていた。骨ばった体、乾いた肌、焦点の定まらない目。それでも、その奥には強烈な意思があった。生きるためならば何でもするという、狂気にも似た執念。後から考えれば、隣の領地から逃げてきたのだろう。だが、その理由などどうでもよかった。
なぜここなのか。なぜこの場所を選んだのか。なぜ俺の平穏を壊すのか。その問いが頭の中で渦巻き、黒い感情へと変わっていく。
今すぐにでも殺さなければならない。そうしなければ、この感情が自分の中で爆発する。足に力が入る。体が自然と人狼の形へと変わっていく。目の前の人間を引き裂くイメージが鮮明に浮かぶ。そのまま飛びかかろうとした瞬間、背中に触れるものがあった。
小さな手だった。
振り返るまでもない。その温もりは知っている。
カロ爺だった。
「逃げるんじゃ。バリセオ。」
その声は静かだったが、確かな力を持っていた。
「離せ、カロ爺。あいつら全員殺してやる。」
抑えきれない感情を、そのまま言葉にする。だがカロ爺は首を横に振った。
「だめじゃ、バリセオ。これは天がわしらに与えた使命なのじゃ。見てみい。彼らは飢えておる。わしらがこれまで味わってきた幸せを知らぬ目をしている。わしらは彼らの涙と悲しみを拭う為に生きて来たのかもしれぬ。」
その言葉に、胸の奥が揺れる。だが納得などできるはずがない。
「だめだ、カロ爺。今ならまだ間に合う。まだやり直せる。」
視線の先では、まだ動いているノームたちがいる。まだ終わっていない。そう思いたかった。
しかしカロ爺は静かに言う。
「バリセオ。おぬしは傷つけることに慣れてはならぬ。それがわしらのためならばなおさらじゃ。」
その言葉は優しく、そして残酷だった。俺の衝動を否定しているわけではない。それでも、それを選ぶなと言っている。
「バリセオ。おぬしはおぬしの道をゆけ。わしらはそれをずっと天から見ておる。なんとも幸運なことじゃ。」
そんなものはいらない。見守られる未来など望んでいない。ここにいてほしい。このまま一緒にいたい。それだけなのに。
「まだ、俺の粟を振る舞えてねぇんだ。俺が初めて作った粟だ。みんなに食わせてやらなきゃだめなんだ。」
気づけば叫んでいた。どうしようもなく子供じみた願い。それでも、それが本音だった。
カロ爺は小さく笑う。
「バリセオ。わしはさっき、人の悲しみを拭うためと言ったが、それは違ったのう。おぬしと出会うため、そしておぬしの中で生きるために、わしらはここまで生きてきたんじゃ。」
その言葉に違和感を覚える。視線を落とすと、カロ爺の体から血が滴り落ちていた。すでに致命傷を負っている。それでもなお、ここに立っている。
「待ってくれよ、なあ、カロ爺。」
声が震える。何もできない自分が、ただそこにいる。
カロ爺の手が俺の腕を掴む。その力は弱いはずなのに、振りほどけない。最後の力で、俺を止めている。
「最後に、おぬしの本当の名前を教えてくれぬか。」
一瞬、言葉が詰まる。バリセオではない名前。忘れかけていた、自分の名前。
それでも、口を開く。
「俺は、―――。」
言葉は炎と悲鳴の中に溶けていく。
その夜、俺は咆え続けた。声が枯れるまで、何度も何度も。怒りも、悲しみも、後悔も、すべてを乗せて。天の向こうにまで届くようにと願いながら。止めることなど、できなかった。
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