思い出したのは血の臭い
ノームとの生活は、不思議なほど穏やかだった。最初はただの取引のつもりだった。肉を持っていけば、穀物をもらえる。それだけの関係。
しかし、それはすぐに形を変えていった。彼らは俺に住む場所を与え、粟や稗、そして様々な農作物を分けてくれるようになった。
代わりに俺は五日に一度、森に出て肉を狩ってくる。時には、外に出たいと言うノームたちの護衛も務めた。弱い彼らにとって森は死と隣り合わせの場所だが、俺がいれば多少は安全になる。そんな関係が、自然と出来上がっていた。
気づけば、それはただの取引ではなくなっていた。共生と呼べるものだった。俺はここで、居場所を得ただけではない。知識を得ていた。
ノームたちは惜しみなく教えてくれた。ずっと同じ作物を植え続ければ土は力を失うこと。違うものを植え、土を休ませる必要があること。根には毒があるが、花には薬としての効能がある植物の存在。どの葉が食べられて、どの実が危険なのか。森のこと、畑のこと、生活のすべて。俺が知らなかった世界の仕組みを、ゆっくりと、丁寧に教えてくれた。
それらは、今までの俺にはなかったものだった。殺して、喰らって、生き延びるだけの日々には必要なかった知識。だが今は違う。知ることで、見えるものが変わっていく。森はただの狩場ではなくなり、畑はただの食料の供給源ではなくなった。そこには流れがあり、循環があり、積み重ねがあった。
時間は、あっという間に過ぎていった。
気づけば、季節が変わっている。空気の匂いも、風の温度も、少しずつ変化していた。その中で、俺自身も変わっていたのだと思う。以前のように、ただ飢えに追われることはなくなっていた。満たされているわけではないが、確かに落ち着いている。
ある日、ノームたちは俺に名前をつけた。
バリセオ。
それが、この集落での俺の名前になった。ノームの言葉で、幸運の神を意味するらしい。最初に聞いたときは違和感しかなかった。神などという存在とは程遠い。だが、彼らは真剣だった。俺が来てから、作物の出来が良くなった。外に出る機会も増えた。肉も手に入るようになった。そうした積み重ねが、彼らにとっては幸運そのものだったらしい。
否定する理由もなかった。俺はその名を受け入れた。
バリセオとして、この場所で生きることを。
平穏な日々は続いた。朝は畑の様子を見て、必要なら手伝いをし、時には森へ出て獲物を探す。ノームたちと話をし、食べ、休む。その繰り返し。単調とも言える生活だったが、不思議と飽きることはなかった。むしろ、満たされている感覚があった。
そして、今日。
収穫の日だった。
俺自身にも、小さな畑が与えられていた。ノームたちに教わりながら耕し、種をまき、水をやり、世話をしてきたもの。それが、ようやく実を結ぶ日だ。
嬉しさがあった。
興奮もあった。
そのせいか、いつもよりずっと早く目が覚めた。まだ空は薄暗く、集落も静まり返っている。寝直すこともできたが、落ち着かなかった。
仕方なく、外に出る。
体を動かせば、気も紛れるだろうと思った。
四足の姿になり、軽く地面を蹴る。朝の空気は冷たく、心地いい。集落の周囲をぐるりと回るように走る。いつもの習慣でもあるが、今日はそれ以上に、ただ走りたかった。
何周かした頃だった。
ふと、異質なものが目に入った。
動く影。
森の奥。
立ち止まり、目を凝らす。
人間だった。
複数。
集団で動いている。
だが、どこかおかしい。
匂いが違う。
どこかで嗅いだことがある。
記憶を探る。
そして、思い出す。
あのときの山賊たち。
だが、目の前の連中はそれよりもさらにひどい状態だった。
痩せている。
骨ばっている。
目が落ちくぼみ、頬がこけている。
飢えている。
それが一目で分かった。
かつての自分と、よく似ていた。
ただし、違うのは数だ。
一人ではない。
群れだ。
そして、その動き。
迷いがない。
進む方向が決まっている。
目を血走らせながら、一直線に進んでいる。
その様子に、嫌な予感が走る。
視線を追う。
進行方向。
それは――
「まさか、」
自分が今まで走ってきた方向と、同じだった。
つまり。
集落。
ノームたちのいる場所。
次の瞬間、体が動いていた。
地面を蹴る。
一気に加速する。
風を切る。
全力で戻る。
間に合え。
そう思いながら、ただ走る。
だが――
視界の先。
木々の隙間から見えた光景に、足が止まりかけた。
明かり。
だが、それは見慣れたものではない。
松明でも、灯りでもない。
揺らめく炎。
高く、激しく。
空へと伸びている。
家を焼く火。
黒い煙が立ち上る。
嫌な匂いが風に乗って届く。
焦げた木の匂い。
そして――
血の匂い。
ついさっきまで、あの場所にはなかったはずのもの。
胸の奥が、強く脈打つ。
思考が一瞬止まる。
だがすぐに、理解する。
遅かった。
間に合わなかった。
バリセオとして過ごしてきた場所。
あの穏やかな集落が――
燃えている。
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