耕す、それは生活
森の中を駆けながら、いくつもの痕跡を辿った。
リザードマンの匂いだけではない。これまで意識してこなかったが、よく嗅げばこの森には様々な“生活の跡”が残っていることに気づく。踏み固められた地面、繰り返し使われたであろう獣道とは違う整った通路、そして何より、個体ではなく“集まり”として残る匂い。
それらを頼りに進んだ先で、いくつかの集落を見つけた。だが、そのどれもが俺の求めるものではなかった。近づこうとした瞬間、空気が変わる。殺気が一斉にこちらへ向けられ、警戒心が牙となって剥き出しになる。姿を現す前から囲まれているのが分かる。
試しに一歩踏み込めば、即座に攻撃が飛んでくる。言葉はない。ただ排除する意志だけがある。何度か試したが結果は同じだった。あいつらにとって俺は“異物”であり、“敵”でしかない。結局、俺はその場を離れるしかなかった。
どうしたらいいのか分からない。奪うことならできる。殺して、喰らって、奪う。それはもう慣れている。だが、それではあの“アレ”は手に入らない。
あれは、そういうものじゃない。差し出されて、受け取る。あの形でなければ意味がないと、今でもはっきり分かる。だから俺は、奪わない方法を探している。だが、その方法が分からない。近づけば襲われる。ならどうする。考えても答えは出ないまま、同じことを繰り返していた。
何度目かも分からなくなった頃、また一つの集落を見つけた。だが、これまでとは何かが違った。まず、血の匂いがしない。森の中ではそれだけで異様だ。さらに、気配が静かすぎる。夜ということもあるが、それにしても張り詰めた感じがない。
まるで、そこだけ森から切り離されているかのような、穏やかな空気だった。警戒しながらも、俺は身を低くして近づく。いつ襲われてもいいように、筋肉に力を込め、気配を殺し、ゆっくりと距離を詰める。
だが――何も起きない。囲まれる気配もなければ、敵意も感じない。肩透かしを食らったような感覚のまま、さらに近づくと、そこに広がっていたのは見慣れない光景だった。
畑だった。整然と並ぶ作物。土は丁寧に耕され、水も行き届いている。
その奥には、回転する大きな輪――前世の記憶がそれを“水車”だと教えてくれる。風ではなく、水の流れで動く装置。こんなものを、この森で見るとは思わなかった。そして、その周囲にいるのは――小さな体の魔物たち。ノーム。これもまた、なぜか分かる。土と共に生きる種族。戦うためではなく、育てるために存在しているような、そんな空気を持った連中だった。
ここしかない、そう思った。これまで見てきたどの集落とも違う。血の匂いがしない。殺気もない。ここなら――奪わずに、何かを得られるかもしれない。だが同時に、理解していることもある。俺ができるのは、結局“奪う”ことだけだ。交渉も、会話も、方法を知らない。もしここで何かを得ようとすれば、結局は同じことになるのではないか。そう考えて、足が止まる。
そのときだった。「わしらを殺すのか?」背後から声がした。振り返ると、一体のノームが立っていた。小さな体。皺の刻まれた顔。武器は持っていない。完全に無防備だ。それでも、逃げる様子も、怯える様子もない。ただ、そこに立っている。夜の番をしていたのだろう。だが、その目には恐怖も敵意もなかった。ただ、事実を確認するような静かな視線だった。
「……殺すつもりはない」と答えると、ノームはわずかに目を細めた。
「ほう。それでも奪うのじゃろ?」その言葉に、返す言葉が出なかった。否定できない。何も分からない俺にできることは、それしかないからだ。ノームは小さく息を吐いた。
「わしらは弱い。この集落が襲われないのは加護があるからじゃ。それが効かぬものが来る時は、いつか来ると思っておったが、それが今日になるとはな」
淡々とした口調だった。まるで、雨が降るのを受け入れるように、自分たちの死を受け入れているようだった。
「今日は何かあるのか?」と聞くと、ノームは少しだけ空を見上げた。
「収穫の日での。今年は豊作だった。皆で分けて、少し贅沢をして……そういう日じゃった。残念じゃ」
その言葉に、わずかな感情が滲む。だが、それもすぐに消えた。
「殺さないと言ったら?」と問うと、ノームは首を振る。「同じじゃ。奪われれば、わしらは森で生きていけん。畑を耕し、その日を生きるだけの種族じゃ。森に入れば、簡単に死ぬ。だからここで生きておる」
その声には諦めがあった。だが同時に、どこか穏やかでもあった。
「肉が贅沢なのか、」と、ふと思った疑問を口にすると、ノームはわずかに笑った。
「おぬしには分からんじゃろうな。わしらは血の味を求めておるわけではない。肉はな、豊かさなんじゃ。穀物や葉では感じられぬ満足がある。だからこそ、特別なんじゃよ」その言葉を聞いたとき、胸の奥で何かが繋がった気がした。あの“アレ”と同じだ。ただの栄養じゃない。そこにあるのは、満たされる感覚。そのために必要なもの。
「ならば、とってこよう」気づけば、そう口にしていた。ノームは驚いたように目を見開いたが、何も言わなかった。
そして翌朝。俺は一頭のイノシシを引きずって戻ってきた。仕留めるのに苦労はしなかった。今の俺なら、この程度は問題ない。
だが、それを“持って帰る”という行為は初めてだった。奪うためではなく、渡すために。集落の前にそれを置くと、ノームたちがざわめいた。目を丸くしている。
「それで、お前らは何をくれる?」と俺が言うと、数体のノームが前に出た。
「わしらの命で」と口々に言い始める。だが、それを昨晩のノームが制した。「やめい。そういう話ではない」そして、俺の方を見て言った。「茹でたての粟をあげましょう」
それが差し出されたとき、俺は一瞬、動けなかった。奪ったわけでも、殺したわけでもない。それでも、差し出された。あのときと同じ形で。ゆっくりと、それを受け取る。口に運ぶ。噛む。広がる味は、あの“アレ”とは違う。だが、確かに――満たされる何かがあった。
その瞬間、ふと思った。ここは、今までの縄張りとは違う。奪うだけの場所ではない。ここには、“居場所”があるのかもしれないと。
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