甘さのあとに残るもの
2月14日。
今日はバレンタインデー。
私は、いつも通りの朝を過ごしていたつもりだった。
だけど、今日は胸の苦しさが朝からあった。
いつも通りの朝を過ごしたいのに、頭の中は先生のことでいっぱいだった。
――今日は会えるかな。
――きっと、先生は色んな人から貰うんだろうな。
――渡すとき、なんて言おう。
本当はワクワクする日なはずなのに、自分にとっては少し重たい日だった。
私は、この間買ったバレンタインチョコを持って家を出た。
街は少し浮かれ気味の雰囲気だった。
街行く人々の手には、紙袋を持っている人が所々に居た。
教室に入ると、友達が声をかけてくる。
「おはよ~!今日渡す人居るの?」
いつもより少し高いテンション。
机の上には、小さな袋や箱がいくつも置かれていた。
もうすでに渡し始めている人も居るみたいで、教室の中はどこかそわそわしていた。
「……まだ、考えてないなぁ。」
私は曖昧に答えて、席に座る。
「え~!絶対あげた方がいいよ!」
「誰にあげるの?」
軽いノリで聞かれる言葉。
そのはずなのに。
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
「……別にあげないかも!なんだったら逆に貰う方かな?」
「なにそれ~!!」
そう冗談を言って、友達と笑った。
これでいいんだ。
友達にバレてしまったら、きっと引かれてしまう。
だから、今日はいつも通りに。
本当は、決まっているのに。
あげたい人も、渡すものも。
全部、決まっているのに。
私は、そう思いながら鞄の中に入っている小さい紙袋を見つめた。
昼休み。
教室を出て廊下を歩いていると、見慣れた後ろ姿が目に入った。
――先生だ。
少し離れたところで、誰かと話している。
近づこうとして、足が止まる。
「あ、先生~!」
明るい声が響いた。
同じ学年の女子が、笑いながら近づいていく。
「はい、これ!バレンタイン!」
軽い調子で、小さな袋を差し出した。
「おう、ありがとう。」
先生は、いつもと変わらない顔で受け取る。
「ちゃんと食べてくださいね~!奥さんからも受け取るんだろうけど!」
「はいはい、きっとな。」
そんなやり取りが、あっという間に終わる。
特別な空気なんて、どこにもなくて。
ただの、いつもの会話みたいだった。
――ああ、そっか。
先生にとっては、こういう日なんだ。
ただ、もらうだけ。
生徒からのプレゼントに特別な意味なんて、きっとない。
特別な意味を持つプレゼントを渡せるのは、奥さんだけなんだろうな。
……それなのに。
私は、この紙袋ひとつで、こんなに悩んでる。
先生は、その後も何人かから声をかけられていた。
「先生~これ!」
「ありがとうな。」
同じやり取りが、何度も繰り返される。
紙袋の取っ手を、ぎゅっと握りしめる。
――今なら、渡せるかもしれない。
そう思ったのに。
さっきの光景が、頭から離れなかった。
あんな風に、軽く渡せればいいのに。
ただ「はい」って渡すだけなのに。
それが、どうしてもできなかった。
足が、前に出なかった。
そのまま、私は先生の居る方向とは逆の方向に歩き出していた。
足は止まらなかった。
さっきまでの光景を取り払うみたいに、少しだけ早足になる。
――渡せなかった。
それだけのことなのに。
胸の奥が、じんわりと痛んだ。
別に、渡さなくてもいいはずなのに。
むしろ、その方が正しいはずなのに。
なのに。
どうして、こんなに苦しいんだろう。
教室に戻って、席に座る。
鞄の中の紙袋には、もう触れなかった。
見てしまったら。
きっと、また迷ってしまう気がしたから。
授業中も、ずっとあの光景が頭の中で繰り返されていた。
悩んで決めたバレンタインチョコも、きっと他の生徒と同じように受け取るんだろうな。
特別な意味なんて、無いって思っちゃうんだろうな。
その日の授業はなにひとつ聞くことが出来なかった。
放課後。
チャイムが鳴って、教室の空気が一気に緩む。
「帰ろ~」とか「どこ行く?」とか。
そんな声が、あちこちから聞こえてくる。
私は、席に座ったまま動けなかった。
――このまま、帰ればいい。
そう思えば、思うほど。
胸の奥が、ざわついた。
鞄の中にある紙袋の存在が、やけに大きく感じる。
見ないようにしていたのに。
もう、無視できなかった。
――渡さないまま終わるの?
頭の中で、誰かの声がした気がした。
私は、小さく息を吸って。
ゆっくりと、鞄に手を入れた。
紺色の袋。
その中には、紺色の小さい箱が入っていた。
もう、逃げられない。
そう、思った。
立ち上がる。
足は少しだけ重かったけど。
それでも、止まらなかった。
教室を出る。
廊下は、昼とは違って静かだった。
遠くから、部活の声が聞こえる。
その中を、私はまっすぐ歩いた。
背中に、何か視線を感じた気がした。
でも、振り返る余裕なんてなかった。
先生のクラスの前に立つ。
昼とは違って、人はほとんどいなかった。
ドアの前で、足が止まる。
先生は、教室の中で環境の整備をしていた。
私の目には、その姿でさえ愛おしく、かっこよく見えた。
ここまで来たのに。
心臓の音が、うるさいくらい響く。
――今なら、まだ引き返せる。
そう思ったのに。
手は、勝手にドアに触れていた。
「……先生。」
声が、少しだけ震えた。
「ん?」
先生が振り返る。
それだけで、胸が締めつけられる。
「これ……」
うまく言葉が出てこない。
昼休みのあの子たちみたいに、軽く渡せばいいのに。
それが、できなかった。
「バレンタインなので……」
やっと、それだけ言えた。
先生は、少し表情が緩んだ顔をして言った。
「お、ありがとう。」
それだけだった。
昼休みに見ていた光景と、何も変わらないはずなのに。
どうしてか。
さっきとは、少しだけ違って感じた。
少しだけ沈黙が落ちる。
――このまま、終わる?
そう思った瞬間。
「……お返し、待ってますね。」
気づけば、そんな言葉が口から出ていた。
「えー。」
先生は少し困ったように笑って、
「わかったわかった。」
軽くそう言った。
そのやり取りに、私も少しだけ笑った。
本当は、そんなつもりで言ったわけじゃないのに。
冗談みたいに聞こえてくれたことに、少しだけ安心した。
その反面、軽く返されたその言葉に。
期待していいのか、分からなくなった。
その場を離れようとしたとき。
ふと、視線を感じた。
顔を上げると、廊下の端に夏華が立っていた。
いつから、そこにいたのか分からない。
目が合う。
夏華は、何も言わずに。
ただ、少しだけ笑った。
私は、何も言えなかった。
そのまま、視線を逸らして歩き出す。
廊下を歩きながら。
さっきのやり取りを、何度も思い返した。
「お、ありがとう。」
「わかったわかった。」
たった、それだけの会話。
それなのに。
胸の奥が、じんわりと温かかった。
……でも。
その温かさは、長くは続かなかった。
きっと先生にとっては。
今日も、いつもの1日で。
その中の、ただのひとつでしかない。
ましては、このあと先生は奥さんという特別な人から貰う可能性だってある。
そう思った瞬間。
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
――それでも。
私は、渡したことを後悔していなかった。
教室に戻ると、さっきと同じように、 賑やかな声が響いていた。
誰かが笑っていて。
誰かがチョコを渡していて。
世界は、何も変わっていなかった。
私は、そっと席に座る。
鞄の中には、もう紙袋は無かった。
そのことに、少しだけ安心して。
そして、少しだけ寂しくなった。
――ホワイトデー、か。
ふと、そんな言葉が頭をよぎる。
さっきの「わかったわかった」を、思い出す。
期待していいのか。
しない方がいいのか。
まだ、分からなかった。




