聖女の力
コンコン、と扉を叩く音で栞は目を覚ました。
「聖女様、失礼いたします」
女性の声とともに扉が開く。
昨夜、部屋を案内してくれた女性だった。
栞はゆっくりと身を起こす。
見知らぬ天蓋。見知らぬ部屋。そして昨夜の出来事を思い出した。
異世界。召喚。聖女。
全部現実だった。
「……最悪」
思わず呟く。
「お加減はいかがですか?」
女性が心配そうに尋ねてきた。
「正直あんまり良くないです」
女性は苦笑した。
「そうですよね」
否定しないあたり好感が持てた。
昨日から出会う人たちは妙に正直だ。
「申し遅れました」
女性は一礼する。
「クラリスと申します。本日より聖女様のお世話係を務めさせていただきます」
「あ、安藤栞です」
「存じております」
そうだろうなと思った。
「よろしくお願いします」
「こちらこそ」
クラリスは柔らかく微笑んだ。
二十代後半ほどだろうか。落ち着いた雰囲気だ。
「お召し物をご用意しております」
そう言ってクラリスが合図を出す。
待機していた侍女たちが部屋へ入ってきた。そして次々とドレスを運び込む。
「……多くないですか?」
栞は思わず言った。
しかも白、白、白。どれも白を基調としている。
刺繍。レース。フリル。
いかにも聖女という雰囲気だった。
「聖女様ですので」
クラリスは当然のように答えた。
栞は内心で少し引いた。
綺麗ではある。綺麗ではあるのだが。
「汚れません?」
思わず本音が出る。
「え?」
「白って絶対汚れますよね?」
クラリスが目を瞬く。
「私たぶん自信あります」
「何のですか?」
「汚す自信です」
一瞬の沈黙。
そしてクラリスが吹き出した。
ドレスを眺めていると、端に一着だけ別の色が見えた。
深い紺色のドレスだった。
装飾も控えめで動きやすそうだ。
「これじゃ駄目ですか?」
栞が手に取る。
クラリスは少し意外そうな顔をした。
「そちらを選ばれるのですか?」
「こっちの方が落ち着きます」
白より絶対こちらの方がいい。
「聖女様のお好みで構いません」
栞は密かに安堵した。
白いフリルだらけの服を着なくて済みそうだった。
その後、侍女たちによる身支度が始まった。
髪を整えられ、薄く化粧を施され、最後に鏡の前へ座らされる。
「できました」
鏡を見た栞は思わず目を瞬いた。
見慣れた自分の顔だ。
肩までの茶色がかった髪。同じ色合いの瞳。
顔そのものは何も変わっていない。
けれど印象が少し違った。
深い紺色のドレスに合わせて、化粧も普段より少しだけ大人っぽく仕上げられている。
全体が綺麗にまとまっていた。
服に合わせて化粧を変えるだけで、こんなに印象が変わるものなのか。
「すごい……」
思わず声が漏れる。
「気に入っていただけましたか?」
クラリスが少し緊張した様子で尋ねる。
「はい。というか、クラリスさん上手ですね」
栞は素直に感心した。
「私だったら絶対こうならないです」
普段は仕事用に最低限整える程度だ。
クラリスはほっとしたように微笑む。
「ありがとうございます」
「朝食の準備が整っております」
案内されたのは隣の食事室だった。
小ぶりだが上品な部屋で、窓際のテーブルに朝食が並んでいる。
焼きたてらしいパン。湯気の立つスープ。果物と卵料理。見慣れない料理も混じっていた。
空腹感はあまりなかったが、匂いは悪くない。
「食べられそうですか?」
クラリスに聞かれ、
「昨日よりは」
と答える。席に着こうとした時だった。
「失礼する」
聞き覚えのある低い声がした。
アシュレイだった。
相変わらず無表情で向かいの席へ座る。
だが、その視線が一瞬だけ止まった。
「何ですか」
栞が首を傾げる。
「いや」
アシュレイはそれ以上何も言わなかった。
相変わらず分かりにくい。
クラリスがお茶を注ぎ、静かに下がる。
栞はスープを一口飲んだ。
温かい。昨夜より味を感じる気がした。
「眠れたか?」
「まぁまぁです」
アシュレイは頷く。
「そうか」
「今日は説明でしたよね」
「ああ」
アシュレイはパンを飲み込むと、丸められた紙を広げた。
地図だった。
「これがアルヴェリア王国だ」
栞は地図を見つめた。
王都を中心に広大な領土が描かれている。
だが、正直よく分からない。
「広いんですか?」
アシュレイは一瞬考えた。
「王都から北端まで馬車で三か月ほどだ」
栞は思わず固まった。
やはり馬車だった。
いや、異世界なのだから当たり前なのかもしれない。
それでも、現実として聞かされると妙に衝撃だった。
「三か月....」
「南端までも同程度だ」
栞は黙った。
「広いですね....」
だが目を引いたのは別だった。
各地に赤い印が描かれている。
「何ですか、これ」
「瘴気核だ」
アシュレイが答える。
「瘴気が発生する中心地点だと思えばいい」
北部、東部、西部、南部。王国中に点在していた。
「全部行くんですか?」
「そうだ」
栞はしばらく黙った。
そして率直な感想を口にする。
「帰れないじゃないですか」
アシュレイは否定しなかった。
「通常の聖女なら数年はかかる」
「数年!?」
思わず声が裏返る。
「無理です」
「だが今回は分からん」
「どういう意味ですか」
「まずお前の能力を測る」
アシュレイは地図を丸めた。
「話はその後だ」
その後、王立魔術研究院というところに案内された。
出迎えたのは昨日、言葉をわかるようにしてくれた白髪の老人だった。
たしか王立魔術研究院の院長。
「お待ちしておりましたぞ、聖女様」
「本日は適性と魔力量の測定を行います」
研究室の中央には巨大な透明水晶が置かれていた。
「こちらへ手を」
言われるまま栞は手を伸ばす。
水晶へ触れた。
次の瞬間。
眩い光が弾けた。
「えっ」
研究室全体が白く染まる。
「なっ……!」
「これは……!」
研究員たちがざわめく。
光はさらに強くなっていく。
そして。
ピシッ。
嫌な音が響いた。
「え?」
水晶にひびが走る。
さらに。
ピシッ。
ピシッ。
次々と亀裂が増えていく。
「離れてください!」
直後。
バキンッ!!
巨大な水晶が真っ二つに割れた。
研究室が静まり返る。
栞は恐る恐る口を開いた。
「私、何かやりました?」
研究員たちが顔を見合わせる。
アルフレッドは額を押さえた。
「前代未聞ですな……」
「そんなにですか」
「そんなにです」
即答だった。
アシュレイが尋ねる。
「つまり」
アルフレッドは真剣な顔で答える。
「測定限界を超えておりますな」
研究室がざわつく。
栞にはよく分からない。
だが、とんでもない結果らしい。
「それって」
全員の視線が集まる。
「早く終わります?」
「は?」
「浄化です」
栞は真顔だった。
「帰りたいので」
数秒の沈黙。
やがてアルフレッドが咳払いする。
「理論上は可能ですな」
栞の目が輝く。
「本当ですか」
「ただし」
次の言葉で表情が曇った。
「使いこなせれば、です」
「……はい?」
「魔力量は規格外です」
割れた水晶を見ながらアルフレッドは続ける。
「ですが術式知識はゼロ」
「それはそうですね」
「今の聖女様は、大海の水を小さな器で掬っているような状態です」
まったく分からない。
するとアシュレイが補足する。
「力はある」
「はい」
「使えない」
「分かりました」
とても分かりやすい。
「どれくらい訓練すればいいんですか」
「最低一か月」
アルフレッドが答えた。
「結界術、浄化術、治癒術の基礎を習得していただきます」
「一か月……」
長い。
だが数年よりはずっとましだった。
「その後は?」
栞は顔を上げる。
アシュレイが地図を指した。
「各地の瘴気核を浄化する」
「全部ですか」
「全部だ」
広大な王国。
長い旅になるだろう。
それでも終わりが見えないわけではない。
「頑張ります」
研究員たちが驚いた顔をした。
栞は真っ直ぐ前を向く。
世界を救いたいわけではない。英雄になりたいわけでもない。
ただ帰りたいだけだ。
守の元へ。
自分の人生へ。
「一年で終わらせます」
その言葉に、初めてアシュレイがわずかに目を細めた。
それはほんの一瞬だったが、確かに笑ったように見えた。




