本当に異世界なのか
講堂での説明が終わると、栞は王城の一室へ案内された。
広い部屋だった。
天蓋付きのベッドに、磨き上げられた家具。窓際にはソファと小さなテーブルまで置かれている。
高級ホテルのスイートルームと言われても納得できる部屋だ。
けれど栞は感心する気になれなかった。
案内してくれたおそらく侍女である女性が退室すると、部屋には静寂だけが残る。
栞は窓辺へ歩み寄った。
窓の向こうには夜の街が広がっていた。
石造りの建物。
遠くまで続く城壁。
街のあちこちに揺れる灯火。
見慣れた高層ビルもなければ、ネオンサインもない。
どこか外国の古い街並みのようにも見える。
「嘘でしょ……」
思わず呟く。
講堂だけなら豪華なセットかもしれないと思えた。
何らかのドッキリ企画。
そう考えようと思えば考えられた。
だが、この景色は違う。
あまりにも現実的だった。
本当に異世界なのだろうか。
そんな考えが頭をよぎる。
ネット小説や漫画で見たことはある。
聖女召喚。異世界転移。
何となく読んだこともあった。
けれど、それは物語だから面白いのだ。
少なくとも自分には関係のない話だった。
栞は一度も異世界へ行きたいと思ったことなんてない。
窓から離れ、バッグを開いた。
スマートフォンを取り出す。
画面の右上には圏外の表示。
「はぁ……」
ため息が漏れた。最初から分かっていた。それでも何となく期待していた。
再起動してみる。変わらない。
窓際へ移動してみる。やはり変わらない。
思わず乾いた笑いが漏れた。
もし本当に異世界なら当たり前だ。
電波が届くはずがない。
震える指でトークアプリを開く。
守とのやり取りが表示された。
『おやすみ』
数時間前に届いたメッセージだった。
何の変哲もない言葉。
付き合い始めた頃から、ほとんど毎日のように送り合ってきた言葉。
また明日。
そんな当たり前を前提とした一言だった。
画面を見つめているだけで胸が痛くなる。
異世界に召喚された主人公なら、こういう時どうするのだろう。
そんな馬鹿なことを考えた。
考えていないと泣きそうだった。
物語の主人公たちは案外すぐ順応していた気がする。
けれど自分には無理だ。
守に会いたかった。
ただそれだけだった。
「帰りたい……」
小さく呟いた時だった。
扉を叩く音が響く。
「どうぞ」
返事をすると扉が開いた。
入ってきたのは黒髪の青年だった。
たしか第二王子だったか。
講堂で見た時と同じ無表情。
近くで見ると整った顔立ちなのに、やはり少し怖い。
赤い瞳が真っ直ぐこちらを見ていた。
「体調はどうだ」
開口一番それだった。
「最悪です」
栞は即答した。
アシュレイは小さく頷く。
「そうか」
「そうかじゃないです」
思わず言い返した。
「いきなり知らない場所に連れて来られたんですよ」
「理解している」
「じゃあ帰してください」
「できない」
即答だった。
あまりにも迷いがない。
栞は思わず額を押さえた。
「あなたは納得してるんですか」
アシュレイが眉を動かした。
「何をだ」
「知らない人を勝手に連れてくることです」
一瞬の沈黙。
「納得はしていない」
予想外の答えだった。
栞は顔を上げる。
「だが必要だった」
「誘拐なのに?」
「そうだ」
真顔で答えられる。
あまりにも正直すぎて力が抜けた。
「正直すぎません?」
「嘘を言う意味がない」
淡々とした口調だった。
綺麗事を言われるよりはましだった。
少なくとも、この男は誤魔化さない。
「国王の約束は本当だ」
アシュレイが言う。
「浄化が終われば帰還できる」
「信じられません」
「だろうな」
否定しない。
「俺でも信じない」
思わず吹き出しそうになった。
「王子が言っていいんですか、それ」
「事実だ」
少しだけ肩の力が抜ける。
怖い人だと思っていた。
だが、悪い人には見えなかった。
「来年結婚する予定だったのか」
ふいにアシュレイが尋ねた。
栞は言葉に詰まる。
「……はい」
「婚約者か」
「六年付き合ってました」
守の顔が浮かんだ。
ウェディングドレス。
新居。
来年の五月。
全部、もう目の前だったのに。
「そうか」
アシュレイはそれ以上何も言わなかった。
慰めも同情もない。
けれど、その方がありがたかった。
今はどんな励ましも信じられる気がしなかったから。
しばらく沈黙が落ちる。
先に口を開いたのはアシュレイだった。
「本当なら今日のうちに説明するべきなんだろうが」
栞は顔を上げた。
「今日はもう遅い」
窓の外へ視線を向ける。
確かに夜も更け始めていた。
「説明しなければならないことは多い」
瘴気。
聖女。
浄化。
聞かなければならないことも山ほどある。
「だが今のお前に全部話しても頭に入らないだろう」
反論できなかった。実際、その通りだったからだ。
「明日、改めて説明する」
そして付け加える。
「今日は休め」
栞は苦笑した。
「休めると思います?」
「思わない」
即答だった。
「だがお前が倒れても困る」
それだけ言って扉へ向かう。
途中で足を止めた。
「安藤栞」
初めて名前を呼ばれる。
「……何ですか」
「今夜は何も考えるな」
赤い瞳が真っ直ぐこちらを見る。
「無理だろうが、それでも寝ろ」
それだけ言い残し、アシュレイは部屋を出ていった。
扉が閉まる。
再び静寂が戻った。
しばらくすると先ほど部屋を案内してくれた女性が軽食を運んできた。
温かなスープとパン。
見慣れない野菜を使った料理も並んでいる。
空腹だったはずなのに、ほとんど喉を通らなかった。
それでもスープを少しだけ飲む。
温かさが胃に落ちると、不思議と涙が出そうになった。
食事の後は浴室へ案内された。
広い浴槽に張られた湯は驚くほど温かかった。
肩まで浸かる。ようやく一人になれた気がした。
静かな浴室の中で、初めて涙が零れた。
帰りたい。守に会いたい。
その気持ちだけが胸の中を埋め尽くしていた。
部屋へ戻り、用意されていた寝間着に着替える。
そしてベッドへ腰を下ろした。
柔らかな寝具が沈む。
広い部屋。
見知らぬ世界。
スマートフォンは圏外のまま。
守からの『おやすみ』にも返事は送れない。
本当に異世界なのか。
まだ信じられなかった。
けれど。
否定できる材料も、もう残っていなかった。
遠くで鐘の音が鳴る。
知らない世界の夜だった。




