誘拐ですけど
眩い光が視界を埋め尽くした。足元の感覚が消える。
身体が浮くような、落ちるような、不快な浮遊感。息が詰まり、思わず目を閉じた。
そして次の瞬間。
硬い石の床に膝をついていた。
どさり、とバッグが落ちる音が響く。
栞は顔を上げた。自宅の玄関はどこにもない。
代わりにあったのは巨大な講堂だった。
高い天井。
何本もの白い柱。
足元には複雑な紋様を描いた巨大な魔法陣。
どう見ても普通ではない。
周囲には大勢の人間がいた。
ローブ姿の老人たち。
鎧を着た騎士たち。
全員が魔法陣の中心にいる栞を見ていた。
一瞬の静寂。
その直後だった。
「□□□□□□!」
「□□□□□□□□!」
「□□□□!」
講堂が歓声に包まれた。
何を言っているのか分からない。
聞いたことのない言語だ。
だが喜んでいることだけは伝わってくる。
ぞっとした。知らない場所で、知らない人間たちに囲まれている。
しかも、なぜか全員が自分を見て喜んでいる。
「な、何なんですか……」
栞が一歩後ろへ下がると、歓声は徐々に収まった。
代わりに何十もの視線が突き刺さる。
やがて白髪の老人が前へ進み出る。
豪華なローブを纏い、長い杖を持った人物だった。
老人は栞へ何かを話しかける。
もちろん意味は分からない。
「すみません! 日本語分かりますか!?」
老人は困ったように眉を下げると、杖を掲げた。
杖の先が青白く光る。
耳の奥がじんと痺れた。
「これで聞こえますかな」
突然、言葉の意味が理解できた。
「え?」
「おお、成功しましたな」
周囲のざわめきも聞き取れる。
意味不明だった言葉が、なぜか普通に理解できていた。
「今、何したんですか」
「翻訳術式です」
「翻訳……」
「言語を共有する魔術ですな」
さらりと言われた。
「魔術?」
思わず聞き返す。ゲームじゃないんだから。
「いや、意味分かんないんですけど」
「ここ、どこですか?」
栞が尋ねると、老人は講堂の奥へ視線を向けた。
つられて栞も顔を上げる。
講堂の最奥には高い壇上があった。
中央には玉座。そこに年配の男性が座っている。
その両脇には二人の青年。
一人は金髪碧眼だった。柔らかな笑みを浮かべたいかにも王子様という雰囲気で、思わず安心感を覚える。
対してもう一人。黒髪に赤い瞳。整った顔立ちをしているのに近寄り難い。
無表情だからだろうか。
視線が合った瞬間、妙な威圧感を覚えた。
「ご紹介いたしましょう」
老人が恭しく一礼する。
「私は王立魔術研究院長、アルフレッド・ノイスと申します」
「安藤栞です」
反射的に名乗り返してから言った。
「だから、ここどこなんですか?」
空気を読む余裕はなかった。すると玉座の男性がゆっくり立ち上がる。
講堂中の人々が頭を下げた。
「ようこそ、聖女殿」
重々しい声が響く。
「余はアルヴェリア王国国王、アルフォンス・ルーベルトである」
嫌な予感しかしなかった。
「我が国は瘴気という災厄に苦しんでいる」
国王の声が講堂に響く。
「我々は召喚の儀を執り行い、そなたをこの世界へ招いた」
栞は固まった。
「……は?」
思わず声が漏れた。
「いや、何で?」
頭が追いつかない。
「何で私なんですか?」
守の顔が浮かぶ。ウェディングドレス。新居。来年の結婚式。
「無理です」
反射的に首を振った。
「仕事もあるし。来年結婚するんです」
声が少し大きくなる。
講堂は静まり返っていた。
胸が苦しくなる。
「いきなり知らない場所に連れて来られて、納得できるわけないじゃないですか」
誰も反論しない。
できないのだろう。
「何なんですか、これ」
栞は唇を噛んだ。
「誘拐ですけど」
沈黙が落ちた。
やがて国王が重く息を吐く。
「……その通りだ」
意外な言葉だった。
「だが我々は滅びの瀬戸際にある」
国王の目は真っ直ぐだった。
「聖女の力なくして、この国は救えぬ」
それでも栞は納得できなかった。
「自分たちの国のことですよね」
思わず声が強くなる。
「だったら自分たちで何とかしてください」
胸が苦しい。
怒りと恐怖で震えながら続ける。
「私は帰りたいんです」
それだけだった。
しかし国王は首を横に振る。
「それはできぬ」
胸の奥が冷えた。
「約束しよう。瘴気の浄化が果たされた暁には、必ず元の世界へ帰還させる」
帰還。
その言葉に栞は顔を上げた。
「……本当に?」
「王の名に誓う」
国王はそう言った。
だが栞は信じていなかった。信じられるはずがなかった。
魔術だの。瘴気だの。聖女だの。
いきなりそんな話をされて、受け入れられる人間がいるのだろうか。
少なくとも自分には無理だった。
「そして」
国王が視線を横へ向ける。
「聖女殿の護衛ならびに補佐役として、第二王子アシュレイ・ルーベルトを任命する」
黒髪の青年が一歩前へ出た。
近くで見ると驚くほど整った顔立ちだった。
だがやはり怖い。
柔和なもう一人とは正反対だ。
「アシュレイ・ルーベルトだ」
低い声が響く。
「これからお前を支援する」
短い言葉だった。愛想もない。
だが不思議と嘘も言わなそうだった。
栞はその赤い瞳を見上げる。
ただ帰りたい。今はそれだけだった。
そしてその願いが、思っていたより遥かに遠いものになることを、この時の栞はまだ知らなかった。




