最初の瘴気核
王都を出発して三日後、一行は目的地周辺へと到着していた。
街道を外れてからというもの、周囲の景色は徐々にその様相を変えていた。
最初は木々の勢いが失われている程度だった。
しかし先へ進むにつれて、その異変は誰の目にも明らかなものとなる。
葉は黒ずみ、枝は痩せ細り、地面には黒褐色の染みが広がっていた。
まるで大地そのものが病に侵されているかのようだった。
栞は無意識のうちに胸元へ手を当てた。
実地訓練で感じたものと同じ不快感だが、濃さが違う。
あの時は瘴気を感じたが、今は瘴気の中を歩いているような感覚だった。
今回の遠征は実地訓練とは体制そのものが異なっていた。
対象は瘴気汚染ではなく瘴気核。
王国にとっても研究院にとっても極めて重要な案件である。
そのためアルフレッドも現地へ同行していた。もっとも前線へ出るわけではない。
数名の護衛騎士を伴い、少し後方から状況を見守っている。
◇◇◇
先頭を進んでいた騎士が手を上げた。
一行が足を止める。
警戒。
その二文字が形を持ったような緊張感だった。
騎士たちの視線は森の奥へ向いている。
アシュレイも剣の柄へ手を掛けていた。
栞は息を潜める。
不意に木々の隙間で何かが動いた。
一瞬だったが、見間違いではない。
巨大な影だった。実地訓練で見た低級魔獣など子供に思えるほど大きい。
異様な圧迫感があった。
「追跡は不要だ」
アシュレイが低く命じる。
騎士たちは即座に従った。
それだけ危険な相手なのだろう。
「今のは」
栞が問い掛けると、アルフレッドが静かに答えた。
「恐らく中位種ですな」
穏やかな口調だったが内容は穏やかではない。
実地訓練で遭遇した低級魔獣とは格が違う存在である。
「瘴気核の周辺では珍しくありません」
アルフレッドは淡々と続ける。
「むしろ瘴気核が存在するからこそ、ああした魔獣が引き寄せられるのです」
栞は無意識に唇を引き結んだ。
視線は消えたが、気配までは消えていない。
どこかでこちらを窺っているような感覚が拭えなかった。
◇◇◇
さらに奥へ進んだ先で、森は完全に死んでいた。
黒く変色した幹、ひび割れた地面、生命の痕跡すら残っていない空間。
虫の声も鳥の囀りも聞こえない。不自然な静寂だけが広がっていた。
そしてその中心に、それはあった。
巨大な黒い結晶。
人の背丈を遥かに超える異形の塊だった。
表面には無数の亀裂が走り、その隙間から黒い靄が絶えず漏れ出している。
栞は言葉を失った。
王国各地を蝕み続ける元凶で、自分が浄化しなければならない存在が目の前にあった。
「これが瘴気核です」
アルフレッドが静かに言う。
「想像していたものとは違いますかな」
「もっと……ただの石のようなものかと思っていました」
アルフレッドは小さく頷き、瘴気核へ視線を向ける。
「ですが、これは単なる石ではありません」
その声にはわずかな緊張が混じっていた。
「瘴気を生み出し続ける災害そのものです」
栞は黒い結晶を見つめた。見ているだけで胸の奥がざわつく。
まるで何か生き物を前にしているような感覚があった。
「周辺の魔獣も、この瘴気核が原因なんですか」
アルフレッドは頷く。
「瘴気に惹かれて集まるものもおります」
そこで言葉を切る。
「ですが、それだけではありません」
栞は眉をひそめた。
「どういうことですか?」
「魔獣は瘴気核から生み出される場合もあります」
一瞬意味が分からなかった。
「生み出される?」
「ええ」
老人の表情は真剣だった。
「瘴気が凝縮され、形を得るのです」
栞は思わず瘴気核を見上げる。黒い靄は今も絶えず湧き出ている。
「だから瘴気核を放置できないのですよ」
アルフレッドは静かに続けた。
「土地を蝕むだけではありません」
「魔獣まで……」
「増やし続けます」
周囲へ展開していた騎士たちの表情が引き締まる。
誰一人として気を緩めていない。
アシュレイもまた瘴気核から目を離していなかった。
「行けるか」
短い問いだった。
栞は大きく息を吸う。怖くないわけではないが逃げたいとも思わなかった。
「はい」
迷いなく答える。
「やれます」
アシュレイは静かに頷いた。
「俺たちが守る」
その言葉だけで十分だった。
栞は瘴気核の前へ進み出る。
ゆっくりと目を閉じた。
本来あるべき姿から歪められたものを元へ戻す。
意識を集中させる。白い光が指先へ集まり始めた。
その瞬間だった。
瘴気核の表面に走る亀裂が、不気味な音を立てて広がる。
騎士たちの間に緊張が走った。
「殿下!」
一人の騎士が叫ぶ。
黒い靄が瘴気核の根元から溢れ出していた。
それは地面を這うように広がり、徐々に一つの形を成していく。
獣だった。だが普通の獣ではない。
巨大な体躯。赤黒く光る眼。凝縮された瘴気そのものによって形作られたような異形。
その姿が完全に現れた瞬間、森全体が震えるような咆哮が響き渡った。
「中位種だ!」
騎士の声が飛ぶ。
アシュレイは即座に剣を抜いた。
「総員戦闘準備!」
鋭い号令が森に響く。だが栞は目を開かなかった。
ここで止まれば同じことになる。
自分の役割は戦うことではない。
浄化することだ。
白い光はさらに強さを増していく。
中位種の咆哮が響く中、最初の瘴気核浄化が始まった。




