第9話「残された部屋の祈りと戦いの足音」
広大な広間の大扉が重い音を立てて閉じられた後も、鉄の匂いを含んだ冷たい空気の残滓がしばらくの間その場に漂い続けている。
リリアは二階の回廊の影から、誰もいなくなった床の絨毯をじっと見つめていた。
先刻までそこにあった父親の大きな背中や、兄たちの引き締まった横顔の残像が、まぶたの裏に焼き付いて離れない。
彼女の小さな指先は、手すりの硬い木肌を白くなるほど強く握りしめている。
室内の暖炉では香木が赤くはぜているが、その温もりさえ今の彼女の肌には届かない。
喉の奥が、乾いた砂を飲み込んだかのようにひりつく。
背後から、衣擦れの柔らかな音が静かに近づいてきた。
振り返ると、エレノアがいつもと変わらない穏やかな微笑みをたたえて立っていた。
しかしその美しい瞳の奥には、隠しきれないかすかな揺らめきが灯っている。
エレノアはゆっくりと歩み寄ると、リリアの小さな肩を包み込むようにしてその体を抱き寄せた。
日向のような甘い花の香りが鼻腔を満たし、リリアの張り詰めていた呼吸がわずかに緩む。
「大丈夫よ、リリア」
エレノアの声は、嵐の中の灯火のように静かで確かだった。
「あの人はこの北の地を誰よりも知っているわ。ルカもレオも、お父様の背中を見て育った強い騎士なのですから」
エレノアはリリアの銀色の髪を、指先で優しく何度も梳き下ろした。
その手のひらから伝わるかすかな震えを、リリアは確かに感じ取っている。
誰もが不安と戦っている。
大切な人を守るために、それぞれが自分の場所で耐えているのだと彼女は悟った。
リリアはこくりと頷き、エレノアの胸元にそっと頭を預ける。
『誰も、いなくならないで』
胸の奥に生まれた切実な願いが、言葉にならない熱となって肺を押し上げる。
そのとき、部屋の隅の暗がりから、ちかちかと小さな光の粒が湧き出し始めた。
銀色や薄緑色の精霊たちが、彼女の心の動揺に呼応するように、不規則な軌跡を描きながら宙を舞う。
だが、その光の明滅はいつもと違っていた。
まるで遠くの地鳴りを警戒する小鳥のように、鋭く激しく瞬いている。
精霊たちはリリアの耳元へと集まり、冷たい大気の震えを伝えるように微細な空気の波紋を送り込んでくる。
はるか北の平原から、不気味な黒い魔力のうねりが地脈を伝って屋敷へと押し寄せていた。
リリアの紫色の瞳が、窓の外のどこまでも続く白い雪原の彼方へと向けられる。
窓硝子の向こうでは、吹きすさぶ風が雪の粉を乱暴に巻き上げ、世界の境界線を曖昧にぼかしている。
彼女はその場から動くことができず、ただ遠く離れていく家族の無事を祈るしかなかった。
エレノアはリリアの手をそっと引き、暖炉に最も近い長い椅子へと彼女を座らせた。
「体を冷やしてはいけないわ。あたたかいお茶を持ってこさせましょう」
エレノアは優しく微笑みながら呼び鈴を鳴らし、使用人に指示を与えた。
やがて運ばれてきた磁器の杯からは、香ばしい薬草茶の湯気がゆるやかに立ち上っている。
リリアは両手でその器を包み込み、じんわりと伝わる熱を手のひらへと吸い込ませる。
一口すすると、かすかな苦味の後に優しい甘さが喉を通り抜け、強張っていた体の緊張を少しだけ解きほぐしていった。
そこへ、年配の執事であるハンスが足音を極力抑えながら部屋へと入ってくる。
彼の張り詰めた表情を見たエレノアの指先が、ドレスの裾を強く握りしめた。
ハンスは深く頭を下げ、声を潜めて前線からの第一報を告げる。
「奥様、斥候からの伝令によれば、魔獣の群れの規模は事前の予測を大幅に上回っているとのことです。北側の第二結界が完全に引き裂かれ、前衛部隊がすでに交戦を開始いたしました」
その報告を耳にした瞬間、リリアの胸が万力で締め付けられたように激しく痛む。
額からは冷や汗がにじみ出て、せっかく温まりかけていた手足が再び氷のように冷えていった。
精霊たちは彼女の周囲で小さな風を巻き起こし、遠くの戦場で渦巻く邪悪な魔力の波動を肌へと直接伝えてくる。
激しい動悸がリリアの小さな身体を打ち据え、視界がかすむほどの恐怖が襲いかかった。
エレノアはハンスに向けて小さく頷き、毅然とした態度で指示を与え始める。
「分かりました。階下の治療所の準備を急がせてください。私もすぐに向かいます」
エレノアはリリアの方を振り返り、その両手を優しく包み込んで力強く微笑んでみせる。
「リリア、あなたはこの部屋で良い子で待っていなさいね。決して外に出てはいけませんよ」
その言葉を残して、エレノアはハンスと共に慌ただしく部屋を後にした。
◆ ◆ ◆
激しい風が地表の雪を刃のように巻き上げる北側の平原。
ヴォルフガング率いる軍勢は凍りついた大地を踏みしめ、魔の気配が濃くなる境界線へと到達していた。
馬たちの荒い吐息が、白い霧となって大気の中に吸い込まれていく。
甲冑の金属が擦れ合う冷徹な音が、静寂の雪原に鋭い緊張感を刻んでいる。
ヴォルフガングは愛馬の手綱を握り締め、正面の針葉樹林の奥を見据えた。
彼の青い瞳は戦場の冷酷な空気をはらみ、氷のように鋭く研ぎ澄まされている。
「来るぞ」
その重々しい一言が、並び立つ騎士たちの背筋を正させる。
林の奥から、白銀の世界を黒く塗りつぶすような影がうねりながら這い出してきた。
それは通常の獣をはるかにしのぐ巨体を持った、上位の魔獣たちだった。
その皮膚は硬い氷の鱗で覆われ、歩を進めるたびに周囲の雪が黒く濁っていく。
異形の頭部には、不気味に発光する三つの眼球が不規則に揺らめいている。
魔獣の口から吐き出される腐臭を含んだ息が、冷たい大気を汚染していく。
「前衛、盾を構えよ。奴らの突進をここで食い止める」
ヴォルフガングの指揮の声が、地鳴りのように響き渡る。
彼の傍らでは、ルカが長剣の柄を両手で固く握り締め、正面の敵を睨みつけている。
少年の顔からはいつもの無邪気な笑顔が消え去り、辺境の騎士としての厳しい覚悟が宿っていた。
その反対側では、レオが短刀のバランスを指先で確かめながら、魔獣の動きを冷静に観察している。
少年の藍色の瞳は、冷徹に敵の隙を探り出そうと細かく動いていた。
大気が一瞬、凍りついたように静まり返る。
次の瞬間、上位魔獣の巨体が雪原を爆発させるような勢いで突進を開始した。
大地が激しく揺れ、氷の破片が四方へと飛び散る。
雪を蹴り立てる轟音が、騎士たちの骨の髄まで直接響き渡った。
「突撃!」
ヴォルフガングの大剣が鞘から引き抜かれ、冬の太陽の光を浴びて冷たくきらめく。
騎士たちの放った鉄の波が、黒い魔の群れへと真っ向から衝突していった。
刃が硬い氷の鱗に弾かれ、激しい摩擦の熱が火花となって散る。
戦場の至るところで、命と魔の激しいせめぎ合いの火蓋が切られた。
ルカの放った一撃が魔獣の脚部を捉え、重い鋼の剣が異形の皮膚に食い込んでいく。
肉を断つ際の骨に響く重い抵抗感が、少年の両腕に確かな手応えとして伝わる。
レオは影のように素早く動き、魔獣の目の隙間を狙って短刀を突き出した。
しかし魔獣の口から吐き出された凍結のブレスが激しい風となって襲いかかり、少年の短刀を一瞬で白く凍りつかせる。
レオは間一髪で体を反転させ、鋭い爪の軌道から身を退いた。
右翼の防衛線では、魔獣の巨大な尾の強烈な一振りが炸裂し、数人の騎士が防具ごと後方へと吹き飛ばされた。
雪原の上に重たい肉体が叩きつけられ、鮮血が白い地面を赤く汚していく。
ヴォルフガングは最前線で大剣を縦横無尽に振り抜き、群がる魔獣の首を次々と切り落としていく。
しかし異形の群れは次から次へと林の奥から湧き出してきた。
その数は、事前の報告をはるかに超えている。
魔獣たちの放つ邪悪な魔気が、周囲の気温をさらに引き下げていく。
防具の隙間から入り込む冷気が、騎士たちの体力を確実に削り始めていた。
ルカは荒い呼吸を繰り返しながら、次なる獲物へと視線を定める。
「まだまだ、これくらいでへこたれるか!」
少年は自らを鼓舞するように叫び、再び地面を蹴って前方へと飛び出した。
レオは兄の背中を視界の端に捉えながら、その死角を補うように素早く位置を変える。
双子の息の合った連携が、押し寄せる魔獣の勢いをかろうじて押し留めていた。
ヴォルフガングは周囲の状況を鋭く見極めながら、大剣を血の混じった雪原へと突き立てる。
彼の頑強な肉体にも、魔獣の鋭い爪がかすめた跡がいくつかの赤い染みを作っていた。
しかしヴォルフガングの闘志は衰えるどころか、深く静かな怒りとなって瞳の奥で燃え盛っている。
「この地を一歩も通すな。我が領民の未来がここにかかっている!」
彼の咆哮が戦場に響き渡り、疲弊しかけていた騎士たちの心に再び火を灯した。
それでも上位の魔獣たちの連携は執拗であり、一塊の巨大な闇となって騎士たちを包み込もうとしている。
上空を覆う鉛色の雲からは、さらに大粒の雪が容赦なく降り注ぎ始めた。
白と黒が激しく交錯する平原は、血と泥、そして氷が混じり合う死地へと変貌していく。




