第7話「癒しの手のひらと隠しとめる誓いの熱」
雪を大きく払い除けてならされた広い敷地の中で、冷たい空気を幾重にも切り裂いていく刃筋の交差がひっきりなしに行われている。
荒い呼気が真っ白な水蒸気へ形を変え、訓練のために甲冑を身に着けた騎士たちの太い腕の筋肉を通して発せられる力強い踏み込みが、冬の固まった大地を強く揺らし続けていた。
真剣を使わぬ打ち合いでありながらも、硬く重い分厚い木剣の腹が互いの防具に叩きつけられるたび、その重厚な摩擦の音と骨に迫るような衝撃の波が遠く離れた場所へまで容赦なく伝播してくる。
少し離れたところにある屋根付きの回廊から、リリアはたっぷりと空気の層を含んだあたたかい白の外出着の裾を自らの両手で軽く握りしめながら、その荒々しくも生命力に満ちあふれた光景へと紫色の瞳を向けてやまない。
つい先日までなら恐ろしい怒号の飛び交う暴力の場と錯覚してうずくまっていたはずの彼女だったが、いまでは彼らの剣の下に横たわるものが領地と生活を守るための揺るぎない訓練の一環であると教えられて少しの手探りとともに理解を進めていた。
彼女のすぐ真横にはもちろんエレノア……ではなく、十歳の双子の兄弟であるルカとレオがいかなる飛来物からも即座にかばえるようにと防寒具に身を包んだまま左右の立ち位置をしっかりと固めている。
兵たちの間を飛び交う熱量の高さに当てられるように、彼女の被った真新しい毛糸の帽子のふくらみのあたりには、相変わらず無数の小さな精霊たちが銀色や薄緑色の光の粒として群生しゆるやかな円軌道を描きたたえている。
彼らはリリアが危険にさらされていないという安心の状態においてのみ形を成し、氷の張った外気にまったく似つかわしくない春のようなかすかな生あたたかい温度で少女の周囲を柔らかく包み込んでみせた。
その時、訓練生の一人が雪の混じったぬかるんだ足場にわずかに靴底の革を取らせてしまい、受け流すつもりの木剣の軌道を見誤って派手なすり抜けを引き起こしてしまうのが視界の端へ飛び込む。
横手から打ち込まれた強烈な反発の力が若き騎士の上腕の肉をひねり、そのまま鋭いささくれの残った柄頭が彼の頬の高い位置を浅くなくえぐり取るように削って通過する無骨な軌道が見てとれた。
熱中から抜け出た周囲の怒号にも似た静観のなか、膝を雪の上に預けた青年が自身の顔の側面を手甲の裏で押さえ、指の隙間からどす黒く濃い血の色が雪面へ向かってぽたぽたと重い重力に従って赤いしずくを作る。
深刻なほどの命の危機では断じてないかすり傷の部類であったが、リリアの胸の奥底には他者が血を流し痛みによって硬直していくことへの耐えがたいほどの悲哀の共感が呼び覚まされてしまう。
孤児院での日々のなかで切り傷や打撲によって自らの皮膚へ熱と酷使を重ねる痛みに震えた何晩もの記憶が痛覚の錯覚を彼女の皮膚へとおくりこむのを止められない。
いつのまにか彼女は隣で立ち止まる兄両名の制止の手をすり抜け、膝下まである分厚い雪を靴先で無我夢中のまま砕きのけて負傷した青年のすぐ目前まで小さな足を進めてみせていた。
危ないから下がってという年重の騎士の引きとめる言葉は発せられたものの、リリアの歩く周囲の空気がすでに命の圧力を帯びて発光し始めているのを感じとって全員の動きが停止する。
彼女は冷たい空気を一気に吸い込み喉の奥深い部分でゴクリと飲み込むと、負傷した騎士の顔へとそっと自分の両手を何もためらうことなく重ね向ける。
傷を押さえていた泥まじりの手背のさらにその上から、信じられないほどに小さな白い手のひらが静かにおろされた。
『痛いの、やめて』
ほんのわずかに震えのある微細な声量が空のどこかへと向けられると、彼女の肩口のまわりを漂っていた数百にものぼる光の粒子たちが待ちわびた喜悦の意思をもつかのように青年を取り囲んで激しく旋回をはじめあがる。
雪のにおいが完全に消え失せ、森の中で咲く甘い花の蜜のような芳醇な匂いが立ち昇ると同時に、強烈な温かみをともなった銀色と白の交じり合う奔流がリリアの両手を媒介にして溢れ下りていく。
青年騎士は思わず傷口を押さえていた手を離すが、その視界に映ったものは深く削れて剥けていた自らの頬の肉が一瞬のうちに内部から淡い光を放ち、盛り上がって古い表面を押し返すように縫い合わされていく摩訶不思議な光景であった。
それは人間の持つ緩やかな治癒力を数万倍にも短縮したかのような美しい時間の圧縮であり、後に残ったのは傷跡すらすこしの差異を持たずにつるりとした肌理をさらす元の皮膚そのもの以外なにひとつなかったのである。
青年ばかりでなく、それを取り囲むすべての屈強な騎士たちの呼吸が無情にも切り取られ、剣を持つ手たちが震えるのを静かな目撃の一致が支配するばかりだ。
「これはいったい……昔話にある通りではないのか。傷を触れずにして完治させる、本物の『聖女』の御力……」
誰かの乾いた唇から漏れ出た擦れたようなつぶやきが風に乗って消えるよりも早く、屋敷の入り口の高い渡り廊下からその全てを瞬きすら忘れて直視していた大きな男の影がゆっくりと動き出す。
辺境伯ヴォルフガングは背にひるがえった長大な防寒用の毛皮のマントの重さなど全く気にする素振りもなく、二段三段と石の階段を無関係に飛び越えて雪面へとその重い軍靴を押し当てた。
彼が真っ黒な瞳に微細な不安の炎を燃やしながら進むその大股の歩みに気圧され、騎士たちはモーゼの奇跡のごとくただちに左右へ道を明け渡してしまう。
彼は膝をついたまま自分の手の中で力なく光の余韻を散らしているリリアの背中のすぐ前で静かに歩みを止めると、誰に聞かせるでもなく深いため息と決断の混じり合った太くかさついた吐息を漏らす。
「やりすぎだと言った記憶もないがな」
彼はそう短く独り言をこぼしてから、巨大で分厚い手袋を取り去った素手を使って少女の両脇から優しくも決して逃すことのない強固な力でもってその体を掬い上げ抱き込ませた。
驚きで目を丸くして彼の手首に指をかけるリリアごと自分の広い胸もとに寄せ終わると、今度は一切の妥協のない鋭利に冷え切った凄絶な軍人の目尻を作り直して周囲の騎士たちの一同を厳しき視線でもって巡らせる。
「今日、ここで今の奇跡を目にした者はこの領地に属する忠義を誓う家臣のみだと信じる。我らがこの娘に受けた光と癒やしを、ただの一粒たりとも権力に目の眩んだ都の教会教皇どもからなる外の耳へ届けるわけにはいかない」
彼の重く太い低音は、ただ一つの事実をもって周囲へ絶対の服従を促す威力を放つ。
そこにいる誰の足をも、雪面により深く固定させてしまうほどの重みを含んでいた。
中央の欲深い権力者たちがもし無際限に近いこの癒やしの能力の芽を見つけたならば、間違いなく正当な理由をつけて一人の人間としてではなく国が管理する呪いのような生ける医療器具として彼女を鎖に繋ぐことは火を見るよりも明らかであったのだ。
「これは私の家族であり、誇り高き辺境領の宝でもある。この子の未来と日々の温もりをどんな思惑からであっても奪われることだけは金輪際あり得ないことだと、お前達の胸の内部で血をもって誓え」
その命令の意味する愛の強さを前にして、整列を乱していた男たちの胸元に置かれた手甲が硬い音を伴って自らの鎖骨を強く打ち付け直す。
何がそれほどの大事なのか、リリアには完全には理解できなかった。
それでも、頭の上に置かれた大きな手のひらからは、絶対に彼女を手放さないという強い決意が伝わってくる。
泣きたくなるほどにあたたかく、頼もしい庇護の熱だけが、彼女の心へ流れ込んでいた。




