第6話「肯定の言葉をくれる一番やさしい背中」
指先から光の粒が空中の高いところへ散っていくのを眺めながら、リリアは急激な温度の下降を胸のその奥深い壁の向こうに痛いほどに自覚して全身をすくませていた。
春の色に染め上げられた足元の花の匂いすら、今の彼女にとってはかつて孤児院で自らの身を追い詰めた数え切れないほどの災いの原因となる目立ってしまった自分の過ちと同義として映る。
他の子供たちと違うことができるからこそ気味の悪い子だと陰口をたたかれ、暗い土が剥き出しになった地下室へと食事も与えられずに押し込まれ背中へ鞭を這わされた長い時間の痛みが彼女の額を突き刺す。
自分の居場所が少しだけ見つかりそうになっていたという安堵への自覚が無防備になってしまった結果、やってはならない非常識な行動の限度をあきらかに超えて外の大気にまで表出してしまった。
『だめだ、だめだ。また怒られるのかな』
重たいたんこぶのように頭の中にぶら下がる過去の声たちが、リリアの胸を縛り上げ呼吸のはずみを細く浅い不規則な震えをもった嗚咽の初期動作へと容赦なくすり替えていく。
逃げ出す先もないのに一歩だけ背中の方へ細い足を退かせてみるが、その足は自分が生み出してしまった厚みのある花の茎を踏みつけていっそうの悲しい折れ音を雪原の中にしずかにこだまさせるのだった。
「リリア!」
その瞬間、遠くの庭の入り口のほうから雪を大きく跳ね上げて蹴りながら、すさまじい速度と質量の地響きを生んで一人の男がこちらへとすべり込んできた。
先ほどの美しい魔法による精霊の大量発生の光の乱反射をとらえていそぎ執務室から飛び出してきたであろうヴォルフガングの厚い革軍服の裾が、冷風に派手に吹き散らかされ音を立てる。
彼の青い瞳はかつて魔獣と切り結んだ時以上に恐慌と焦燥の色をもって染まり上がり、大きく見開かれた眼球は怒りにも似た真剣みを顔へと張り巡らしている。
大股で花と雪の境界線をためらいもなく踏みつけ、大きく手を広げて彼女の目前へ立ちはだかった強靭極まる巨大な体躯の影が、太陽をかくしてリリアの顔に黒く落ちる結果を作った。
恐ろしい怒鳴り声が飛んでくると本能が察知し、リリアは体を硬直させた。
どうしても、両手を首の後ろで組む防御の姿勢へと戻ってしまう。
目をかたく閉じ、来るべき制裁の痛みを嵐のなかで待ち受けるように、ただ身を丸めるのだった。
しかし彼女の耳に届いたのは重厚な空気を切って落ちる鞭の音ではなく、ただひたすらに安堵の深すぎるため息と布が大きく擦れ合って重なっていくひくく鈍い音色のみである。
きつく組み寄せていた彼女のもろい指の間に、とても大きく乾燥し硬くそしてとてつもなく温かで強力な手のひらが割って入り込み優しく手首を解くように包んでいるではないか。
閉じていたまぶたの暗闇が激しい視界の揺れとともにすっと上空へ持ち上げられたことを、目まぐるしく変化した重圧の感じ方の変化によって嫌が上にも知ることになる。
男の見えないはずであった顔まわりについた首元の部分である毛皮の感触を鼻先に思いきり押し付けられ、リリアの思考回路はあまりの意外性に完全に切られてしまったかのように一瞬で真っ白になる。
ヴォルフガングにその分厚い背中の下部を大きく固定されたまま、ほとんど大人の目線の高さにあたる位置まで易々と彼女はおのずから抱き上げられてしまった状態であったのだ。
「何も怯えることなどない。お前に怪我がなくて……本当に良かった」
彼の分厚い喉仏が上下ししわがれるように絞り出されたその声は、重厚な怒声の欠片もなくただ一つ失うかもしれないという強烈な保護の不安のみから作り出される震えをはらむ。
まぶたを開いたリリアがあと数センチで鼻先が触れ合う近さから彼の青い瞳をまじまじと見返すうちに、そこに込められているのが一切の否定のない無防備な親としての深い溺愛の色で統一されていることだけがただある。
ごわごわとした親指が彼女の小さな背中の中央をくりかえしゆっくりとなであげるのを感じるたび、恐ろしい勘違いで体の中を縛っていた痛みの予感がさらさらともとの柔らかな砂となって血へ溶けていく安堵の感覚が波打つばかりであった。
やりすぎたかと兄たちを責めるようなことは一つも言わずに、彼は呆然と花の絨毯の上に取り残されているルカとレオに対して強い無言の首の振りと安堵の吐息で答えてみせた。
「これがなんであっても、あなたは自慢の娘だよ」
静かに告げられたその低い声の振動は、彼女の骨をつたって胸のいちばん暗闇の底で固く施錠をされて見せられなくなっていた寂しさの扉を蹴破った。
リリアはもう隠しておく必要のなくなった自分の体の重さと弱さの全部を、恐ろしいほどの強面でありながら最もやさしいこの大きな男の鎖骨のあたりへと全体重をもってだらりと傾けるしかできなかった。
冷えて緊張で固まっていた指先でその軍服の肩を掴むと、堰を切り離されたように胸の奥から押し出される泣き出しのしゃくりが言葉になることもなく吐息として彼女の喉元を支配しつくしていくのだった。




