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不器用な辺境伯一家に拾われた7歳の幼女。無自覚な精霊魔法で家族を癒やしたら、絶対に手放さないと溺愛されました  作者: 黒崎隼人


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第2話「とろけるスープと初めての優しさ」

 鼻先をあたたかな空気がやさしく撫でていく感覚が、長い暗がりの底にあった意識を少しずつ明るい現実の方へと引っ張りあげてくるのをリリアは身の内で知る。

 背中に触れているのはかつて肌に焼き付いた寝台用の冷たく硬い木のかけらや薄板などではなく、まるで雲にすっぽりと包み込まれて沈み込んでいくような豊かすぎる羽毛の反発である。

 重しのようにのしかかっていた頭をどうにか左右へと動かすと、擦れた毛布が高い糸で編まれたすばらしく細やかな綿布であるという明らかな違いを肌全体からおのずと理解した。

 ようやく重みを取りおとして開かれた視界の中には、天井から垂れ下がる純白と鈍い黄金の色を細工で連ねた丸い天蓋の輪と、オレンジ色を揺らして優しく跳ね返る壁に映り込んでは揺れる暖炉の火の影がありありと結ばれている。

 室内を満たすのは、香木がきれいに赤くはぜる心地のよい軽快な音と空気の層をたっぷりと暖めて部屋の外にある冬をごまかすようなすばらしい保温のやわらかな息遣いだけであった。

 見知らぬ天井を見つめたまま、彼女は周囲の情景から逃れるように息をつめて身をこわばらせた。

 そこへ、どこか羽音にも似た足音が優しく近づいてくる。

 彼女は微かな気流の波を察知して、そちらへと視線を向けた。

 ベッドの端を示す布製の飾りがわずかに重力に従ってへこみを受け入れると、横たわるリリアの顔のすぐ近くになおもあふれるほどのほほえみを浮かべた人物が深く座り込んだ。

 輝くような金色の長い髪をていねいに束ねあげ、目尻を下げる彼女のはにかみに合わせるかのようにやわらかく仕立て上げられた青い布地の服からは、きれいに手入れされた日向の甘い花のような洗練の香りがこぼれ落ちてくるようだった。


「目が覚めたのね。ゆっくり、ゆっくりそのままで休んでいてほしいのよ」


 エレノアとよばれるそのご婦人は、両の手をリリアの頭のそばへと差し伸べてからごくゆっくりとした拍子でその小さくくすんだ白い髪を一回だけ指の中で丁寧にとかすように触れた。

 孤児院の教師の厳しい張り手が飛んでくるものと身構えて反射的につぶっていたまぶたは拍子抜けをしたかのように力を失うと、もう一度その透き通った瞳を見開いてそのしずかな動きから目が離せなくなる。

 あたたかい親の声とまともな衣服を与えられているという見慣れない情景の洪水に、自分がなぜここにいるかすらを忘れてしまったばかりか思考はひたすらな心地よい麻痺に奪いとられていく。


「あなたは北の森から来たのよ。寒かったでしょう。痛くはない? ずっと、がんばったのね」


 答えのでない状況でおろおろと視線を部屋の隅に迷わせ続ける娘の内側をおもんばかり、婦人の白くてほっそりした指先は彼女の頬に乗る小さな不安の色をあたたかく拭い落とすように何度も静かになでつけをくり返す。

 恐怖で強ばった内臓のすべてはすでにこの火の明るさと甘い声律の前では武装を解くしかなく、彼女は無言のなかでただ静かにお腹からこみあげる呼吸を一定に吐いて空気を落ち着かせることしかできなかった。

 そこへ盆を持った一人の使用人が部屋へ静かに入ってくる。

 長椅子の上へ盆を置くと、音なく頭をさげて去っていくのを、彼女の瞳は隅でしっかりと捉えていた。

 すぐにエレノアの両手によって美しく銀のかざりの輝く深い器から、木で彫られた細長いまるい形をした匙によって何か湯気をあげる液体がゆっくりと持ち上げられてきた。

 まろやかな動物の骨の出汁の匂いとしんなりするまで煮込まれた野菜の甘いにおいとが混ざりあうすばらしい香りが空気へと拡散される。

 今まで生きていた感覚すら閉じていた彼女の胃袋の奥底の深いふちのほうから、空腹をせがむ強烈な低い音が寝台のわずかな沈み込み以上に響いて周囲に伝え落ちてしまう。

 恥ずかしさに耳をやけつくようにして頬を強ばらせ血の引きそうになる彼女を見ても女はからかうような顔をいっさい作ることのないまま、その木の匙につがれた黄色い湯気の立つスープを細心の手首で小さく吹き冷ましてまろやかに整えるのみである。

 ほんの少しの恐怖を抱きながらリリアがひびの割れたくちびるを細く開いてその先端を受け入れたとたん、匙の中央からなだれ込んできた温かくてとろみのある甘い塩気と肉のうまみが味蕾という味蕾のすべてを弾けるようにとらえた。

 なめらかな舌触りを持つ、野菜が溶け込んだスープの甘味。

 それは、冷たく硬い木の実や残飯しか入ったことのなかった胃の腑へと落ちると、直ちにしみこんでいった。

 命のリズムに火をつけるかのように、五体の隅々へ熱い血を送るよう脳へ訴えかけてくる。

 もう一度飲み込んでからはじめて知る食という行為への歓喜から、指先に血がのぼって全身が甘いゆるやかな熱の中に包まれ直されていく。

 深い充たされた気分が喉元から胃のもっと外の奥深くまで溶けてひろがってしまい、さらに差し出される美味しいおかわりのスープによって空洞の全ては幸せというものの正体の中に埋められていった。

 喉の奥で、何やら大きな塊となった感情が詰まるのを感じた。

 それと同時に、彼女の紫色の大きな瞳から、あふれ出た涙が視界をにじませる。

 こぼれ落ちる感覚すら置き去りにしたまま、熱い水滴が頬をすべり落ちた。

 白いシーツの上に、小さな丸い染みをいくつも作っていく。

 自分がなぜ泣いているのかも理解できないまま、リリアは小刻みに肩を震わせた。

 鼻腔の奥が、つんとするどく痛んだ。


「泣いてもいいのよ。いまはぜんぶ出し切っておしまいなさい」


 エレノアはとても悲しそうな顔で眉尻を少しだけ動かし、そっと絹のリボンで編んだハンカチを彼女の目のきわへとあてがって滲んでまとまらない涙滴をそっとすくい上げて吸収させる。

 手の中に入れられた優しい熱につつまれて、孤児院での誰にも必要とされてこない夜をようやく振り返ることができた彼女は、口に含んだ熱が与えてくれる人の温度と食事によって自分がどれほどひとりぼっちの寂しさに耐え続けてきたかを声なき呼吸の中から全てわかっていた。

 指先で何度もシーツを掴みながら、彼女は静かにお腹からこみあげる呼吸をはためかせる。

 涙とともに、冷たかった昔の記憶を体の奥から流しのけていく。

 そのあたたかな優しさに、彼女は心ゆくまで満たされていくのだった。

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