第1話「雪降る森の小さな光と大きな手」
登場人物紹介
◇リリア
北の森で倒れていたところを助けられた元孤児の少女。
歳は数えていないがおよそ七歳程度。
無自覚のうちに途方もない魔力を持ち、大小さまざまな精霊たちと遊具のように心を通わせて植物を咲かせたり傷を治すことができる。
愛されることを知らない環境で育ってきたため自分の欲求を通すのが下手だが、新しい家族と接するうちに柔らかな感情を取り戻していく。
◇ヴォルフガング
国の北にあたる極寒の辺境地帯を治める辺境伯。
背が高く肩幅が広く武骨で恐ろしげな容貌だが、その手先はやさしく心は誰よりもあたたかく不器用である。
倒れていたリリアを自ら外套で包みこんで森から連れ帰り、やがて親バカとしての自らの性分に深く目覚めて、なによりも彼女の笑顔を第一に行動するようになる。
◇エレノア
北の地から一歩も引いて夫を支え、自らの愛を惜しみなくふりまく朗らかな辺境伯夫人。
美しい容姿にたおやかな所作でお屋敷全体を取り仕切る一方、可愛いものがだめなほど好きで、拾われてきたリリアにふりふりとした服を着せるなど惜しみないお世話を楽しんでいる優しい母の存在。
◇ルカ
ヴォルフガングとエレノアの間にうまれた双子の長男。
十歳。
明るく陽気でよく笑い、領地の騎士たちと集中して木剣で特訓するのが好きな元気が余っている少年。
妹となったリリアに対して兄っぽく背中を撫でたり手を引いたりして喜ばせようとしきりに走り回る。
◇レオ
ヴォルフガングとエレノアの間にうまれた双子の次男。
次男らしく物静かであり、少しだけ気むずかしい顔をして頭を使う読書家をよそおうものの、実のところルカと同じくかなりの妹思いであり、いつも横に張り付いて悪い虫がつかないか鋭い視線を投げている少年。
リリアがからむと平静を失うことが多い。
北の空は分厚い鉛色の雲に蓋をされ、見上げるたびに冷たい針のような雪がどこまでも容赦なく落ちてくる。
枯れ木ばかりが連なる森の中央に、ひとつの小さな塊が木の根元のそばで雪に埋もれかけていた。
白く濁った空気を少しだけ震わせながら、彼女――リリアは擦り減った麻布の服の端を小さな指で握りしめて小さく丸まっている。
すきま風が入り込む薄手の衣類では、到底体温を留めておくことなどできない。
彼女の青白い肌は、すでに冬の森の空気と同じほどの重い冷えを帯びていた。
感覚はとうの昔に足元から奪われはじめている。
膝から腰にかけてのつながりの意識すら定かではない状況だ。
彼女の吐息だけが、白い煙となって弱々しく空へ昇っていく。
これまでに口にしたまっとうな食事の記憶はあいまいで、よじれるように痛んでいた胃袋さえも、つい先刻からこらえきれない痛みを訴えるのをやめてしまっていた。
手足の冷たさが痛みをこえて、鈍いしびれへと変わる。
今度は頭の中を真っ白に塗りつぶしていく感覚が、背筋を冷たくなで上がりながら広がっていく。
重くなったまぶたを懸命に開いた。
焦点の合わない紫色の瞳を少しだけ動かして、眼の前にちらつくものをゆっくりと力ない視線で追う。
ふわりふわりと風に押し流される雪とは違う法則をもって、いくつかの小さな輝く粒子たちが彼女の顔のあたりを遊ぶように飛びまわっている。
月の光を細かく砕いたような銀の光たちは、氷のように冷たく張り詰めたこの森のものとは思えなかった。
彼女のまつ毛にふれたときだけ、陽だまりのようなかすかな熱をおいてはじける。
それらは命をつなごうとするかのように、彼女の頬へと次々にすり寄っていく。
声を持たない精霊たちが、静寂のなかで懸命に心配を伝えているようだった。
『きれい』
枯れてかすれた喉からはとても音にはならないその思いも、微細に震えあがる唇のはざまを白い息とともに雪面へ溶けて消え去っていく。
あの冷たい孤児院を飛び出ざるを得なくなってから、どれくらいの太陽が昇り沈んだのか。
リリアは、まぶたを裏から押し閉じるようなゆるやかな睡魔へと身を委ねはじめた。
彼女という重しを半分あずけられた腐葉土も深く積もる雪に隠され、森がそのまま音のない静かな柩のように彼女の色と息遣いをのみこんでいく瞬間が来ようとしていた。
◆ ◆ ◆
深い森の奥深くから、重く低い足音がいくつも重なりあって雪を砕く音が響く。
それが氷の層を伝わって、リリアの小さな骨の髄へと届くまでに少しの時間を要した。
地面が規則的に小さく揺れる。
雪の表面を大きくえぐりながら、分厚い革の靴底が確実に彼女のいる木の根元へと向かってきている気配が広がった。
金属同士がいやにおぞましくこすれあう音が重く冷えた森の大気にこだまを起こし、鉄でできた甲冑の重みを伴った一団がそこにいることを無言のうちに知らせていた。
うつぶせになっていたリリアの閉じた視界のなかにも、真っ暗な影が大きく差し込んだ。
前傾姿勢の気配の主は、膝の雪を割って音もなくしゃがみ込む。
危険な獣が現れたのではないかと、彼女はかじかんだ指先を泥のついた麻布に押し込んで防御の姿勢をとろうとした。
だが、筋肉は悲鳴すらあげず、まるで意志に従わない無残な状態を告げるばかりだ。
「こんなところに、小さな子供が」
厚い岩盤をこすりあわせたかのごとき太く力強い声が、直上から彼女の鼓膜を静かに打った。
その重々しい発声に恐怖で震えるリリアを励ますように、彼女に寄り添っていた小さな光の粒たちが慌てふためいて一斉にかばう位置へと回り込んでかすかな熱を作りだす。
しかしその光の中に顔を沈める巨大な男には剣を抜くそぶりもなく、ただ手甲を外したままの一きわ分厚く無骨な片手を、そろりそろりと彼女の背の中央へと伸ばし向けていた。
剣だこだらけの手のひらが、麻布でくるまれた痩せた肩へと直に当てられる。
その途端、生き物としてのすこやかな熱が肌を通り抜けて、リリアの奥深くへと伝わってきた。
ひさしく体温を分け与えられることのなかった細胞が、男の温もりへ一気にすがりつこうとする。
あまりの直接的な救いの気配に見捨てられたものとしての緊張の糸がぷつりと切れ、リリアはどうにか自らにかけられていた顔の前のおくれ毛を押しのけて、その男の横顔を小さく見やった。
北の空のような灰色の髪と深い傷跡が斜めに走る無精髭の大男が、とても彼女へ向けるには不釣り合いなほどの慎重さで手首を震わせつつも、優しさを帯びた鋭い青い瞳で見下ろしている。
それを見つめ返すリリアの喉からはうまく空気をはき出すことができず、ただ助けを求めようにもひたすらに小さな呼吸を数回だけくり返した。
男の肩の上には魔獣の血のにおいを乗せた冷たい雪がしんしんと降り積もっているにもかかわらず、その目は雪さえも溶かしてしまうほどの奥深い安堵を湛えているように見える。
「大丈夫だよ。私が来たからには、もうこの冷たい雪に肌をさらす必要はない」
ヴォルフガングとよばれるその男は、彼が身につけていた上質な動物の毛皮を使った厚手の黒い外套の留め金を指ではじき外した。
巨大な厚手の布があたたかい体温と獣特有の強い生命の熱を大量にまとったまま、ふわりと広げられて彼女の冷え切った小さな胸部と手足をすっぽりと包み込むように重くかぶさる。
雪の表面よりもあたたかく乾燥した空気が、凍らせられていた麻布と皮膚の隙間に一気に入ってきて、ちくちくとした痛みとともによみがえる脈の拍動を感じさせた。
彼は細い彼女の両脇へゆっくりと両の手のひらを差し込み、まるで落とせば割れてしまう薄いガラス細工の宝物でも持ち上げるかのような手つきで、彼女全体を胸の奥へと持ち上げる。
宙に体が浮き上がるふらつきを微塵も感じさせない、しっかりとした抱擁だった。
リリアを悩ませていた厳しい冷気は、大男の分厚い胸板と外套によって完全にさえぎられる。
彼女の小さな呼吸は、分厚い革の胸当ての奥にある力強い心音に同調していく。
ひどくゆっくりとではあるが、落ち着いた静かな波へと変わっていった。
あの大寒波の吹雪のにおいは遠のいていき、かわりに強くて日向のようにあたたかい人間のぬくもりにすべてを引き渡し終わると同時に、リリアは安心して深い暗闇の底へと意識の糸を手放していった。




