第13話「平和の光が満ちる屋敷と一つの書類」
北の分厚い雲を押しのけるようにして、やわらかく澄んだ明るい冬晴れの太陽が雪をまとった屋敷の庭の木々たちをあまねく照らし出している朝だった。
すべてを終わらせた昨日の余韻はまるで重たい嘘であったかのように消え去り、澄みきった青空からおちてくるまぶしい光の束が大きなガラス窓をすり抜けて寝室の内側へといくつもの輝かしい四角の影をつくりだしていた。
ふっくらとした綿布の下で体温を一定に保たれたまま、リリアは微かに開いたまぶたの隙間からちかちかとまぶしい埃が光に透けて宙を舞う美しい動きを静かに追っている。
これまで彼女の人生についてまわっていた深い絶望や身を切るような寒さの記憶は、昨日の魔の一掃とともにきれいな水に洗い流されてしまったかのようにどこを探しても見あたりそうになかった。
やがて廊下のほうからいくつもの複数の布がゆったりと擦りあうような優しい足音が忍び寄るのに気がつき、彼女は丸めていた膝の関節をゆっくりと伸ばして上半身を寝台のふかふかした起毛の上へと起こしてみせる。
真鍮で作られた丸いきれいな模様の扉の引き手がかちゃりと微かに鳴ると、透き通った金色の髪をていねいに編み込んだエレノアが変わらぬ慈愛の微笑みを満面にあふれさせて姿を見せるではないか。
女の持つ柔らかな気品と日向に咲くようなすばらしい甘い香りが、入ってきた部屋の空気と混じり合って少女の鼻先をするりとくすぐりぬける。
「よく眠れたのね。昨日はいっぱい頑張ってくれたからとても心配していたのだけれど……とても良い朝の顔をしていて本当に良かったわ」
そう言って寝台の横へと腰を下ろした夫人の白く細い手首が伸びてきて、リリアのおろした背中のあたりを二度ほど優しく心地よい形にさすりまとめていく。
さらに廊下の死角になっていた向こう側からは、もうまったく戦の緊張を手放し切った無邪気なルカと、何かを期待してそっと目線を落とすが頬が赤いままのレオの二人がひょっこりと顔を見せた。
ルカは扉枠にしがみつくように重心を前へとかけたまま、大きくきれいな形の歯を見せてにかっとした眩しいほどの親愛の笑顔を送ってきている。
ただそれだけの家族から注がれて向けられる視線一つひとつが体の末端の冷えを根本から溶かし尽くしてしまい、自分がこの場所に受け入れられているという明白であたたかい証明書となって胸の内を響かせてみせた。
「さあ、着替えようね。今日はとっても大事な日の始まりなのだから」
エレノアに促されて羽織らせてもらったのは、日頃の活動着よりもはるかに布の層が厚くて肌触りのなめらかな、美しい薄緑色であしらわれた外出の防寒と正装を兼ね備えたような高価なしつらえの服だった。
襟元で丸く結ばれた緑色のリボンの中心まで丁寧に夫人の指先で形を整えられると、リリアは兄たちのいる廊下へとすんなりと背中を押されるまま導かれて出た。
兄二人が当たり前のように彼女の左右に位置どってその小さな肩のすぐ横にあたたかな体温を寄り添わせながら並走していくのがわかる。
いつもなら食事のとれる食堂の方向へ向かうはずが、その三人の導く歩みは屋敷の奥のずっと重い空気を持つもっとも大切にされた書斎の扉へと直進していることであったのだ。
大きく細密な彫刻の刻まれた樫の木の扉の中へ通されると、すでに幾本も立てられた蝋燭の温かな光と窓からの冬の光がまざりあう卓の向こうに、この北の地をおさめる巨大な体の持ち主が静動なく待機していたのである。
ヴォルフガングの広くて恐ろしいほどに見えた背中と傷のある厳しい目鼻立ちは、今朝にかぎっては不器用極まりない緊張の汗をかいており、大きな両手を意味もなく太ももですり合わせたり指の節を鳴らしたりしている有様だった。
彼の視線の先にある分厚い木目張りの卓には、ただ一枚だけぽつんと書面が置かれている。
正式な封蝋が真っ赤に押された、特別な様式の硬い羊皮紙であった。
「ああ、よく来たな……。よく眠れたのならそれでいいんだ」
声はいつもの雷鳴のようなものからかけ離れており、とつとつと言い訳めいた震えをともなっていてあきらかに彼は心臓の音を外に漏らしてしまいそうにしているのが感じ取られる。
ヴォルフガングはやおら巨大な体を椅子からゆっくりと持ち上げると、リリアの首の高さまでその体を折りかがめるようにして回り込み、重い剣だこだらけの大きな手をわずかに宙に浮かせるもすぐに自らの膝のもとで固く握りしめた。
「お前はもう知っているように私は不器用な男だ。戦場の血のかおりばっかりをつけてまわるおそろしいだけの壁のようなもので、気のきいた綺麗な言葉のひとつも娘にかけてはやれん……」
彼は一度そこで言葉を押しつぶすようにつまらせ、深い大きなため息ではない確実な祈りのような深い呼吸を一つおとす。
「だがな、誰にもこの背中の後ろの大切なものは絶対に奪わせはしないことだけをこの空の下で貫くことしかできない。お前がもしこれでも良いと言ってくれるのなら――」
彼はそう言って自ら後ろに手探りした机からあの重い羊皮紙の縁をつまんで目の前に高く指し示すのだった。
「正式にお前を、我が辺境伯家の『実の娘』であると国へ届けるための認可書だ。どこかのだれかに傷つき捨てられた小さな子供ではなく、今日ここからの確固たる俺たちの愛した娘として書類にしずめたい。いいか」
あまりに無骨すぎるその確認の声でありながらも、そこに含まれているあたたかく強力すぎる情の熱の厚みはリリアがいままで生きてきた人生のすべての理不尽を吹き飛ばすだけの説得力に完全に充ち満ちていたのである。
自分がこれ以上どこかへ不用の烙印で追いやられずに、冷たい外へ出なくてもよいためのただ一回の永遠の契りの声であった。
リリアの顔からは過去の冷気にさらされただけの無表情はとうに失われており、そのかわりに内臓の内側からいっきに持ち上がってくる大きな歓喜としての熱い水滴がまばたきの刹那にいくつも頬へ向けてはじけこぼれおちたのだ。
「はい」
小さなその声はたった二つの文字でありながらも震えのない彼女の一番の意思となりきって空気へと届く。
直後、たまらなかったかのように耐えきれなくなった無骨な大男の腕が両わきから少女の体をなんの痛みもない力で一気に天井近くへと引き上げ抱え込んでみせた。
リリアを取り巻くように待機していたルカとレオがいっせいに足の音を立ててすがりつくようにまとわりつき、優しさに満ちたエレノアは口元へ絹をあてて泣きおちながら大きな男の背中の端をまるめ抱く。
平和の証である精霊たちが無制限の歓喜のきらめきをもって光の粒となって天井や重なる家族の腕のすべてを祝福するかのようにはじけ踊る。
互いが互いを見失い落とさないためのしずかな涙をこぼしあいながら、新しい生命の繋がりによる揺るぎのない穏やかな日々がこの巨大な温もりの中で始まったのだった。




