59.幸せの最高値を更新しましょう
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『多くの幸せは努力の先にしかやって来ない。こちらが掴もうとしなければ、向こうからは来てくれない。時には濡れ手に粟のようなことも起こるが、回数としては少ないだろう。だが不幸は勝手にやって来る。こちらが望まずとも、欲していなくとも、列をなして次から次へとだ』
『…………』
『それに、谷底へ滑り降りるのは簡単だが、這い上がって山頂まで辿り着くためには、降りる際の何倍、何十倍以上の労力を要する。それで両者が等しいと言えるだろうか。不幸の比重の方が大きいように、私は感じている』
アルシオとウォーロックは黙って聞いていた。今の言葉には賛成できる部分もあれば、違うと思う部分もある。異論や反論も思い付く。だが、ラーグ自身も言っている通り、彼の個別見解としてそう考えているというだけのことだ。個々の意志を他者が否定する権利は無い。だから、ただ無言で兄の意志を受け止める。
『良いことは努力と心血の果てにしか掴めないのに、それも必ず掴めるとは限らないのに、悪いことは向こうから山ほど懐に飛び込んで来る。……そんな世界に生まれてしまった』
漆黒の夜のように深い紫を見たアルシオは、唐突に気が付いた。兄の瞳の方が色が濃いと感じるのは、自分よりずっと感情の揺らぎが少ないからだ。沈殿してドロリと凝り固まった泥のように、動かなくなった精神。永年に渡って不条理と理不尽と苦痛を舐め続けていく内に、心が胎動を止めてしまった。
『私は永きの間、使役界の負を受けて来た。それは我が心身を蝕み、苛んだ。だがそれを表に出すことはできなかった。苦しみ、怒り、恨み、悲しみ、妬み、辛さ……そういったものを発すれば、さらに負の念が増加して状況が悪化するからだ』
ゆえに、マイナスの思いが生まれても吐き出せなかった。ただ我慢し、堪え、心の奥にしまい込んで蓋をした。
『私は己が感情を押し込めた。無理矢理にでも、心に反していても笑い続けた。そうして気付けば、感情が死んだまま笑うようになっていた』
そうして完成したのが、停滞人形だったのだ。他の先達たちも似たようなものだったが、最も強大な力と精神を兼ね備えていたラーグは、より多くの負の念を受けていたため、心の負担と停滞も大きかった。
『ずっと心が機能していなかった。だから、今我が身に降りかかっている状況を、夢に見ることすら諦めていた幸福が得られた事実を、上手く処理できなかった。それで勝手に涙が出たのだ』
『ならばそれは、きっと心が生き返ったということでしょう。止まっていた感情が再び動き出したから、涙が出たのです。……復活した時も泣いて下さいました』
『そうだったな』
柔らかに言ったウォーロックに、ラーグが微笑む。その目に瞬く輝き。長く土の奥に眠っていた感情の再萌芽だ。光を宿したアメジストは、アルシオの紫眼と同じ色をしていた。
もう不遇を背負う必要がなくなった彼が、今後少しずつでも情緒を回復させていけば、きっといつでもこの目を向けてくれるようになる。アルシオと同じ瞳を細め、ウォーロックと同じ髪を揺らして笑うようになるだろう。
『ラーグ兄さんははもっと幸せになります。この先に待っている光は、あなたが辛苦の果てに掴み取ったものです』
『もっとと言われても、私は今の時点で既に絶頂にいる。これ以上など考えられない』
『今はそうでも、きっとすぐに最高値を更新します。だってこれからはずっと僕たちと一緒にいられるでしょう。兄弟として。そうしたら毎日が楽しくて嬉しくて喜ばしいことだらけになりますよ』
『……なるほど。確かにそうだな』
パチクリと開閉した兄の目が、じわじわと歓喜を帯びる。ようやっと、魂の歓喜に思考が追い付いたように。アルシオは片手を差し出した。
『ラーグ兄上も私もウォーロックも、これから未知の感動や感激を体験し、たくさん笑い喜ぶでしょう。皆で幸せになりましょう』
『ええ、そうですねラーグ兄さん、アルシオ兄さん』
ついに自分まで泣き出したウォーロックも、アルシオに倣って腕を掲げた。伸ばされた弟たちの手を、ラーグは押し戴くようにそっと自身の掌で包み込んだ。
『ああ、そうしよう』
燦々と神威の光が差し込む神々の領域で、分岐と別れの果てに再会した兄弟たちが寄り添った。
アルシオは目を閉じる。今までも望むべくもない至福の中にいたが、これからはさらに幸せになれる。直感で分かるのだ。これまでより大きな果報となれば、それは一体どれほどのものだろうか。
尽きることがないの幸福の渦の中、期待に胸を高鳴らせた紫眼から、また一粒、輝く涙が零れ落ちた。
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