9話・隠れていた性
ザックが宰相を辞めることを望まなかったレヴィナは、式を挙げるとすぐにオーティスへ移り住んだ。
そしてリズも、本人たっての希望でオーティスへ付いてくることになった。故郷からずいぶん離れてしまうが、これまでと変わらず稼ぐことが出来ればそれで満足らしい。
ロディは黒く大きなソファにゆったりと腰をかけ、向かい側に座るザックへウイスキーグラスを傾けた。
「おめでとう。
いやあ、独身生活がずいぶん長かったなあ。あのまま結婚しないのかと思っていた」
「あたしもするつもりなかったんだけどね、実際」
だろうね、とロディは苦笑して頷く。
「その上まさか相手がレヴィナとはねえ。
あの子は確かに可愛いんだけど、結婚向きの人ではないと思ってたからさ」
余計びっくりだよねと笑うロディに、ザックはグラスをあおってから口を開く。
「まあ男が嫌いなのは相変わらずだから、結婚向きじゃないと言われたらそうなんでしょうけど。
でも家では普通に過ごしてるし、周りが男嫌いを過剰に心配し過ぎてた気もするのよね」
レヴィナはローノイド家に嫁いでから、政治の仕事からは完全に遠ざかった。彼女はもともと政治が好きではなかったので、肩の荷が下りたのかずいぶん気が楽になったようだ。
余った時間は家でゆったりと過ごしたり、元々趣味だった装飾品のデザインや加工をして過ごしている。オーティスは質のよい貴金属が豊富にあるので、レヴィナはとても嬉しそうにしていた。
結局のところオーティスの風土はレヴィナには合っていたらしい。
周りの不安もよそに、なんの問題もなく順調な結婚生活を送っている。
ロディは頭を掻きながら苦笑いをした。
「まあ、良かったよ。
実は少し気にしていたんだ。俺があんまり離婚を繰り返すものだから、ザックが結婚に対して夢も希望も無くなってしまったんじゃないかって」
女性関係が激しいのはロディの悪癖だ。
そしてそれを幼い頃から見ていたザックへの影響は、今思い返せばそれなりにあった。
「言われてみたらそうだわ。でもま、今となっては感謝しかないけど」
ザックがこれまで独身でなければ、レヴィナが男嫌いでなければ、二人が結ばれることはなかっただろう。
沢山の苦労がこんな形で幸せに繋がったのだから、すべてが無駄ではなかったはずだ。
「だが少し残念だな。
社交界の可憐な花が嫁いでいってしまったのは」
「なにそれ」
訝しげな目で見てくるザックに、ロディはグラスを持ったまま説明する。
「可愛いらしいドローシャ王女に会えるのは我々の楽しみのひとつだからね。
男嫌いだから“誰のものにもならない”っていうのがミソなんだよ。皆平等に遠くから愛でるんだ」
レヴィナは男性らにとってアイドルのような存在だったらしい。誰にも汚されない、高嶺の花。
初耳のザックは少し困ったようなため息を吐く。
「前々から思ってたんだけど、あの子、やっぱり魔性の気があると思うのよね」
振り返ってみれば、レオナードとヴィラたちのレヴィナに対する溺愛っぷりは少し異常だった。割りと邪険にされていたランスも、レヴィナの我が儘に振り回されながらあの可憐な微笑みでコロッと許してしまうのだ。
レヴィナには無意識の内に人を虜にし従えさせる才覚があるのかもしれない。
ロディは少し心外だという顔をして首を傾げた。
「魔性といえばどちらかというとヴィラの方だと思うけど?
あの美貌は反則だろう」
「確かにあの人も魔性よね。
ただそういうのは見た目の問題じゃないのよ、生まれ持った性質だから。今まで誰も気づかなかったのは、警戒心が強くて心を許した相手にしか素を見せないからかも」
もし昔、ザックが偉そうな態度と我が儘で他人と距離を取るように促さなかったとしたら。
もしかしたらレヴィナは、ドローシャの王女として歴史に残るような偉業を成し遂げていたかもしれない。
「・・・少し責任感じてるのよ。
もしレヴィナが留学して来たとき、あたしがもっと的確にレヴィナの長所を伸ばしてあげていれば、って」
「でも後悔はしてないだろう?」
訪ねながらも、その口調に疑問の色はなかった。
レヴィナが誰も彼もを虜にするような女性だったら、ザックが何も知らない間に他の男性にとられてしまっていたはず。
ザックは苦笑して頷く。
「そうね」
「負い目を感じることはないさ。
レヴィナ自身も幸せじゃなかったと思うよ。あの子にはやっぱり、政治は向いてない」
出来る出来ないに関わらず、優しい人は政治には向かない。政治とは人を助けるよりも、切り捨てるものを選ぶ作業が多いからだ。
国益のために腹の内を隠した探り合いも、レヴィナには到底向いているとは言い難い。
本人もかなりストレスを感じながらの生活だったようだから、こうして好きな人と静かに暮らせて良かったはずだ。
「終わりよければ全てよし、ってやつだね。ザックにも守るべきものができたんだから、仕事に対するやる気も一入だろう。
これからもアーノイド家とローノイド家の繁栄を祈って」
ロディが空になっていたザックのグラスを満たし、二人はグラスを軽く掲げると一気に傾けた。
日付が変わる頃。
深酒をしたザックは、ソファに凭れたまま寝入ってしまった。
話し相手がいなくなったロディは、しんと静まり返った中で一人飲み続ける。
「やっとここまで来れたのか・・・」
もちろん独り言に返事はない。
ロディはスヤスヤと気持ち良さそうに眠っているザックを見て僅かに口角を上げた。
兄弟分の家系にそれぞれ生まれたロディとザックは、年が近いこともあり幼馴染みとして共に人生を歩んできた。
戦争で国が滅びかけたこともあったし、天候が悪く不作に悩んだこともあった。その多くの災厄を共に乗り越え、共に王家に忠誠を尽くしてきた仲だ。
国もようやく安定し、ザックがようやく嫁を向かえ、やっとのことで公私共に落ち着いてくれた。ここまでが本当に長かっただけに、ロディにはなかなか感慨深いものがある。
仕事人間のザックは、レヴィナと結婚するまで仕事と恋愛を完璧に切り離していた。
そんなザックは何故か昔から女性にやたらモテた。ロディが口説こうとした女性に、ザックが好きだからとフラれたのは片手じゃ足りない。女口調で一見するとオカマなのに、ロディは何故ザックの方がモテるのか常々納得がいかなかった。
そんな無駄にモテる幼馴染みが結婚相手に選んだのは、誰の手にも渡らないと思われていた中心の国の王女。最上の女性を手に入れてしまったのだった。
しかし今は不思議と悔しさはなく、祝福の気持ちしかない。
コンコン、と控えめなノック音がして、ロディは手にしていたグラスをテーブルへ置く。
「どうぞ」
静かにゆっくりと開かれた扉から現れたのは、深夜にも関わらずドレス姿のレヴィナだ。
彼女は座ったまま眠っているザックを見て、あら、と頬に手を当てる。
「ザックったら、このまま寝ちゃったの?」
「すまない、飲ませ過ぎたようだ」
「大丈夫よ、明日は休みだもの」
「新婚家庭にお邪魔して悪かったね」
「私は別に構わないわ」
いつものようにあっさりとした口調で言うレヴィナ。
彼女はザックを起こそうと肩を持って揺すったものの、唸るだけで起きる気配はない。
レヴィナは困ったように眉尻を下げる。
「どうしよう。風邪引かないかしら」
「いつもより多目に飲んだからね・・・。
ほんと、ザックってばレヴィナの話しかしないんだよ?」
仲がいいんだね、とロディ。
「まあ、そんなに酔ってたの?」
レヴィナは困り顔のままクスリと小さく笑う。新婚に対するリップサービスだと思ったのかもしれない。
酔ってなくても君の話しかしないよ、とまでは口にせず、ロディはにっこりと笑いかけた。
「ねえザック、起きて。
さすがに明け方は冷えると思うわよ?」
諦めず何度も揺さぶっていると、ようやく眩しそうに目を開けるザック。
「んー?レヴィナ?」
へラッと笑う様子は酔っぱらいそのもの。
「レヴィナ、可愛い」
ザックがレヴィナの細い腰を掴んで引き寄せると、レヴィナはぐしゃっと体勢を崩してザックの上へ倒れこんだ。
その体勢のまま可愛い可愛いと連呼して抱き締めてくるザックに、レヴィナは「やだ」と言いながらもくすぐったそうに笑う。
「ねえ、部屋まで歩ける?」
背もたれに手をついて立ち上った彼女は、ザックの腕を掴んで彼を引き上げた。このまま部屋まで連れて行って寝かせるようだ。
レヴィナはフラフラとした足取りのザックを支える。
しかし酔ったザックは歩く気があまりないらしく、レヴィナに抱きついて離れない。
「レヴィナかあいい。ねえ、ベッドいこ?ベッド」
呂律の回らないザックはヘラヘラしながら、ちゅっちゅと音をたててレヴィナの顔に何度も口づける。
「ザック、もう少し頑張って歩いて?
ロディ、いつも通り客間使ってちょうだいね」
「ああ、うん、ありがとう」
そうして抱きついてくるザックにまとわりつかれながら、レヴィナは彼を連れて部屋から出て行った。嬉しそうに頬を緩め、クスクスと笑いながら――――。
ロディはレヴィナがあのような顔で笑うのを初めて見た。
あれじゃあドローシャの国王夫妻がレヴィナに甘々になるのも当然だ。あの笑顔を見るためならなんでもしてあげたくなってしまう。
確かにザックの言う通り、魔性とは顔の美醜の問題ではなかった。あの笑顔を見たときの言葉にしようのない高揚感が、見た者を虜にしてしまうのだ。
「羨ましいぞっ・・・!」
グラスを割れんばかりの力で握りしめるロディ。
それは、祝福の気持ちが一気に嫉妬へ傾いた瞬間だった。
途中で何度か崩れ落ちそうになりながらも、なんとか寝室まで辿り着くことができた。
縺れ合うようにしてベッドに倒れこんだ二人だが、ザックはレヴィナがまだドレス姿であることに気づいて眉間に皺を作った。
「もしかしてあたしのこと待ってたの?」
ごめんね、と謝るザックに、レヴィナはううんと小さく首を振る。
「もう寝ようと思ってたところよ」
先ほどザックとロディが飲んでいた応接間を訪ねたのは、先に就寝する断りを入れるためだった。
どちらにしろ申し訳なかったザックは再び謝る。
「ごめんね、レヴィナ」
「いいのよ。
それよりちょっと離して?着替えたいから」
ベッドに寝転んだまま離れてくれないザックに優しく言うも、彼女を抱き抱えている腕には更に力が込められた。
「えー、やだ」
酔ったザックは子どものようにごねながら、レヴィナの柔らかな肌を好き勝手に触りはじめる。
しかし首筋に顔を埋めたところで、ふわりと鼻を掠めた香りに動きを止める。
「これは『水の精霊』かしら」
それは水桐から造られる香水だった。
レヴィナは微笑んで頷く。
「今朝母さまがわざわざ届けてくださったの」
ザックが苦労して探し出した水桐は、無事ドローシャで繁殖させることができたらしい。
そのほとんどがヴィラの魔術の賜物なのだが、出来上がった香水はいち早くレヴィナの元へ届けられた。
ザックはレヴィナの頬を撫でながら嬉しそうに笑う。
「良かったわね。
レヴィナは水の精霊が気に入ってたから、昔はずっとつけてたものね」
微笑んだまま黙ってしまったレヴィナに、ザックは不思議そうに訊ねる。
「どうしたの?」
「気に入ってたのもあるけど、初めてもらったものだったから・・・」
その時ザックは唐突に思い出した。レヴィナがオーティスに留学していた頃、初めてレヴィナに贈り物をしたのが水の精霊だったことを。
まだその頃水桐は野性しており、水の精霊は高価で貴重な物程度だったので、ザックはレヴィナに似合いそうだからとわざわざ探して取り寄せた。
それ以降絶滅して手に入らなくなるまで、レヴィナはずっとその香水を使っていた。
ザックが自分の為に選んでくれたものだから、と。
「まさかあたしがあげたから使ってたの?」
レヴィナは少し恥ずかしそうに唇を引き結んで俯く。
そのあまりの可愛さに、ザックはその場で身悶えた。
そして同時にレヴィナを傷つけた昔の自分をボッコボコに殴りたくなった。
「あたしなんかを選んでくれてありがとう」
感動ものだ。まさかこんなに想われていたなんて。
何度傷つけられても、叶わなくても、想い続けていてくれたなんて。
ところがレヴィナは小首を傾げて返事をする。
「それは私の台詞でしょう?
もらってくれてありがとう」
未だにレヴィナはザックがどれだけ愛を囁いてもいまいち信じてくれない。
ザックは苦笑してレヴィナの上に乗り上げると、彼女の顔を優しく両手で掴んだ。
「やっぱり信用ないのね、あたし。
いいわ、何千回でも何万回でも、一生言い続けてあげる」
そうしていつの日か、本当にレヴィナの信頼を得られたならば。
「愛してるわよ、レヴィナ、大好き」
背中に回った両手できつく抱きしめてくるレヴィナに、ザックは満足そうに微笑んで深く口づけた。