第三話 たぶん、要らないよな
地味な章です。書いてて思いました・・・。
ただGMがかなりこの辺厳しかったのを思い出しながら。
あの後決めた宿は、坂の下から数えて三軒目の安宿である。
一階が食堂で、二階が寝床。六人部屋が一つ空いていたのが決め手だった。つまり値段だけで決めたのだ。
暖炉の火は細い。どうやら薪をけちっているらしい。オタキラーは卓の端に陣取って、その火の細さと、出された麦粥の具の少なさとを、頭の中で同じ帳面に書き込んでいた。
卓の反対側では、シンが二杯目をおかわりしている。
「なあ、明日どうする? もう潜れるんだよな、俺たち」
「装備の話が先や」
「装備は今あるやつで——」
「あんたの鎧、革の合わせ目が二か所裂けとる。ドレッシングのナイフは半分刃が寝とる。アンリはんに至っては、坑道に降りる履物ですらないわ」
シンが黙った。
黙ったところへ、別の声が落ちた。
「——一つ、話しておきたいことがある」
シーザーだった。
彼は粥に手をつけていなかった。籠手を外し、卓の上で指を組んで、正面の一点を見ていた。
「今日、門で書類を出した」
「そうやな」
「教会の紙だ。国の紙ではない」
オタキラーは、匙を止めなかった。止めずに、目だけを上げた。
「あの時の言葉は嘘だ」
シーザーの声は、平らだった。
「国王陛下の勅命ではない。そのようなものは、受けていない。私は妹を連れて、国を出た。出なければならなかった」
暖炉の薪が、ひとつ落ちた。
「詳しくは、言わん。だが、隠したまま同じ大迷坑へ入るのは、筋が通らんと思ったから話した」
アンリが、兄の横顔を見ていた。
シンは、匙を口に運ぶ途中で止めていた。止めて、それから、あっさりと下ろした。
「……やっぱり、なんかそんな感じがしてた」
シンは粥を掻き込んだ。
「気にしなくていいよ。俺たちだって似たようなもんだし」
「似たような、とは」
「世直しの修行の旅ってことになってるけど、あれ建前。国を追い出されたんだ、俺たち」
ごほっ、と音がした。
ドレッシングが、麦粥を吹いていた。
「おい」
「なんだよ、事実だろ」
「事実だけどさぁ。もうちょい、こう」
「隠しても仕方ないだろ。あっちが先に話したんだから」
シーザーが、目を瞬いた。
「……追い出された、というのは」
「素行が悪くて。まあ、いろいろ」
「いろいろて」
オタキラーは匙を置いた。
「まあ、あれや。若気の至りっちゅうやつでな」
「あんたのは若気じゃないだろ」
「うるさいわ」
シーザーの肩から、力が抜けていくのが見えた。
組んでいた指がほどけ、ようやく粥の器へ手が伸びる。ひと口食べて、彼は少し驚いた顔をした。冷めていたのだろう。
「……知っとったわ」
オタキラーは、暖炉のほうを向いたまま言った。
「勅命持ちが、宿の値段で悩むかい」
シーザーが、初めて笑った。
◇
工房横丁は、坂を下りきる手前、下の辻から横へ入ったところにあった。
鍛冶場が軒を連ねている。門で聞いた地面の震えが、ここではいちばん近く、耳から入ってくる。
武具屋は、その並びの一軒だった。
夜が明けたばかりで、まだ火を入れる前だが、鉄と油と、焼けた石の匂いが立ち込めている。棚には剣が寝かせて並び、壁には胴当てが吊るされ、床には修理待ちの品が種類ごとに積んである。
奥から出てきたのは、ドワーフの男だった。
背丈は門番よりさらに低い。だが腕の太さが違った。前掛けの革は継ぎ接ぎだらけで、その継ぎ目のどれもが、丁寧に縫われていた。
「開けてないぞ」
「そこの戸が開いとったんでな」
「……ああ」
男は、それ以上追い返さなかった。
「見るのは勝手だ。買えんものを触るな」
オタキラーは値札から見た。
それが彼の順番だった。品より先に値、値より先に釣り合い。並んだ数字を順に頭へ入れて、それから懐の重さと突き合わせる。
突き合わせた結果は、単純だった。
届かない。
シンが、いい胴当てを見つけて振り返った。
「これ、軽いぞ! これなら動けるし——」
オタキラーは値札をひっくり返して見せた。
「……あ」
「せやろ」
「あ、じゃあこっちの」
「そっちは、ええ品や。値もええ」
シンは、三つ目でようやく黙った。
「親方」
オタキラーが呼ぶと、男が顔を上げた。
「六人ぶんの底上げをしたい。金は、これだけしかない」
彼は袋の中身を、卓の上へ出した。
男は硬貨を数えなかった。山の高さを一目見ただけだった。
「胴当てを二つと、履物を一足。あとは修理だ」
「二つ?」
「前に出る奴からだ。あんたと、そこの兄ちゃんは後ろだろう」
男は、シーザーの重装を顎で示した。
「そいつのは直せばまだ持つ。裂けた縫い目を締め直す。金は取るが、新品よりは安い」
「安物は売らんのか」
「売ってもいい」
男は棚の下から、薄い胴当てを一つ出した。
「これなら三分の一の値だ。爪は止まる。牙は止まらん」
そして、また棚の下へ戻した。
「坑道で牙に当たらん保証があるなら、買え」
オタキラーは、鼻から息を抜いた。
悪い店ではないようだ。
◇
修理の品を預けているあいだに、それは起きた。
「兄ちゃん。剣を見せろ」
「え? あ、はい」
シンが、腰から鞘ごと外して差し出した。
親方は鞘を膝に置き、まず柄頭を見た。
獅子と星。
「ローエンガルドか」
「はい」
「ふん。国の紋を提げて歩くなら、手入れくらいしろ。鍔元に錆が浮いてる」
「すみません……」
親方が鞘を払う。
その動作が、いつもと同じ速さだったのは、そこまでだった。
オタキラーは、値札を見ている。
棚の三段目、買えない品の値札だ。数字を眺めながら、視界の端で、親方の手が止まったのを捉える。
刃を光に当てた姿勢のまま、動いていない。
鼻から、息が抜ける。
それから、彼は刃を寝かせた。寝かせて、根元の一点を見る。爪の先ほどの何かが、そこに刻まれているらしい。指の腹が、二度、それを拭った。
三つ数えるほどの沈黙があってから、親方は剣を鞘へ戻す。
戻す手つきが、渡されたときとは違う。両手で捧げるようになっていた。
「……錆を落としておく。金は要らん」
「え、いいんですか!?」
「いいと言った」
「ありがとうございます!」
シンが頭を下げる。
オタキラーは値札に目を戻した。
戻す途中で、もう一人と視線がぶつかった。
アミアンだ。
彼女も、親方の手を見ていた。淡い翠の目が、剣から親方へ、親方からオタキラーへと動き——動いて、そこで止まった。
どちらも、何も言わなかった。
◇
「トルヴァン」
戸口から声がした。
昨日の老ドワーフだった。鶴嘴は担いでいない。代わりに、折れた鶴嘴の頭だけを提げていた。
「柄が抜けた」
「またか、ガレス」
「またも何も、あんたの締めが甘い」
「あんたの振りが荒い」
それだけだった。
老人は折れた頭を卓へ置き、親方はそれを見もせずに脇へ寄せた。二人とも、次の言葉を探しもしない。
オタキラーは、その間の短さを見て、二人の付き合いの長さを感じ取った。
「四番坑の下だ」
出ていきながら、老ドワーフが言った。
「あそこの蛾は明かりに寄る。灯りは持ちすぎるな」
誰に向かって放った言葉なのか、それはわからずじまいだった。
◇
坂を下る途中に、小さな人だかりができていた。
石段の脇で、老人が座り込んでいる。足がもつれたらしい。灰色がかった髪をひとつに束ねた婦人が、その前に膝をついて、砂のついた掌を拭いてやっている。洗いざらしの前掛けに、荒れた手をした人だった。
シンは一度だけそちらを見て、また前を向く。
道具屋は、坂を下ったところにあった。
油、蝋、火口、傷薬、乾いた携行食、チョーク、鉤縄、麻縄。棚は天井まであり、値札は指の爪ほどの大きさだった。
「灯りな」
オタキラーが言うと、シンが手を挙げた。
「灯りなら俺たち、魔法があるだろ。オタキラーの」
「……ええか」
オタキラーは懐からスクロールを一枚抜いた。
二枚あったうちの一枚だ。
「よう見とき」
封を弾く。
「——〘宵灯〙」
白い光の球が、店の梁の下に浮かんだ。
棚の影が四方へ伸び、値札の細かい文字まで読めるようになる。シンが「おお」と声を上げた。
「明るいな!」
「せやろ。ほんで」
オタキラーは、指先で羊皮紙を掲げてみせた。
灰になりかけている。
「これ、もう無い」
「え」
「一回で一枚や。消したら終わり。点け直すのにもう一枚要る。今のは、あんたに見せるためだけに一枚燃やした」
「え、ええっ!? もったいない!」
「もったいないやろ。せやから覚えとけっちゅう話や」
彼は棚のランタンを指した。
「こっちは油や。点けて、消して、また点けられる。坑道で灯りを絶やさんのは、これの仕事や」
「じゃあ、スクロールは」
「全部消えたときのためや。それ以外では切らん」
棚から、ランタンが二つ下ろされた。
◇
「弓はどうする」
オタキラーが訊くと、アミアンは首を横に振った。
「要らないわ」
「中距離が空くで」
「私の魔光矢で足りる。矢の補充も、弦の張り替えも要らないもの」
「……ええなあ」
「矢代が要らんのは羨ましいわ。わいのは一発ごとに紙が燃える」
「あなたも詠唱すればいいじゃない」
彼の手が、値札の上で一瞬だけ止まった。
「……わいは、そういう流儀やないねん」
「そう」
アミアンは、それ以上訊かなかった。
訊かない代わりに、彼女の目は、しばらくそこにあった。
「そういや」
シンが棚を眺めながら言った。
「オタキラー、スクロールって自分で作れるんだろ。前に言ってたよな。それって買うより安いんじゃないのか」
「作れる術と、作れん術がある」
オタキラーは、棚の上のほうを顎で示した。専用紙の束が積んである。値札は見えなかった。見えないところに置くのは、そういう値段だからだ。
「あの紙と、魔法のインクと、触媒が要る。触媒っちゅうんは、術ごとに違う。たとえばな」
彼は指を一本立てた。
「雷閃を一枚拵えるとする。ありゃ第三階梯や。導電のええ銀粉と、雷性鉱石の精製粉が要る。この街は精錬所があるさかい、物はある。物はあるが」
「高い?」
「今のわいらの稼ぎで、二か月ぶんの賃金を全部そこへ突っ込んで、ようやく二枚や」
「に、二か月……」
「同じ金で静壁なら三枚。ただし両方は作れん。同じ財布から出るんやからな」
シンが、ぽかんと口を開けた。
「魔法って、金がかかるんだな……」
「なにを今さら」
◇
最後に残ったのは、麻縄だった。
太いのと細いのが、輪に巻かれて棚の一番下にある。ドレッシングがそれを爪先でつついた。
「ロープ、どうする」
誰も、すぐには答えなかった。
オタキラーは値札を見た。太いほうは、傷薬二人ぶんと同じ値だった。細いほうでも、携行食の三日ぶんに当たる。
袋の中身は、もう底が見えている。
「坑道は上下があるでな」
「あるけどさぁ。今回、浅いとこだけだろ?」
ドレッシングは、輪を軽く蹴った。
「梯子は坑道に据え付けてあるって話だし。降りるとこは降りられる。担ぐには重いんだよなぁ、これ」
「せやなあ」
「たぶん、要らないよな」
誰も、反対しなかった。
シーザーは修理代を勘定し、アンリは履物の紐を締め直し、アミアンは店の外を見ていた。シンは、傷薬の数を数えている。
オタキラーは、値札から目を離す。
一つずつである。どれも小さい。胴当てを二つに減らし、安物を買わず、灯りをランタンにし、弓を諦め、縄を置いた。どの判断にも理屈があり、どの理屈も間違っていなかった。
「ほな、出よか」
◇
坂を下りきった突き当たりに、それはあった。
石を組んだ大きな門構えの奥に、口が開いている。
人が吸い込まれていく穴、と果実売りは言った。そのとおりだった。装備を担いだ者が入り、担架が出てきて、また別の者が入っていく。入口の脇には詰所があり、板に人の名が並んでいた。戻った者の名を消すための板だ。消えていない名が、いくつかあった。
大迷坑の中からは、冷たい風が吹き上がり、体温を奪っていく。
秋の外気とは、種類の違う冷たさだった。動かない水の底のような、匂いのないそれが、下から上へ、六人を撫でて抜けていく。
オタキラーは、袋の口を握り直した。




