第四話 本物だ
明け方の坂道には、霜が降りていた。
石畳の窪みが白く縁取られ、踏むたびに、かすかな音を立てて崩れる。吐く息は日に日に白く濃くなっていく気がした。指の関節が固くて、シンは何度も掌を握っては開いた。
坑道の口に入って、十歩ほど下ったところで、それが消える。
冷たさは、まだある。だが種類が変わった。風が止み、息が白くなくなり、霜も、朝の匂いも、坂を吹き上がっていた乾いた風も、全部が後ろへ置き去りになった。
ここには、季節がなかった。
「うわ、暗いな」
「灯りは前後で二つ。前がドレッシング、後ろがシーザーや」
オタキラーの声が、思ったよりよく通った。天井が低いのだ。
「アミアンは中段。アンリはんは後ろから二番目。シンは——」
「前!」
「それでええ。ただし、灯りより前に出るな。あんたが影になったら全員が見えん」
「わかった!」
◇
最初の敵は、拍子抜けするほど呆気なかった。
人の膝ほどもある大鼠だ。それが、通路の奥から十数匹まとめて押し寄せてきた。
「うわ、多っ」
「シン、下がって! 広いところだと囲まれる」
アミアンの声に、シンは素直に下がった。
六人は、通路が狭まっている場所まで退いた。そこなら二匹ぶんの幅しかない。前に立ったシーザーが盾を斜めに構え、押し寄せる群れをそこで堰き止める。
あとは、順番に処理するだけだった。
シンが剣で二匹、シーザーが盾の縁で三匹、ドレッシングがナイフを投げるまでもなく踏み潰す。狭い場所では、数は数として働かない。
「なんだ、楽勝じゃないか」
「今のは、地形に助けられただけよ」
アミアンは剣を抜きもしなかった。
◇
四番坑の下りで、ドレッシングが手を上げた。
「灯り、絞れ」
「え?」
「あれ」
彼の指した先で、空気が動いていた。
最初、埃かと思った。だが埃は、光のあるほうへ集まってこない。
蛾だ。掌ほどの大きさで、翅に鈍い燐光を帯びている。それが十匹、二十匹と、どこからともなく湧いて、ランタンの周りへ渦を巻きはじめた。
「うわっ、なんだこれ! 顔に——」
「動くな。潰したら鱗粉が来る」
ドレッシングは、自分のランタンの覆いを下ろした。前方が一気に暗くなる。
「シーザー、あんたの灯りもだ」
「見えなくなるぞ」
「一瞬でいい。——アンリ、悪いけど、これ持って」
彼は腰から小さな灯りを外し、火を移して、アンリへ渡した。
「壁際まで持ってって、置いて、戻ってきて。ゆっくりでいい」
「……はい」
アンリが壁際へ寄り、小さな灯りを床へ置いて、離れる。
渦が、そちらへ動いた。
群れは律儀に明るいほうへ、明るいほうへ寄っていく。判断も迷いもない。しばらくして、ドレッシングが覆いを上げたときには、通路の中央は空いていた。
「行くぞ。急がず、まっすぐ」
六人は、壁際の灯りを置き去りにして進んだ。
「……あの灯り、どうすんの」
「捨てだよ、あんなもん」
「もったいなくない!?」
「油代と、シンの目玉と、どっちが高いんだよ」
オタキラーが後ろで「いや油代も高いで」と呟いたが、誰も拾わなかった。
◇
鉱殻蜥蜴は、音で分かった。
石を噛む音だ。かり、かり、と規則正しく続き、六人が近づくとぴたりと止まる。
通路の膨らんだ場所に、それはいた。
立ち上がれば人の背丈ほどの蜥蜴で、背中が異様に盛り上がっている。近づいて分かったのは、鉱石の欠片が、鱗のあいだに幾重にも食い込んで、殻を作っていた。
「うおおおっ!」
「シン——!」
止める間もなく、シンは踏み込んだ。
剣が、背へ落ちた。
金属を打つ音がして、刃が跳ね返り、手首が痺れる。
「かっっったい!」
「当たり前でしょう。鉱石を背負っているのよ」
「どうすんだよこれ!」
「シン。もう一度やって」
アミアンが、抜いた。
細身のレイピアの切っ先が、闇の中で下を向く。
「同じところを斬りなさい。効かなくていいから、そいつをこっちへ向けさせて」
「効かなくていいの!?」
「効かないほうがいいの」
シンは、もう一度突っ込んだ。
打つ。跳ね返る。蜥蜴が身を捩り、背の殻をこちらへ向けて、シンを追う形で体を回す。
その脇腹が、開く。
三度目に打ち込んだとき、蜥蜴が反転した。
太い尾が、床を薙ぐように振られた。シンの膝を刈る高さだった。避けられない。
「——〘護誓〙!」
割り込んだ盾に、淡い光が灯った。
尾が、そこへ当たる。鈍い音と、鉄の軋む音が重なった。光が散り、シーザーの足が石の床を半歩ぶん擦った。彼は歯を食いしばって踏みとどまり、そのまま盾を押し返した。
「シーザーどの!」
「……問題ない。一度きりだ。次は受けられん」
押し返された勢いで、蜥蜴の体がまた回った。
「そこ」
しゃがんでいたドレッシングが、ナイフの柄で床を叩いた。
「後ろ足の付け根。殻が届いてない。三本目の皺の下」
「見えたわ」
アミアンの体が沈んだ。
レイピアが、闇を裂いた。
「——〘雷刃〙」
細身の刃に、青白い筋が走った。
光は刃を離れず纏いついたまま、切っ先が皺の下へ吸い込まれた。レイピアは根元まで沈み——
蜥蜴の内側で、それが弾けた。
背の殻が、内から白く輝き、継ぎ目という継ぎ目から光が漏れ、四肢が硬直し、蜥蜴は横倒しになって、それきり動かなくなった。
「外が硬いなら、内側へ通せばいいのよ」
アミアンは刃を引き抜き、血を振って払った。
「すげぇ! 今の、なんて技!?」
「属性を乗せただけよ。触れないと通らないから、刺すしかないの」
「かっこいい……」
「シン様、こちらへ。手首を診ます」
◇
本物に会ったのは、三つ目の分岐だった。
匂いで分かった。
甘い。腐った果実に似た、喉の奥に張りつく湿った甘さ。
シンの足が、勝手に止まった。
「……この匂い」
「せやな」
オタキラーの声も硬かった。
光の縁の向こうで、影が揺れていた。三つ、四つ。腐肉を引きずる音。骨が石を打つ、乾いた音。
あの夜と、同じだ。
シンは剣を抜いた。抜いてから、自分の手が震えていることに気づいた。震えは恐怖からではなかった。もっと単純な、思い出しただけの反射だった。
「アンリさん」
「はい」
「あれ、幻じゃないよな」
「……はい」
アンリが杖を握り直した。
「あれは、本物です」
「本物」
シンは、その言葉を口の中で繰り返した。
あの夜、腐肉に見えていたのは、この娘だった。木の棒に見えていたのは、この杖だった。彼が全力で斬りつけたのは、幻の皮を被った仲間だった。
今度は、違う。
目の前のそれは、本物の死者だ。
「よし」
シンは、震えの止まった手で構えた。
「今度は、遠慮しなくていいってことだな」
「皆様に加護を——〘加護詞〙」
温かいものが、六人の背中を通り抜けた。
腐臭が、少しだけ遠のいた気がする。実際に薄れたのではない。怯む心のほうが、押さえられているのだ。
「——〘退骸〙」
アンリの杖の先から、薄い光が広がった。
不死者たちが、まぶしいものから逃れるように顔を背ける。斬るのでも焼くのでもない。触れたものが、揃って半歩、後ろへよろけた。それだけだ。倒れもしなければ、崩れもしない。
だが、隊列との間に、二歩ぶんの空きができた。
「シーザー、右!」
ドレッシングの声が飛んだ。
「承知した」
その二歩を、シーザーが埋める。
盾がスケルトンを横から弾き、返す剣が首の骨を断つ。ゾンビが二体、鈍い動きで腕を伸ばしてくるのを、シンが下から掬い上げるように斬った。硬い。生きた肉より重い。だが、確かに斬れた。
三体目を仕留めたところで、シンは足を止める。
崩れた骨の脇に、何かが転がっていた。
金槌だった。柄が朽ちて、頭だけが残っている。その隣に、胸当てが一つ。
小さい。シンの腰にも届かない背丈の者が着る大きさだった。
「……これ」
「触らんでええ」
オタキラーが、短く言った。
「拾わんでええ。片付けもせんでええ」
「でも」
「置いとき」
シンは、手を引っ込めた。
骨のいくつかが小柄なことに、彼はそのとき初めて気づいた。気づいて、それを口に出すのはやめた。
◇
粘体は、天井から落ちてきた。
半透明の塊が、シーザーの盾の上へ落ち、そのまま鎧の肩へ広がった。じゅう、と音がして、白い煙が上がる。
「ぬっ——」
「兄さん!」
「動かないで! 足元も!」
アンリの声が飛んだ。
シーザーの足元に、もう一つ落ちている。
「——〘堅歩〙!」
温かいものが、足の裏から膝へ通った。
シンは、それを自分の足でも感じた。石の上に薄く広がったスライムを踏んでも、足が滑らない。踏ん張りが効く。
「離れて! 斬らないで! 斬ると増えます!」
「増えんのかよ!」
六人は下がる。
それだけだった。スライムは追ってこられる速さを持っていない。距離を取れば、それで終わりだった。
ただ、シーザーの肩当ては、革の表が半分溶けていた。
「……修理代や」
オタキラーが呟いた。
◇
帰り道で、それは起きた。
支柱の傾いだ区画に差しかかったとき、頭上からぱらぱらと石が落ちてくる。
拳ほどの落石が三つ、四つ、通路の床で跳ねた。
その音に、奥の暗がりが反応する。
複数の足音が、一斉にこちらを向いた。まだ姿は見えない。だが、音の数が増えていく。三つ、五つ、七つ。
「多いわ」
「囲まれたら終わりだ。ここ、広すぎんだよ」
「——ええい、しゃあない」
オタキラーの手が、懐へ入った。
迷ったのは、一拍だった。
「〘静壁〙」
空気が、一枚硬くなった。
落石の音が、途中で消え、次に落ちた石も、床を打つ手前で音を失った。壁の向こうで石が跳ねているのが見えるのに、何も聞こえない。
奥の足音が、迷ったように止まった。止まって、それから、別の方向へ散っていった。
六人は息を殺したまま、その区画を通り抜ける。静壁の外へ出た途端、耳に音が戻ってきた。自分の靴音がやけに大きく聞こえる。
「助かった……」
「一枚や」
オタキラーは懐を叩いた。
乾いた音がした。中身が薄い音だった。
「一枚使うたで。覚えとき」
◇
地上へ出たとき、日は暮れていた。
外の空気が、頬に刺さった。冷たい。地下の冷たさとは違って、こちらは動いている。それが、たまらなくありがたかった。
ギルドの卓で、六人は紙を囲んだ。
ミルナが素材を検分し、値をつけ、硬貨を数えて滑らせてくる。鉱殻蜥蜴の殻が思いのほか高く売れて、シンが小さく歓声を上げた。
そのあと、オタキラーが別の紙を広げる。支出の紙だった。
彼は数字を並べていった。ランタンの油。囮に捨てた灯り。傷薬が二人ぶん。シーザーの肩当ての修理。溶けた革は張り替えになる。宿代が六人ぶんで四日分。そして、静壁が一枚。
「……あの、オタキラー」
「なんや」
「この、一番下の数字」
「見てのとおりや」
残ったのは、六人で割ったら一人ぶんが宿一泊にも足りない額だった。
「一日、命がけで潜って、これ?」
「そら、浅いとこやからな」
卓の向こうから、別の声が飛んできた。
同じ日に潜っていた別のパーティだった。四人組で、そのうち二人が包帯を巻いている。
「浅層は、そんなもんだよ」
年嵩の男が、笑いもせずに言った。
「稼ぎたきゃ、三つ下の層まで行くこったな。あそこの素材は値が二桁変わる。ま、そのぶん」
彼は、包帯の巻かれた仲間を顎で示した。
「こうなるがな」
「三つ下……」
シンは紙を見た。
一番下の、少ない数字を。
装備は、まだ足りていない。シーザーの肩当ては修理に出す。アンリの履物は買ったが、彼女の防具はまだ何もない。ロープも買っていない。
全部、あと少し金があれば済む話だった。
「……少し奥へ行けば、取り返せるんじゃないか」
誰が最初に言ったのか、あとになってシンは思い出せなかった。
自分だったかもしれないし、そうでないかもしれない。ただ、卓を囲んだ六人が、誰も反対しなかったことだけは覚えている。
「まあ、一つ下くらいならな」
「今日、危ないとこなかったし」
「無理はせんでな」
紙が畳まれ、硬貨が袋へ戻された。
◇
二日後、六人はまた坑道の口に立った。
装備は、ほとんど変わっていない。修理から戻った肩当てと、傷薬の補充だけだ。
「今日は下まで行くぞ!」
「はいはい」
先頭のランタンが灯り、六人は下りはじめた。
三つ目の分岐を過ぎ、前回の折り返し地点を越えて、さらに下る。空気が重くなり、足元の湿りが増していく。
シンは、順調だと思った。
実際、順調だった。前回よりも早く、深いところまで来ている。
だから彼は、頭上を見上げなかった。
六人が下を通り過ぎたあと、天井の岩の一つが、ほんのわずかに動いた。
ほんの一瞬だけ。




