第五話 灯りが消えた
ドレッシングは、先頭を歩くのが嫌いではなかった。
前が見えるからだ。逃げるとき、どこへ逃げるかを最初に知っているのは先頭の人間で、それは彼にとって、報酬より確かな安心だった。
前回の折り返しを越えて、二つ下の層。
「なあ。一つ下って言わなかったか」
ドレッシングは、前を向いたまま言った。
誰も答えない。誰も、足を止めない。
通路が広くなり、天井が高くなった。ランタンの光が上まで届かず、頭の上には闇が乗っている。足元は湿って、靴の底が石に貼りつくような音を立てた。
「目印、そろそろ打っとくか」
「どこに」
「分岐だ。今の三つは、まだ覚えてる」
彼はチョークを取り出しかけて、やめた。
残りが半分になっていた。買い足すのを、躊躇したから。
「……まあ、帰りは同じ道通るしな」
◇
最初の異変は、匂いでも音でもなかった。
光だった。
前方のランタンの光の輪が、天井のほうで滲んだ。
ドレッシングは足を止めかけた。滲む、という現象がおかしいことに、彼自身が引っかかったからだ。光は滲まない。何かが光を遮ったから、そう見えたのだ。
顔を上げようとした時、何かが頭上から落ちてきた。
黒い。
布のような、皮のような、湿って重いものが、彼の頭から肩へ、そのまま巻きついた。
ランタンが手から落ちる。
音が、しなかった。
落ちた音も、割れた音も、聞こえない。周りが真っ暗になり、同時に、耳の中に水を入れたような詰まり方をした。
「——っ、ぐ」
声を出そうとして、出せなかった。喉が締まっている。締めているのは、腕でも縄でもない。もっと面積の広いもので、全身がまとめて包まれていた。
息が、吸えない。
彼は暴れなかった。暴れる代わりに、右手を腰へ落とした。ナイフの位置は、目を閉じていても分かる。
抜く。
どこを刺すかは分からない。分からないなら、自分の体に沿って上へ滑らせるしかない。刃を返して、肩から首筋へ、外側を撫でるように押し上げた。
抵抗があった。
ずぶ、と沈む感触。
包みが、緩んだ。
息を吸った途端、周りの音が戻ってきた。
「——ドレッシング! どこだ!」
シンの声だった。
右から聞こえた。
だが、右にシンはいない。シンは後ろにいたはずだ。
ドレッシングは床に手をついた。落ちたランタンを探す。指が触れたのは、油の広がった床だった。火は消えている。
誰かが叫んだ。誰かが誰かの名を呼んだ。その声が、全部おかしな方向から来た。
闇の中では、声は真っ直ぐ来ない。壁に当たり、天井に当たり、方向を失って、あちこちから同時に聞こえる。
「アンリ! アンリはどこだ!」
「ここです! ここに——」
どこだ、そこは。
ドレッシングは膝をついたまま、頭を振った。方向を掴め。壁はどっちだ。
右手の先に、冷たい石があった。壁。
背中で壁を確かめて、彼は自分の位置を作った。それから、天井を見上げた。
見えない。だが、さっき光が滲んだ。
「——上だ!」
彼は叫んだ。
声が出るまでに、四つか五つ、心臓が鳴っていた。
「みんな上ぇ! 天井から来る!」
「〘宵灯〙——!」
白い光が、頭上に生まれる。
通路が、一息に明るくなった。
そして、見えた。
天井に、黒いものが張りついている。
鍾乳石のように垂れ下がった、幾つもの襞。そのうちの一つが、ゆっくりと剥がれかけている。剥がれかけた先端が、シーザーの真上にあった。
「シーザー、退け!」
シーザーは退かない。
退く代わりに、盾を頭上へ掲げた。
落ちてきた重みが、盾に当たって滑った。滑って、床に落ちた形のないものへ、アミアンのレイピアが即座に突き立った。
あとは、早い。
光の下では、それはただの鈍い獣だった。動きは遅く、狙いも大雑把で、天井から落ちるという一手を潰されれば、何もできない魔物だった。
シンが二度斬り、シーザーが盾で押さえ、それで終わった。
「……垂闇ね」
アミアンが、床の襞を爪先でつついた。
「話には聞いていたわ。天井に張りついて、鍾乳石のふりをするの。落ちてきて、体ごと巻きつく」
「先に言ってよ、そういうのは」
「上を見ない人に言っても仕方ないでしょう」
◇
誰も、すぐには口をきかなかった。
肩で息をする音が六つ。頭上には、オタキラーが灯した光の球が浮かんでいる。ドレッシングの落としたランタンは、油が全部こぼれて、火口も濡れていた。
「……前の灯り、死んだ」
「後ろは無事だ」
「一つだな」
ドレッシングは、指で首筋を拭ったが、ぬめりは取れなかった。
「怪我は」
「私は掠り傷です。シン様、腕を出してください」
「大丈夫だって」
「出してください」
オタキラーが、頭上の球を見上げる。
見上げて、懐へ手を入れ、中を探り、それから、その手を出した。
何も持っていない。
「……空や」
「え?」
「宵灯、これで打ち止め。次に真っ暗になったら、灯りは戻せん」
沈黙が落ちた。
「あの」
アンリが、遠慮がちに言った。
「私たち、今、どこにいるのでしょうか」
全員が、周りを見回す。
広い通路、左右に脇道が二つ、天井は高い。どれも、さっきまでとまるで同じに見えて、まるで同じ場所には見えなかった。
ドレッシングは、壁を探した。
自分が打ったはずの印を。
「……三つ目までは打った。そのあと、打ってない」
「打ってない?」
「削ったんだよ、チョーク。半分しか残ってなかったから」
誰も、彼を責めなかった。
責められないことが、かえって喉に詰まった。
◇
シンは、周りを見回していた。
みんなの顔が、頭上の光で白く見える。それがひどく静かなことに、彼は気づいていた。
誰も、次を言い出さない。
彼は、自分の中で数えてみた。
怪我は、掠り傷ばかりだ。誰も倒れていない。敵は倒した。灯りは戻った。ランタンは一つ残っている。
引き返す理由はある。目印がない。スクロールが尽きた。灯りが一つになった。
でも。
シンは、袋の重さを思い出した。
二日前、ギルドの卓で見た紙の、一番下の数字。六人で割ったら一泊にも足りなかった。
ここで引き返せば、今日は丸ごと赤字になる。素材はまだ何も採っていない。傷薬は使った。油も減った。帰ったら、また同じ紙を見て、また同じ数字が出る。
装備が買えない。
装備が買えないまま、次にもう一度潜る。そのときは、今日と同じ場所を、今日と同じ装備で通ることになる。
それは、今より安全だろうか。
違う。今より危ない。
アンリの防具は、まだ何も買えていない。彼女は僧衣のまま、六人の一番後ろを歩いている。シーザーの肩当ては溶けた革を張り替えただけだ。ドレッシングのナイフは、刃が半分寝たままだ。
全部、金だ。
金があれば、誰も危なくない。
——誰かを置いていくのは、絶対に嫌だ。
シンは顔を上げた。
「行ける」
自分の声が、思ったよりも大きく響いた。
通路が広いせいだったかもしれない。声は天井へ上がり、返ってきて、彼の耳へもう一度届いた。
「もう少しだけ奥まで行こう。素材を採って、それで戻る。何も採らずに帰ったら、今日が全部無駄になる」
誰も、すぐには答えなかった。
「装備、買わなきゃいけないだろ。アンリさんの防具も、まだなんだ。次に潜るときに同じ格好だったら、今日より危ない。今日、少しでも採って帰れば」
言いながら、シンは自分の考えが筋の通ったものだと確信していた。
実際、筋は通っていた。
「……まあなぁ」
ドレッシングだった。
彼は首の後ろを掻いていた。
「奥ってのが、どのくらい奥かによるけど」
「一区画だけ。無理はしない」
「……ん」
それは、賛成の音ではなかったが、反対の音でもなかった。
オタキラーは、指を折っていた。
油の残り。傷薬の残り。携行食。そして、もう数えるもののない懐。
「……行けん、とは言わん」
彼はそう言う。
言い方が、いつもと違った。いつもなら、値段を並べて反対する。今日は、並べなかった。
アミアンは黙ったまま、腕を組んで、脇道のほうを見ている。たっぷり数を数えられるほど動かず、それから、組んだ腕をほどいた。
「……先頭は私が行く」
それだけだった。
賛成でも、反対でもない返し方だった。
「よし!」
シンは剣の柄を叩いた。
「じゃあ行こう。一区画だけな!」
彼は歩き出す。
背中で、五人が動く気配がした。
五人とも、返事が半拍だけ遅かった。
その半拍に、シンは気づかない。
◇
一区画のつもりだった。
だが、脇道は途中でもう一度分かれ、その先で下りになり、下りきったところが行き止まりに見えて、実際には右へ折れていた。
引き返す判断を、誰も口にしないまま、六人は進んだ。
空気が変わったのは、その先だった。
湿りが消え、代わりに乾いた埃の匂いがした。天井がさらに高くなり、ランタンの光が壁に届かなくなる。
広間だ。
シンは足を止めた。
止めた自分の靴の音が、返ってこなかった。それだけ広い。
「……でかいな」
アミアンが片手を上げる。全員が止まった。
闇の中で、音がする。
かり、と何かが石を掻いた。
鉱殻蜥蜴の、規則正しい咀嚼ではなかった。もっと細い。もっと速い。爪だ。爪の先だけで石を掻く音が、広間の暗がりで一つ、鳴った。
それから、二つ。
三つ。
「……アンリ」
アミアンの声が、低くなった。
「あれが見える?」
アンリの答えは、掠れていた。
「屍喰いです」
爪音は、まだ増えていた。




