第六話 その手は、届かなかった
アミアンは、爪音の数を数えていた。
七つまで数えて、やめた。それ以上は数えても意味がない。数より、位置のほうが重要だった。
右手前に三。正面奥に四。まだ動いていないのが、左の壁際にいくつか。
彼女はランタンの光を背にして立つ。前へ出るときは、必ず光を背負う。自分の影を敵の側へ落とすためだ。長く、そうしてきた。
「隊列。ランタンは動かさないで」
「アミアン、下がれ! 俺が前に——」
「あなたは私の右。半歩下がって」
シンが素直に従ったのは、意外だった。
この男は、走り出さないことを覚えはじめている。
最初の一体が、光の中へ入ってきた。
痩せている。人の形をしているのに、関節の曲がる向きが少し違う。皮膚は灰色で、爪だけが不自然に長く、その爪先が濡れて光っていた。
速い。
アミアンのレイピアが、突き出された腕を横から払った。手応えが軽い。骨が細いのだ。だが、払った腕はすぐに戻ってきた。痛みで動きが鈍らない。
「爪に触れないで! 麻痺します!」
アンリの声が、後ろから飛んだ。
二体目。三体目。
四体目が来たとき、正面の闇が丸ごと動いた。
群れだ。奥から一斉に来る。
「オタキラー!」
「あいよ」
彼の声は、いつもと変わらなかった。
封を弾く乾いた音。
「〘雷閃〙」
白い線が、闇を真っ直ぐに裂く。
音は、遅れて来た。
広間の空気そのものを叩き割るような炸裂音が、天井から跳ね返って何度も鳴る。線が通った跡に残ったのは、焼け焦げた匂いと、崩れた影がいくつか。
残りが、後退した。
「今のうちに退がるで! あれは一枚こっきりや!」
「戻るわよ。来た道を——」
言いかけたアミアンの言葉が、途中で止まった。
後退した群れの向こうから、別の音が来ていた。
新しい爪音だ。数が違う。
第二群だった。
◇
「オタキラー、もう一発!」
「無い」
オタキラーの返事は短く、懐へ手を入れて何かを確かめている。
入れて、探って、一枚を引き出した。
「……こら効きが悪いで。言うとくけどな」
「使って」
「〘鎮送〙」
白い光が、広間の床を這う。
アミアンは、それが押しているのを見た。
押している。確かに押してはいる。だが、群れは半歩ぶんも下がらない。前列の数体が身をよじり、嫌がるように顔を背け、それだけで、また前へ出てきた。
「浅いわ」
「せやから言うたやろ。本来こら僧侶の領分や」
オタキラーは、燃え尽きた紙を投げ捨てた。
「わいがやると、高うつくうえに効かん」
退路は、まだ開いていない。
群れは広間の出口の手前で厚みを増していた。あそこを抜けなければ、来た道へ戻れない。
アミアンは、数えた。
自分が斬れるのは、一度に一体。シーザーの盾で押せるのが二体ぶん。シンが右で二体。ドレッシングのナイフは牽制にはなるが、止まらない。
足りない。
◇
アンリは、後ろから見ていた。
前の五人の背中を、彼女はよく知っている。誰がどこに立つか、誰の肩が下がると危ないか、この街へ来てから覚えた。
いま、その背中の並びが、崩れかけている。
オタキラー様の術は、押しきれなかった。
当たり前だ。あれは魔法使いの術で、退魔は自分の領分なのだから。
彼女の退骸なら、押せる。
押せる、という確信が、彼女にはあった。国を出てから一月あまり、魔物と戦う場面は数回あった。その手応えは、杖を通してはっきりと残っている。
ただ、届かない。
ここからでは遠すぎる。杖の届く距離ではなく、術の届く距離が。前へ出なければ、あの群れの前列には掛からない。
アンリは、周りを見た。
兄は前で盾を構えている。アミアン様は右で斬っている。シン様は左。ドレッシング様は後ろで刃を投げている。
誰も、彼女に「行け」とは言わなかった。
誰も言わないから、自分で決めるのだと思った。
二歩。
いいえ、四歩。
四歩前へ出れば、届く。四歩なら、兄の盾からもそれほど離れない。
彼女は杖を握り直した。
息を吸う。
「——アンリ!?」
兄の声が、背中に当たる。
届いた。ちゃんと聞こえた。
でも、彼女はもう踏み出していた。
◇
アミアンは、走る僧衣を視界の端で捉えた。
「アンリ!」
叫んだ。声は届いたはずだ。振り返らなかっただけだ。
距離が、開いていく。
シーザーが盾を回そうとした。だが彼の目の前には二体いる。ここで盾を引けば、その二体が丸ごと隊列へ入る。
「アンリ、戻れ!」
「——〘退骸〙!」
杖の先から、光が広がる。
今度は、押した。
群れの前列が揃って二歩、後ろへ下がる。ぽっかりと空きができ、その先に、来た道の口が見えた。
退路が、開く。
アンリが作った退路だった。
同時に、彼女は隊列から四歩、離れている。
左の壁際にいた個体が、動く。
アミアンは、それを見た。見て、動いた。だが彼女とアンリの間には、まだ二体いる。抜けるのに、二回斬る必要がある。
一体目を斬った。
「シーザー!」
「——〘護誓〙!」
シーザーは盾を掲げた。
掲げたのは、彼自身の目前だった。淡い光が盾に灯り、飛びかかってきた個体の爪を弾き、その衝撃で彼の足が滑る。
彼の術は、彼の盾にしか掛からない。
妹は、四歩向こうにいる。
オタキラーの手が、懐へ入っていた。
スクロールを一枚、掴んでいる。
彼はそれを引き出しかけて——止まった。
視線が動いた。自分からアンリまでの距離。アンリと壁の距離。仲間同士の間隔。
守りの輪は、掛けた相手の周りにしか張れない。ここから投げても、光が広がる前に爪のほうが早い。
オタキラーの唇が、わずかに動く。
何かを唱えかけて、途中で噛み殺した形だった。
彼は自分と壁の距離をもう一度測り、六人の間隔を見て、そして、手を止める。
スクロールは、懐へ戻された。
アミアンが二体目を斬り抜けたとき、爪はもう、アンリの背中に届いていた。
◇
シンが見たのは、僧衣が沈むところだった。
叫んだ気がする。何と叫んだかは覚えていない。
彼は走った。誰より遠くにいたのに、途中の一体を肩から突き飛ばして、彼女のもとへ辿り着く。
アンリは、うつ伏せに倒れている。
背中が、裂けていた。
僧衣の布が三筋に割れ、その下から、赤い色が急に広がっていく。彼女は動かなかった。指先だけが、握った杖の上で二度、震えた。
「アンリさん! アンリさん!」
返事はなかった。
「シーザーどの、アンリを——」
「シーザー! 前を見て!」
アミアンの声が、二人を引き剥がした。
群れは、まだいた。
そこから先のことを、シンは順序立てて思い出せない。
覚えているのは、断片だけだ。
自分がアンリを抱え上げたこと。思ったより軽かったこと。血が腕を伝って、鎧の内側まで入ってきたこと。
アミアンが先頭で退路を維持し続けたこと。シーザーが殿で、後ろ向きに歩きながら盾を振り続けたこと。ドレッシングが「右! 次、左!」と道を叫び続けたこと。オタキラーが誰よりも早く走り、途中で二度、振り返ってこちらを待ったこと。
六人は、自力で広間を出た。
誰も置いてこなかった。
◇
帰り道は、長かった。
目印がないから、ドレッシングは記憶だけで道を選んだ。分岐のたびに立ち止まり、迷い、選び、進んだ。
三つ目の分岐で、彼が動かなくなった。
「……どっちだ。ここ、来たか?」
「来た道と違うわ」
「じゃあどっちだよ!」
シンの腕の中で、アンリの呼吸が浅くなっていた。
速い。短い。時々、止まりかける。
そのとき、上の暗がりから声が降ってきた。
「右だ」
六人が顔を上げた。
傾いだ支柱の向こう、一段高い岩棚に、ドワーフの老人が立っていた。片手に鶴嘴。片手に灯り。
「右へ行って、二つ目を左。そこから上りだ。梯子が三本ある」
「あんた——」
「行け」
男は、それ以上言わない。
助けにも来なかった。担架を出すとも言わなかった。ただ、道だけを示して、灯りを掲げたまま立っている。
六人は走った。
◇
地上へ出たのは、夜明け前だった。
坑道の口から外へ一歩出た途端、冷たい風が真正面から来た。
外の風だ。動いている。乾いていて、秋の匂いがする。
その風が、アンリの背中に当たった。
腕の中で、彼女の体が小さく震えた。
「毛布! 誰か、毛布——!」
詰所の男が走り出し、他の男が誰かを呼んで人を集め、担架が来た。
アンリを載せるとき、シンの腕はなかなか離れなかった。
◇
治療院は、坂の中腹にあった。
担架が中へ運び込まれ、扉が閉まる。
シンは、その扉の前に立っていた。
右手が、剣の柄を握ったまま外れない。指を開こうとしても、開き方を忘れたように固まっている。手の甲に、乾いた血がこびりついている。
やがて彼は石段の上に座り込み、そのまま動かなくなった。
「シン」
オタキラーの声がした。
返事をしようと思った。
「……ん」
声が出るまでに、一拍あった。
「傷薬、こっち回すで。あんたの腕もな」
「……うん」
誰も、彼を責めない。
オタキラーは値段の話をしなかった。ドレッシングは「あんたが言ったからだろ」と言わなかった。シーザーは、妹を運んだシンの腕を、一度だけ黙って叩いただけだった。アミアンは何も言わずに、剣の血を拭っている。
誰も、責めない。
それが、いちばん効いた。
シンは、自分がなぜ「行ける」と言ったかを、正確に覚えていた。
誰も置いていきたくなかったからだ。
装備が買えないまま次に潜れば、誰かが危ない。だから今日、少しでも稼いで帰りたかった。仲間のためだった。誰も切り捨てないための判断だった。
その判断が、回復役を一人で前へ出させた。
彼女は、彼が作った状況の中で、自分で判断して走ったのだ。
誰も彼女を助けられなかった。
手は、届かなかったのだ。
剣を握った右手を見た。それは、まだ開かない。
◇
扉が開いたのは、夜半を過ぎてからだった。
出てきたのはシーザーで、彼は敷居のところで一度振り返り、それから、シンを手招きする。
中には、藁を敷いた寝床が四つ並んでいた。アンリは、いちばん奥だ。
その枕元に、女が座っていた。
灰色がかった髪をひとつに束ね、洗いざらしの前掛けをつけている。膝の上で布を絞り、桶の縁で水を切って、アンリの額へ当てた。当てて、少し待って、また桶へ戻す。
何度も繰り返しているのだと、見ていれば分かった。
シンが入ってきても、彼女は顔を上げなかった。布を替え、脈を見て、包帯の端を指で確かめている。手つきに迷いがない。
「あの」
「もう少し、熱が下がってからにしましょうね」
彼女は、アンリに言った。
それから、ようやくシンを見た。
「お連れの方ですか」
「はい」
「ご心配なく、とは申しません。ただ、いまは落ち着いております」
勧める椅子がなかったので、彼女は寝床の脇の床を掌で一度払った。
「お座りになるなら、こちらへ」
◇
夜が、そのまま過ぎた。
女は、一度も寝床を離れなかった。
水を替えるとき以外は、ずっとそこにいる。アンリが小さく呻けば布を替え、震えれば毛布の端を押さえ、汗が引けば包帯を巻き直した。誰に指示されたわけでもない。誰が見ているわけでもない。
シーザーは、その隣で膝をついたまま動かなかった。
シンは何度か眠りかけて、そのたびに目を覚ました。目を覚ますと、女はまだ同じ姿勢で座っている。
空が白みはじめる頃、アンリの息が、はっきりと深くなった。
女は額の布をもう一度取り替えて、それから、初めて背を伸ばした。
「もう大丈夫でしょう。あとは、寝かせてさしあげてください」
シーザーが立ち上がった。
立ち上がって、深く頭を下げた。鎧を着た男が腰から折るようにする礼で、シンは、彼がそこまでするのを見たことがなかった。
「……感謝する。何と申し上げてよいか」
「当たり前のことです」
女は、そう言った。
謙遜の響きすらなかった。水を汲んだ、布を絞った、それと同じ調子だった。
「あの、お名前は」
シンが訊いた。
訊かれたから、彼女は答えた。
「サディアと申します」
それだけである。
桶を持ち上げ、汚れた布を抱えて、彼女は勝手口のほうへ出ていく。礼を待たない。名乗ったことを覚えておいてほしそうな素振りも、なかった。
シンは、しばらく戸口を見ていた。
自分は、あの人に何も返していない。
◇
外へ出ると、空が白みはじめていた。
足音が、坂を上ってきた。石段の前で止まる。
ガレスだった。
彼は、シンに何も訊かない。中の様子も訊かず、慰めもせず、隣に座りもしない。
ただ、通りすがりに一度だけ足を止めて、言った。
「腕の話じゃない。段取りの話だ」
それだけである。
男は、そのまま坂を上っていった。
シンは、答えなかった。




