↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
12/28

第六話 その手は、届かなかった

 アミアンは、爪音の数を数えていた。

 七つまで数えて、やめた。それ以上は数えても意味がない。数より、位置のほうが重要だった。

 右手前に三。正面奥に四。まだ動いていないのが、左の壁際にいくつか。

 彼女はランタンの光を背にして立つ。前へ出るときは、必ず光を背負う。自分の影を敵の側へ落とすためだ。長く、そうしてきた。


「隊列。ランタンは動かさないで」

「アミアン、下がれ! 俺が前に——」

「あなたは私の右。半歩下がって」


 シンが素直に従ったのは、意外だった。

 この男は、走り出さないことを覚えはじめている。

 最初の一体が、光の中へ入ってきた。

 痩せている。人の形をしているのに、関節の曲がる向きが少し違う。皮膚は灰色で、爪だけが不自然に長く、その爪先が濡れて光っていた。

 速い。

 アミアンのレイピアが、突き出された腕を横から払った。手応えが軽い。骨が細いのだ。だが、払った腕はすぐに戻ってきた。痛みで動きが鈍らない。


「爪に触れないで! 麻痺します!」


 アンリの声が、後ろから飛んだ。

 二体目。三体目。

 四体目が来たとき、正面の闇が丸ごと動いた。

 群れだ。奥から一斉に来る。


「オタキラー!」

「あいよ」


 彼の声は、いつもと変わらなかった。

 封を弾く乾いた音。


「〘雷閃〙(ライトニングボルト)」


 白い線が、闇を真っ直ぐに裂く。

 音は、遅れて来た。

 広間の空気そのものを叩き割るような炸裂音が、天井から跳ね返って何度も鳴る。線が通った跡に残ったのは、焼け焦げた匂いと、崩れた影がいくつか。

 残りが、後退した。


「今のうちに退がるで! あれは一枚こっきりや!」

「戻るわよ。来た道を——」


 言いかけたアミアンの言葉が、途中で止まった。

 後退した群れの向こうから、別の音が来ていた。

 新しい爪音だ。数が違う。

 第二群だった。


       ◇


「オタキラー、もう一発!」

「無い」


 オタキラーの返事は短く、懐へ手を入れて何かを確かめている。

 入れて、探って、一枚を引き出した。


「……こら効きが悪いで。言うとくけどな」

「使って」

「〘鎮送〙《ディスペル・アンデッド》」


 白い光が、広間の床を這う。

 アミアンは、それが押しているのを見た。

 押している。確かに押してはいる。だが、群れは半歩ぶんも下がらない。前列の数体が身をよじり、嫌がるように顔を背け、それだけで、また前へ出てきた。


「浅いわ」

「せやから言うたやろ。本来こら僧侶の領分や」


 オタキラーは、燃え尽きた紙を投げ捨てた。


「わいがやると、高うつくうえに効かん」


 退路は、まだ開いていない。

 群れは広間の出口の手前で厚みを増していた。あそこを抜けなければ、来た道へ戻れない。

 アミアンは、数えた。

 自分が斬れるのは、一度に一体。シーザーの盾で押せるのが二体ぶん。シンが右で二体。ドレッシングのナイフは牽制にはなるが、止まらない。

 足りない。


       ◇


 アンリは、後ろから見ていた。

 前の五人の背中を、彼女はよく知っている。誰がどこに立つか、誰の肩が下がると危ないか、この街へ来てから覚えた。

 いま、その背中の並びが、崩れかけている。

 オタキラー様の術は、押しきれなかった。

 当たり前だ。あれは魔法使いの術で、退魔は自分の領分なのだから。

 彼女の退骸なら、押せる。

 押せる、という確信が、彼女にはあった。国を出てから一月あまり、魔物と戦う場面は数回あった。その手応えは、杖を通してはっきりと残っている。

 ただ、届かない。

 ここからでは遠すぎる。杖の届く距離ではなく、術の届く距離が。前へ出なければ、あの群れの前列には掛からない。

 アンリは、周りを見た。

 兄は前で盾を構えている。アミアン様は右で斬っている。シン様は左。ドレッシング様は後ろで刃を投げている。

 誰も、彼女に「行け」とは言わなかった。

 誰も言わないから、自分で決めるのだと思った。

 二歩。

 いいえ、四歩。

 四歩前へ出れば、届く。四歩なら、兄の盾からもそれほど離れない。

 彼女は杖を握り直した。

 息を吸う。


「——アンリ!?」


 兄の声が、背中に当たる。

 届いた。ちゃんと聞こえた。

 でも、彼女はもう踏み出していた。


       ◇


 アミアンは、走る僧衣を視界の端で捉えた。


「アンリ!」


 叫んだ。声は届いたはずだ。振り返らなかっただけだ。

 距離が、開いていく。

 シーザーが盾を回そうとした。だが彼の目の前には二体いる。ここで盾を引けば、その二体が丸ごと隊列へ入る。


「アンリ、戻れ!」

「——〘退骸〙(リパルス)!」


 杖の先から、光が広がる。

 今度は、押した。

 群れの前列が揃って二歩、後ろへ下がる。ぽっかりと空きができ、その先に、来た道の口が見えた。

 退路が、開く。

 アンリが作った退路だった。

 同時に、彼女は隊列から四歩、離れている。

 左の壁際にいた個体が、動く。

 アミアンは、それを見た。見て、動いた。だが彼女とアンリの間には、まだ二体いる。抜けるのに、二回斬る必要がある。

 一体目を斬った。


「シーザー!」

「——〘護誓〙(ガーディアンヴォウ)!」


 シーザーは盾を掲げた。

 掲げたのは、彼自身の目前だった。淡い光が盾に灯り、飛びかかってきた個体の爪を弾き、その衝撃で彼の足が滑る。

 彼の術は、彼の盾にしか掛からない。

 妹は、四歩向こうにいる。

 オタキラーの手が、懐へ入っていた。

 スクロールを一枚、掴んでいる。

 彼はそれを引き出しかけて——止まった。

 視線が動いた。自分からアンリまでの距離。アンリと壁の距離。仲間同士の間隔。

 守りの輪は、掛けた相手の周りにしか張れない。ここから投げても、光が広がる前に爪のほうが早い。

 オタキラーの唇が、わずかに動く。

 何かを唱えかけて、途中で噛み殺した形だった。

 彼は自分と壁の距離をもう一度測り、六人の間隔を見て、そして、手を止める。

 スクロールは、懐へ戻された。

 アミアンが二体目を斬り抜けたとき、爪はもう、アンリの背中に届いていた。


       ◇


 シンが見たのは、僧衣が沈むところだった。

 叫んだ気がする。何と叫んだかは覚えていない。

 彼は走った。誰より遠くにいたのに、途中の一体を肩から突き飛ばして、彼女のもとへ辿り着く。

 アンリは、うつ伏せに倒れている。

 背中が、裂けていた。

 僧衣の布が三筋に割れ、その下から、赤い色が急に広がっていく。彼女は動かなかった。指先だけが、握った杖の上で二度、震えた。


「アンリさん! アンリさん!」


 返事はなかった。


「シーザーどの、アンリを——」

「シーザー! 前を見て!」


 アミアンの声が、二人を引き剥がした。

 群れは、まだいた。

 そこから先のことを、シンは順序立てて思い出せない。

 覚えているのは、断片だけだ。

 自分がアンリを抱え上げたこと。思ったより軽かったこと。血が腕を伝って、鎧の内側まで入ってきたこと。

 アミアンが先頭で退路を維持し続けたこと。シーザーが殿で、後ろ向きに歩きながら盾を振り続けたこと。ドレッシングが「右! 次、左!」と道を叫び続けたこと。オタキラーが誰よりも早く走り、途中で二度、振り返ってこちらを待ったこと。

 六人は、自力で広間を出た。

 誰も置いてこなかった。


       ◇


 帰り道は、長かった。

 目印がないから、ドレッシングは記憶だけで道を選んだ。分岐のたびに立ち止まり、迷い、選び、進んだ。

 三つ目の分岐で、彼が動かなくなった。


「……どっちだ。ここ、来たか?」

「来た道と違うわ」

「じゃあどっちだよ!」


 シンの腕の中で、アンリの呼吸が浅くなっていた。

 速い。短い。時々、止まりかける。

 そのとき、上の暗がりから声が降ってきた。


「右だ」


 六人が顔を上げた。

 傾(かし)いだ支柱の向こう、一段高い岩棚に、ドワーフの老人が立っていた。片手に鶴嘴(つるはし)。片手に灯り。


「右へ行って、二つ目を左。そこから上りだ。梯子が三本ある」

「あんた——」

「行け」


 男は、それ以上言わない。

 助けにも来なかった。担架を出すとも言わなかった。ただ、道だけを示して、灯りを掲げたまま立っている。

 六人は走った。


       ◇


 地上へ出たのは、夜明け前だった。

 坑道の口から外へ一歩出た途端、冷たい風が真正面から来た。

 外の風だ。動いている。乾いていて、秋の匂いがする。

 その風が、アンリの背中に当たった。

 腕の中で、彼女の体が小さく震えた。


「毛布! 誰か、毛布——!」


 詰所の男が走り出し、他の男が誰かを呼んで人を集め、担架が来た。

 アンリを載せるとき、シンの腕はなかなか離れなかった。


       ◇


 治療院は、坂の中腹にあった。

 担架が中へ運び込まれ、扉が閉まる。

 シンは、その扉の前に立っていた。

 右手が、剣の柄を握ったまま外れない。指を開こうとしても、開き方を忘れたように固まっている。手の甲に、乾いた血がこびりついている。

 やがて彼は石段の上に座り込み、そのまま動かなくなった。


「シン」


 オタキラーの声がした。

 返事をしようと思った。


「……ん」


 声が出るまでに、一拍あった。


「傷薬、こっち回すで。あんたの腕もな」

「……うん」


 誰も、彼を責めない。

 オタキラーは値段の話をしなかった。ドレッシングは「あんたが言ったからだろ」と言わなかった。シーザーは、妹を運んだシンの腕を、一度だけ黙って叩いただけだった。アミアンは何も言わずに、剣の血を拭っている。

 誰も、責めない。

 それが、いちばん効いた。

 シンは、自分がなぜ「行ける」と言ったかを、正確に覚えていた。

 誰も置いていきたくなかったからだ。

 装備が買えないまま次に潜れば、誰かが危ない。だから今日、少しでも稼いで帰りたかった。仲間のためだった。誰も切り捨てないための判断だった。

 その判断が、回復役を一人で前へ出させた。

 彼女は、彼が作った状況の中で、自分で判断して走ったのだ。

 誰も彼女を助けられなかった。

 手は、届かなかったのだ。

 剣を握った右手を見た。それは、まだ開かない。


       ◇


 扉が開いたのは、夜半を過ぎてからだった。

 出てきたのはシーザーで、彼は敷居のところで一度振り返り、それから、シンを手招きする。

 中には、藁を敷いた寝床が四つ並んでいた。アンリは、いちばん奥だ。

 その枕元に、女が座っていた。

 灰色がかった髪をひとつに束ね、洗いざらしの前掛けをつけている。膝の上で布を絞り、桶の縁で水を切って、アンリの額へ当てた。当てて、少し待って、また桶へ戻す。

 何度も繰り返しているのだと、見ていれば分かった。

 シンが入ってきても、彼女は顔を上げなかった。布を替え、脈を見て、包帯の端を指で確かめている。手つきに迷いがない。


「あの」

「もう少し、熱が下がってからにしましょうね」


 彼女は、アンリに言った。

 それから、ようやくシンを見た。


「お連れの方ですか」

「はい」

「ご心配なく、とは申しません。ただ、いまは落ち着いております」


 勧める椅子がなかったので、彼女は寝床の脇の床を掌で一度払った。


「お座りになるなら、こちらへ」


       ◇


 夜が、そのまま過ぎた。

 女は、一度も寝床を離れなかった。

 水を替えるとき以外は、ずっとそこにいる。アンリが小さく呻けば布を替え、震えれば毛布の端を押さえ、汗が引けば包帯を巻き直した。誰に指示されたわけでもない。誰が見ているわけでもない。

 シーザーは、その隣で膝をついたまま動かなかった。

 シンは何度か眠りかけて、そのたびに目を覚ました。目を覚ますと、女はまだ同じ姿勢で座っている。

 空が白みはじめる頃、アンリの息が、はっきりと深くなった。

 女は額の布をもう一度取り替えて、それから、初めて背を伸ばした。


「もう大丈夫でしょう。あとは、寝かせてさしあげてください」


 シーザーが立ち上がった。

 立ち上がって、深く頭を下げた。鎧を着た男が腰から折るようにする礼で、シンは、彼がそこまでするのを見たことがなかった。


「……感謝する。何と申し上げてよいか」

「当たり前のことです」


 女は、そう言った。

 謙遜の響きすらなかった。水を汲んだ、布を絞った、それと同じ調子だった。


「あの、お名前は」


 シンが訊いた。

 訊かれたから、彼女は答えた。


「サディアと申します」


 それだけである。

 桶を持ち上げ、汚れた布を抱えて、彼女は勝手口のほうへ出ていく。礼を待たない。名乗ったことを覚えておいてほしそうな素振りも、なかった。

 シンは、しばらく戸口を見ていた。

 自分は、あの人に何も返していない。


       ◇


 外へ出ると、空が白みはじめていた。

 足音が、坂を上ってきた。石段の前で止まる。

 ガレスだった。

 彼は、シンに何も訊かない。中の様子も訊かず、慰めもせず、隣に座りもしない。

 ただ、通りすがりに一度だけ足を止めて、言った。


「腕の話じゃない。段取りの話だ」


 それだけである。

 男は、そのまま坂を上っていった。

 シンは、答えなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。