第七話 もう一度、支度から
アンリは、三日目に目を覚ました。
命に別状はない、と治療院の司祭は言った。ただし背中の傷は深く、走れるようになるまで十日はかかる。無理をすれば、傷は開く。
シンは、その話を廊下で聞いた。
聞いて、頷いて、それから、廊下の椅子に座りこんだ。
座ったまま、しばらく立てなかった。
◇
オタキラーが来たのは、その日の夕方だった。
彼は隣に座って、懐から紙を出した。帳面の切れ端だった。
「これ、見とき」
数字が並んでいた。
あの日の残量だ。宵灯、無し。静壁、無し。雷閃、無し。鎮送、無し。
その下に、もう一行あった。
守輪、一。
「切らんかった」
「……なんで」
「届かんかったからや」
オタキラーは、紙の端を指で弾いた。
「守りの輪は、掛けた相手の周りにしか張れん。あの距離からやと、光が広がる前に爪が届く。わいはそれを、その場で測って、手ぇ止めた」
「……」
「ええか、シン。あんたの判断が悪かったんとちゃう」
彼は紙を折って、シンの膝の上へ置いた。
「わいの手札が、届かんかっただけや」
「でも、俺が」
「わいが、や」
オタキラーは立ち上がった。
「持っとったのに使えんかったんや。それはわいの勘定違いやろ。あんたが背負う数字とちゃう」
彼は、そのまま行ってしまった。
シンは、膝の上の紙を見た。
守輪、一。
無理した結果、残ったものの数字だった。
◇
ドレッシングは、四日目の夜に宿の部屋で言った。
彼は寝台に寝そべって、天井を見ていた。シンが同じ部屋にいることは分かっているはずなのに、こちらを見ないままだった。
「あのさぁ」
「……ん」
「俺、チョーク削ったんだよ」
「え」
「あの日。買い足すのやめた。半分残ってりゃ足りるだろって思って」
彼は寝返りを打った。
「足りなかったんだよなぁ。三つ目で切れた」
「それは、俺が奥へ——」
「帰り道を決めてないのが悪い」
ドレッシングの声は、いつもより短かった。
「進むかどうかの話じゃない。進むなら進むで、どこまで来たか分かるようにしとくのが盗賊の仕事だ。俺、それをサボった」
彼は、ようやくこちらを向いた。
「次から、帰り道は俺が決める。あんたが行くって言っても、俺が印を打てなくなったらそこで終わり。それでいいか」
シンは、返事をするのに一拍かかった。
「……いいのか、それで」
「いいも悪いも、そういう役だろ。俺」
◇
シーザーは、六日目の朝に、教会の階段で言った。
彼は毎朝そこにいた。妹の代わりに祈っているのではなかった。手のひらを重ねて、光を灯そうとしては、消していた。
「大地の神よ」
声が低い。
彼の掌に、ぼんやりとした光が生まれ、二つ数えるあいだだけ持って、消えた。
「……まだ、保たん」
「シーザーどの」
「貴殿か」
彼は掌を握って開いた。
「拙いものだ。妹の代わりにはならん。だが、止血くらいならいずれできる。あの日、私は妹の背中を見ていることしかできなかった」
彼は階段に腰を下ろした。
「一つ、決めたことがある」
「はい」
「次からは、前は私が立つ」
シーザーは、まっすぐ前を向いていた。
「盾は私の仕事だ。誰の前に立つかは、私が決める。——貴殿は、決めろ」
「決める?」
「進むか、退くか。どこで退くか。それを決めるのは、前の人間ではない。全体を見ている人間だ」
彼は立ち上がって、鎧の埃を払った。
「私は、前だけを見る。貴殿は、私が見ていないところを見ていてくれ」
◇
アミアンは、七日目に、たった一言だけ言った。
単独で受けた依頼からギルドへ戻り、報酬を数えて、それをそのまま六人の袋へ入れているところである。
シンが礼を言おうとしたら、先に言われた。
「次は、私が止める」
「え?」
「あの日、私は止めなかった」
彼女は袋の紐を結んだ。
「先頭は私が行く、とだけ言った。反対でも賛成でもない言い方をした。……あれは、逃げよ」
「アミアンさんのせいじゃ」
「私の落ち度よ」
彼女は、それきり階段を上がっていく。
シンは、しばらく袋を見ていた。
中身が、朝より重かった。
◇
あの婦人は、二日に一度、治療院へ顔を出した。
薬草の袋と、煮た芋を置いていく。長居はしない。シンが礼を言うと、当たり前のことです、と言って帰った。
◇
十日目に、アンリが起き上がれるようになった。
寝台の背に枕を重ね、上体を起こして、彼女は六人を迎えた。頬の色はまだ悪い。だが、目はいつもどおりだった。
「皆様、ご心配をおかけしました」
「アンリさん……その」
シンは、そこで言葉に詰まった。
十日、考えていた。何と言うべきかを。
謝るのは違う気がした。謝れば、彼女の背中の傷が、自分の失敗の証拠になってしまう。彼女が自分で選んだことを、自分の失敗の中へ回収してしまう。
かといって、謝らないでいるのも違った。
結局、口から出たのは中途半端な音だった。
「……俺が、行けるって言ったから」
「シン様」
アンリは、両手を膝の上で組んでいた。
「一つだけ、申し上げてよろしいですか」
「はい」
「私が前へ出たのは、私が決めたことです」
部屋が、静かになった。
「誰にも命じられていません。兄にも、シン様にも。あのとき、退路を作れるのは私の術だけでした。届かせるには前へ出るしかありませんでした。ですから、出ました」
「でも、あんな状況になったのは」
「はい。あの場所へ進んだのは、シン様の判断です」
彼女は、そこをはっきりと認めた。
「けれど、そこから先の四歩は、私の判断です。それは、私のものです」
シンは、彼女の顔を見た。
責める色は、どこにもなかった。庇う色も、なかった。ただ、自分の持ち物を返してくれと言っているだけの目だった。
「……取り上げるな、ってことか」
「はい」
アンリは、少しだけ笑った。
「その代わり、次はもっと早く言ってください。前へ出ろ、でも、下がれ、でも。私は、指示があるほうが早く動けます」
◇
シンが立ったのは、そのあとだった。
治療院の一階の卓に、六人が集まる。アンリは椅子に座り、背中に枕を当てていた。
シンは、卓の上に紙を置く。
ドレッシングが持っていた、坑道の見取りの写しだった。
「あのさ」
最初の言葉は、謝罪ではなかった。決意でもなかった。
「三つ、決めたい」
五人が、顔を上げた。
「一つ。灯りが二つとも消えたら、戻る」
シンは指を折った。
「二つ。目印を見失ったら、戻る」
二本目。
「三つ。誰か一人でも列から離れたら、戻る。——採ったものがどれだけあっても、赤字でも、戻る」
三本目を折って、彼は手を下ろした。
「これ、俺が決める。俺が『行ける』って言っても、この三つのどれかに引っかかってたら、無効だ」
誰も、すぐには口をきかなかった。
「自分で自分を縛るってこと?」
ドレッシングが訊いた。
「うん」
「あんた、それ守れんの」
「守る」
シンは即答した。
「守れなかったら、止めてくれ。……アミアンさんが」
「言ったでしょう」
アミアンが、腕を組んだまま言った。
「次は、私が止めるって」
オタキラーが、鼻を鳴らした。
「ほな、わいは残量を毎回声に出して言うわ。あんたの三つ目に引っかかる前に、数字で引っかけたる」
「私は前だ」
「俺は帰り道な」
「私は、後ろから全員の背中を見ています」
シンは、五人を順に見た。
目の奥が、少し熱くなった。それを気取られたくなくて、彼は紙を広げるふりをした。
「じゃあ、支度からだ」
◇
支度には、十日ぶんの稼ぎが必要だった。
その大半を作ったのは、アミアンが単独で受けた依頼である。
彼女は多くを語らず、朝に出て、夕に戻り、報酬を袋へ入れる。それだけを繰り返した。ただ一度、シンが同行を申し出たとき、断られた。
「七等の同行者がいると、七等の依頼になるのよ」
「……あ」
「私が一人で受ければ、三等の値がつくの。それだけの話よ」
その日、彼女は街の外の依頼から戻ってきた。レイピアの刃に、焼けた樹脂のような匂いが残っていた。
「何と戦ったんだ?」
「植物よ。冷たいものと、燃えないものが苦手なの」
「へえ! どうやって」
「こう」
彼女は、抜いた刃を軽く振った。
「——〘炎刃〙」
細身の刃に、赤い筋が走った。
焼くのではない。刃の縁だけが熱を帯びて、空気を歪ませている。彼女はすぐにそれを消した。
「広く焼くと、素材まで燃えるもの。刺すところだけでいいのよ」
◇
シーザーは、毎朝、教会の階段で掌を灯し続けている。
九日目に、彼の掌の光が、七つ数えるあいだ保った。
十日目には、剣に灯った。
「陽光の神よ」
祈りの言葉は、癒しのときと違っていた。
「——〘聖刃〙」
刃の縁に、淡い白光が乗った。
乗って、揺れて、三つ数えたところで、ふっと消えた。
「……まだ、消える」
「でも、点いたじゃないか!」
「点くだけでは意味がない。あれは、不死者の前で保たねばならん」
彼はもう一度、剣を掲げた。
◇
オタキラーは、三軒を回っている。
紙材店で専用紙の束を値切り、魔法薬材店でインクと結着樹脂を量り売りにさせ、精錬所で銀粉と雲母粉の値を確かめた。雷性鉱石の粉は、聞くだけ聞いて、買わなかった。
「高いのか?」
「高い。今の稼ぎ全部を二か月ぶん突っ込んで、雷閃が二枚や。……それやったら、他のもんが買える」
彼は宿の卓で、夜通し紙を伸ばしていた。
シンが夜中に目を覚ますと、まだ座っていた。細い筆で、羊皮紙の上へ細かい線を引き続けている。同じ形を、何度も、寸分違わず。
「……何作ってんの」
「静壁が一枚。それと、透眼を三枚」
「とうがん?」
「見えんもんを見る術や。空気の流れ、隠し扉、術式の残り香。第一階梯やさかい、値は安い」
彼は筆を止めずに続けた。
「安い言うても、紙は要る。インクも要る。触媒も微量やが要る。ただでは一枚も出えへん」
シンは、その手元を見ていた。
線は、少しも震えていなかった。
「オタキラー、それ、すごく上手いんだな」
「そら、何十年もやっとるからな」
「何十年」
「……まあ、そのくらいや」
卓の向かいで、椅子が鳴った。
アミアンだった。眠っていなかったらしい。
「あなた、スクロール師なの?」
オタキラーの筆が、線の途中で止まった。
止まったのは、一瞬だった。
「一応、ウィザードや」
「そう」
彼女は、それ以上訊かなかった。
訊かない代わりに、しばらく彼の手元を見ていた。
◇
最後は、道具屋である。
六人で行った。アンリも、ゆっくりだが自分の足で歩いてきた。
ランタンをもう一つ。これで前後に二つになる。予備の油と火種は、別々の者が持つ。チョークは多めに。アンリの防具は、僧衣の下に着られる軽い革の胴当てにした。値札を見てオタキラーが唸ったが、誰も安いほうを勧めなかった。
勘定は、オタキラーが締める。
棚の一番下に、麻縄があった。
シンが、それを見つける。
太いほうと、細いほう。値札は前と同じだ。
誰も、何も言わなかった。
ドレッシングが太いほうを掴んで、籠へ入れた。
「重いんだよなぁ、これ」
彼は、そう言っただけだった。
「担ぐけど」




