第八話 あの広間を、今度は越える
入坑前。坂を下りきった詰所で、六人は最後の確認をしていた。息はまだ白い。日はまだ稜線の向こうだ。
アミアンの点呼が回った。灯りは前と後ろで別の手に。油と火種も、別の腰に。
チョークも縄も、答えは即座に返り、誰も二度訊かれなかった。
あの朝と違うことは、それだけで分かった。
「撤退条件」
シンが、指を三本立てながら答えた。
「灯りが二つとも消えたら戻る。目印を見失ったら戻る。誰か一人でも列から離れたら戻る」
全員が、その三つを繰り返す。
声が揃ったわけではない。ばらばらに、それぞれの声で言った。ただ、六人ぶんの口から同じ言葉が出た。
アミアンは、その音を聞いていた。
長く、あちこちの隊列を見てきた。復唱する集団は、そう多くない。
「行くわよ」
◇
浅層は、驚くほど早く抜ける。
同じ道だ。だが今度は、分岐のたびにドレッシングが壁へ印を打った。打つのに、二呼吸もかからない。打ちながら「三つ目」「四つ目」と数を声に出し、後ろの誰かがそれを繰り返した。
大鼠には、狭い場所で当たった。燐喰い蛾には、灯りを絞って逸らした。
どちらも、前と同じ手だ。
違うのは、時間だった。前は考えながら動いていた。今は、考える前に体が動いている。
先頭から、ドレッシングの声が飛ぶ。
「アミアン、右の脇道」
「見てるわ」
「列の後ろは、私が見ます。誰も離れていません」
アンリの声が、いちばん後ろから来た。
彼女は最後尾にいた。革の胴当てを僧衣の下に着て、杖を斜めに構えて、五人の背中を全部見渡せる位置に。
前へは、出ていない。
◇
三つ下の層で、声を聞いた。
人の声だ。
「——誰かいる」
ドレッシングが手を上げる。
角を曲がった先の広がりに、四人が固まっていた。
三人が立っていて、一人が倒れている。倒れている男の腿から下が、赤黒く濡れていた。布を巻いた上から、もう一度巻いてある。二度目の布も、すでに色が変わりかけていた。
「触るな! こっちで——」
立っていた男が、こちらを見て身構えた。
見覚えのある顔だった。ギルドの卓の向こうから「浅層はそんなもんだよ」と言った、年嵩の男だった。
「治療は要るか」
アミアンが、倒れている男から目を離さずに訊いた。
男の顔色が変わった。
「僧侶がいるのか?」
「いるわ」
アンリが前へ出ようとして——足を止めた。
止めて、代わりに声を出した。
「兄さん、先に止血を。私は、そのあとです」
「承知」
シーザーが、倒れた男の脇に膝をついた。
鎧の重さで石が鳴る。彼は布をずらし、傷の位置を確かめ、掌を当てた。
「大地の神よ」
声が低い。
「——〘癒手〙」
淡い光が、掌の下へ落ちた。
派手なことは、何も起きなかった。傷が塞がりもしなければ、男が跳ね起きもしない。ただ、布へ広がっていく赤の速度が、目に見えて落ちた。
「……止まってる」
連れの一人が呟いた。
「止めただけだ。塞いではおらん。急げ」
「アンリさん、行けるか」
「はい」
アンリは、そこで初めて膝をついた。
シーザーが場所を空け、その位置に彼女が入る。傷の全体が見える距離。他の五人が、周りを囲んで立っている。誰も彼女の前にいない。誰も彼女から離れていない。
彼女は杖を置き、両手を傷の上へかざした。
「大地の神ヴィルヴよ。この方の血を、体へお戻しください」
詠唱は、長かった。
シンは、その長さに驚いた。あの日、彼女が前へ出て唱えた術は、一息だった。こちらは違う。息を継ぎながら、言葉を積み上げていく。
「——〘癒光〙」
光は、白ではない。
薄い金色の膜が傷を包み、裂けた縁が内側から寄っていく。全部は塞がらない。だが、奥のほうが埋まったのか、男の呼吸が、深く、長くなった。
アンリの額に、汗が浮いている。
「これで、運べます。走らせないでください」
「……あんた」
年嵩の男が、彼女を見た。
「七等じゃないだろ」
「七等です」
アンリは、杖を拾って立ち上がった。
「登録では、そうなっています」
◇
四人を送り出したあと、六人は先へ進んだ。
オタキラーが袋の中身を数えた。
「傷薬、二つ減った。油はまだある。時間は昼まで」
「引き返すか?」
ドレッシングが、灯りの油の残りを覗きながら訊いた。
シンが、指を三本立てた。
灯りは二つとも点いている。目印は打ってある。誰も列から離れていない。
「行こう。あの広間まで」
「了解」
◇
広間の入口で、六人は止まった。
闇の奥から、爪音が聞こえた。
一つ、二つ、三つ。前と同じだ。数も、たぶん同じくらいいる。
アミアンは、隊列を見た。
シーザーが前。シンがその右。自分が左。ドレッシングが後方から刃を投げる位置。オタキラーが灯りを持ち、アンリが最後尾。
全員が、前に来る前に自分の位置へ入っていた。
「アンリ、退路から」
「はい」
アンリの声は、震えていなかった。
「——〘退骸〙」
光が広がった。
あの日と同じ、押すだけの光だ。
違うのは、彼女が一歩も前へ出ていないことだった。
後方から掛けても届く距離に、隊列が寄っていたからだ。
群れの前列が、揃って下がった。空きができる。
「——〘聖刃〙」
シーザーの剣に、白い光が乗った。
揺れている。今にも消えそうだ。だが彼は消える前に踏み込んだ。
空いた場所へ、盾ごと入る。剣を横へ薙ぐと、触れた個体が煙を上げて崩れた。彼は前へ出すぎなかった。空きの縁に立って、そこで足を止め、盾を斜めに構えた。
退路の口を、体で押さえたのだ。
「保たせる!」
「三十で戻る!」
シンが叫び返した。
ドレッシングの刃が飛び、右から回り込もうとした個体の膝を裂いた。
左は、アミアンが壁を蹴り、刺し、抜き、また蹴る。彼女の後ろから、誰も追い越さない。
奥で、大きな一体が身を起こした。
他より頭一つ高い。腕が異様に長く、その爪が石を掻いた音は、他のどれより低かった。
ランタンの光が動き、その一体の輪郭が浮かんだ。。
肩の関節が、剥き出しになっていた。
「——〘魔光矢〙」
アミアンの指先から、白い光が三つ、続けて飛んだ。
派手さはない。だが正確だった。剥き出しの関節へ三つとも吸い込まれ、腕が下がる。下がったところへ、シンの剣が入った。
だが、深追いをしない。斬って、下がった。下がった先には、シーザーの盾の縁があった。
「二十!」
「まだ保つ!」
「十五!」
数える声が、戦いの中で続いた。
◇
十を数えるあたりで、シーザーの盾の光が薄くなった。
同時に、後方の灯りが一つ、揺らぐ。
オタキラーの持つ球ではない。ドレッシングの腰のランタンだ。油が跳ねたか、風か。炎が細くなり、消えかけていた。
シンの視線が、そこへ飛んだ。
——灯りが二つとも消えたら、戻る。
まだ、一つだ。消えかけているだけだ。
だが、それは条件に触れる手前まで来ている。
シンは、口を開いた。
「ドレッシング! 灯り!」
「わぁってるよ!」
ドレッシングはナイフを投げるのをやめ、腰の火種を叩いて、消えかけた芯へ移した。
二呼吸。
炎が、戻った。
「点いた!」
「よし!」
条件は、発動しなかった。
「——抜けるぞ!」
シーザーが盾を引いた瞬間、六人はまとめて広間の反対側へ抜けた。
あの日、抜けられなかった側だ。
背後で、群れの爪音が壁に当たって散っていく。追ってくるものはいた。だが退路の口が狭く、そこはシーザーの盾が最後に押さえていた。
六人は、走った。
しばらく走り、角を二つ曲がって、ようやく足を止める。
誰も、声を上げなかった。
シンが、膝に手をついて息をした。長い呼気が、暗がりに落ちる。
歓声は、なかった。
◇
ドレッシングが顔を上げたのは、その直後だった。
「……なあ」
「何」
「風が来てる」
彼は立ち上がって、通路の壁へ寄った。
古い石壁だ。年代の違う石が積み重なっていて、表面には黒い煤が乗っている。何の変哲もない。
彼は掌を当てた。
当てて、少し横へずらした。また当てる。
「ここだ」
「壁じゃないの?」
「壁だよ。壁だけど、向こうが空いてる」
彼は膝をつき、床を見た。
「石粉が落ちてる。新しい。それに、ここだけ継ぎ目の煤が薄い。誰かが、何度も開けてる」
彼の指が、継ぎ目を辿った。辿って、上の隅で止まった。
「……こういうのは、たいてい上だ」
石が、動いた。
重い音を立てて、壁の一部が奥へ滑る。
冷たい風が、その隙間から吹き出した。
地下の空気より、さらに冷たかった。そして、埃の匂いがしなかった。
「通ってるな、これ」
「どこへ」
「知らねぇよ」
ドレッシングは、隙間の向こうへランタンを差し入れた。
「……足跡だ」
「何人ぶん?」
「数えられない。十以上」
彼は光を下へ向けた。
通路の床は、削られて平らになっていた。人が何度も往復した跡だ。靴の形はばらばらで、大きいのも小さいのもある。子供のものらしい小さな跡さえあった。
「妙だな。戦った跡がない」
ドレッシングは、光を壁へ滑らせた。
「刃の傷も、血も、焦げもない。俺たちが通ってきた道には、どこにでもあった。ここには、一つもない」
「……あの広間を、通ってきていない?」
「そういうことになる」
彼は立ち上がった。
「どっかに、別の入口がある」
◇
通路は、降っていた。
六人は、灯りを絞って進んだ。
シンが先頭のすぐ後ろにいた。空気が、少しずつ暖かくなっていく。地下なのに、外気の匂いが混じりはじめる。
やがて、音が聞こえてくる。
最初、水の音かと思った。
違う。
人の声だ。それも、大勢の。
一つの旋律を、揃って口ずさんでいる。上下のない、平らな唱和だった。
通路の先が、広い空間へ抜けていた。
シンは、岩陰から覗き込む。
古い広間だった。天井が高く、正面に石を組んだ壇がある。壇の前に、人が集まっていた。
三十人はいる。
武装は、していなかった。
外套を着た者、前掛けのままの者、杖をついた老人。子供を抱いた女がいた。腕を吊った男がいた。作業着の膝が擦り切れているのは、坑夫だろう。
どこにでもいる街の人々が、地の底で、揃って祈っていた。
誰も武器を持っていない。誰も脅されていない。全員が、自分の意思でそこに立っていた。
「なんだ、これ」
シンの足が、前へ出た。
「訊いてくる。ここ、危ないって——」
肩を、掴まれた。
強い力だ。骨まで届く握り方で、シンの体は半歩ぶんも動かない。
振り返ると、ガレスが立っていた。
いつからそこにいたのか、誰も気づかなかった。
「動くな」
声は、囁きに近かった。
「見るのはいい。声を出すな」
「なんで——」
「戻るぞ」
男の手は、離れなかった。
「今すぐだ」
唱和は、まだ続いていた。
シンは、その手を掴んだ。
「あんた、知ってるのか」
「……」
「あそこにいるの、街の人だろ。子供までいる。あんた、あれが何なのか知ってるのか」
男は、答えない。
答えないまま、シンの肩から手を離し、来た道を顎で示した。
シンは動かなかった。
「説明しろよ」
男が、初めてシンの目を見た。
その顔には、何の表情もなかった。ただ、疲れた老人の顔だった。
「上でだ」




